カテゴリー : 02 第二章 箒木

十五 ゲンジ、また中川へ空蝉に逢いに行く

(現代語訳)
 ゲンジの君は、いつものように後宮に引きこもっていたが、ちょうどよい方位除けの日を待って、急に思い出したような素振りで、中川の家へ立ち寄った。紀伊のカミは驚いて、「庭の水の手柄ですね」などと神妙な顔をして喜んでいる。弟には事前に昼間から、「今日は姉さんに逢いに行く」と打ち合わせてあるのだ。一日中そばに連れている弟なので、今夜もすぐに呼び寄せる。空蝉にも手紙を渡してあった。空蝉は、こうまでして訪ねてくる源氏の気持ちを、女心に嬉しく思ったが、「だからといって簡単に心を許してしまえば、醜態をさらすだけ」と頑なだ。あの悪夢のような過ちを再び繰り返してはならないと悩んだ。「こういう風にゲンジの君を迎える運命の女ではない」と心に決めて、弟がいなくなった隙に、

 「ゲンジの君の近くにいるのは申し訳ないわ。体調も良くないみたいだから、そっとマッサージをして欲しいの。どこか遠くの部屋へ連れて行って」

と言って廊下の奥に、あの中将の女官の部屋があるので逃げた。その気になっているゲンジの君は、家来をさっさと寝かしつけてスタンバイしているのだけど、弟は空蝉を見つけることができない。あちこちを探し回り、廊下をすり抜け、やっとのことで捜し出した。「非道いよ、あんまりだよ」と思い、

 「僕が使えない子供だと思われるよ」

と泣きべそをかいている。姉は、

 「何て悪い子なの。子供がこんなお使いをするのは、いけないことなのよ」

と叱りつけ、

 「気分が悪いから、女官たちのそばで介抱してもらっていると言いなさい。周りの人に怪しまれるでしょ」

と追い返す。本当は、「まだ結婚していない頃、お父さんも生きていたあのお屋敷へ、思いがけなくゲンジの君が訪ねてくるのを待ってるのなら、きっと幸せだったのに。意地を張って知らんぷりしているのだから、身の程知らずの馬鹿な女だと思われているでしょうね」と胸が締め付けられる思いなのだった。それでも、「人妻の私は、どう転んでもゲンジの君とは結ばれない」と諦めて、「嫌な女で押し通そう」と覚悟を決めた。ゲンジの君は、どんな段取りになっているのかと、頼みの弟がまだ子供なので心配だ。寝っ転がりながら待っていると、弟が「失敗しました」と伝えに来た。

 「意地悪な女だな。開いた口が塞がらないよ。私は恥ずかしくなってきた」

と嘆くゲンジの君に、哀愁が漂う。しばしの沈黙の後、ため息ひとつ。切なくてたまらないようだ。

 「近づけば消えてしまう箒木のあなたと知らず彷徨うばかり
もう何も言わないよ」

と一首詠んで贈った。空蝉も眠れないで悶えていた。

 つまらない荒れ屋に生きる私です あなたの前から消える箒木

と返歌する。弟はゲンジの君が不憫でしかたなく、一睡もせずに行ったり来たりしている。空蝉は、

 「みんなが怪しむ」

と気が気でない。例のごとく家来たちは泥酔して深い夢の中だ。ただ一人、ゲンジの君だけは悔しくて目をギラギラさせている。珍しいほど気の強い女で憎たらしいのだけど、恋しくて、近づくと見えなくなってしまうという箒木のように、都合良くは消えてはくれない。悔しいのだけど、「こんな女だから惹かれてしまうのかも知れない」と思う。あまりの仕打ちが気に食わず、どうでも良くなってくるが、やっぱり、どうでも良くないのだ。

 「やむを得ん。隠れているところに連れて行ってくれ」

と言うと、弟が、

 「無理です。戸締まりが厳重で、見張りの女官がたくさんいます。そんなところへは連れて行けません」

と答えた。弟は、ゲンジの君が気の毒で仕方ない。

 「わかったよ。だったら、お前だけはそばにいてくれ」

とゲンジの君は、弟をそばに引き寄せる。目の前で、その若くて美しい美貌にドキドキしている弟を見て、「冷酷な空蝉より、この子の方がよっぽど可愛い」と思うのだった。

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十四 ゲンジ、空蝉の弟をそそのかす

(現代語訳)
 左大臣の家に帰っても、ゲンジの君はすぐに寝付けない。「再び逢瀬を重ねる術を知らない自分だけど、それ以上に空蝉の胸中はどんなだろう」などと考えてしまい、煩悶するしかなかった。「至って普通の女であったが、身なりも悪くなく清潔感も漂う中流階級の人だった。さすが恋愛のプロフェッショナル。左馬のカミが言うことも、もっともだ」と共感までした。

 近頃のゲンジの君は、左大臣の家に引きこもってばかりだ。「あれっきりになってしまったけど、空蝉はどう思っているのだろう」と可哀想に思い、胸がグルグルとかき回されるので、思い切って紀伊のカミを呼び出した。

 「この前見た、中納言の子の面倒を私にみさせてくれないか。可愛らしい子だったから、身の回りの世話をさせたいんだ。後宮にも私が口添えしてあげよう」

とゲンジの君が言うと、

 「もったいない御言葉。あの子の姉に聞いてみます」

と紀伊のカミが答えた。姉と聞いて、ゲンジの君の胸が高鳴る。

 「そのお姉さんというのは、君の弟を産んだのかい?」

 「いえいえ。そういう子はいませんよ。二年前から後妻として暮らしていますが、父親の望む結婚ができなかったと嘆いて、もぬけの殻のようにしていると聞いています」

 「痛ましいね。なかなかの美人だって噂じゃないか。本当にそうなのかい?」

 「悪くはないでしょう。ただ、血のつながらぬ母なので離れて暮らしていて詳しくは知らないんです。世間体もありますしね」

と紀伊のカミは言う。

 そして、五日、六日と過ぎていったある日、この弟を連れて紀伊のカミがやってきた。よくよく見てみると、美少年というわけでもないのだが、気品が漂っていて、いかにも貴族っぽいのだ。近くに侍らせて、仲良く話してやると、子供心にも、ゲンジの君に可愛がられることをうれしく思っているようだった。ゲンジの君は姉のことを詳しく聞いてみる。弟が、差し障りのないことだけ答えて、落ち着き払っているので、一瞬戸惑ったが、段階を踏んで姉への恋心を説明した。弟は「そうなのか」と、察して耳を疑ったが、まだ子供なので、それ以上のことはわからなかった。そして、手紙を渡されて姉の所へやって来る始末なので、空蝉は愕然として泣けてきた。弟の目の前で恥ずかしくて仕方なかったが、読まないわけにいかず、手紙を広げて顔を覆って読んだ。手紙は文字で埋め尽くされている。

 「もう一度あの夜のこと夢見ても 目を閉じぬまま日々が過ぎてく
眠れないのだから、夢も見られません」

などと目のくらむような筆跡なのだった。空蝉の視界は涙で曇り、運命を呪って泣き崩れる。

 翌日もゲンジの君は弟を遣わした。弟は「これからゲンジの君の所へ行きます」と言って、空蝉に返事を求める。

 「こんな手紙を見る人は、ここにはいないの。そう答えて差し上げて」

と姉が言うので、弟はニヤニヤしながら、

 「人違いではないって聞いているのに、どうしてそんな返事ができるの」

と言った。空蝉は、「すべてをこの子に教えてしまったのね」と思い、恥ずかしさに胸まで痛くなるのだった。

 「こら。大人を馬鹿にしちゃだめよ。そんなことを言うなら、もうあの人の所には行ってはいけません」

と姉は弟を叱る。弟は、

 「呼ばれているんだから行かなくちゃ」

と言い残して、ゲンジの君のもとへと向かった。実は紀伊のカミもスケベ心で、「継母が父の後妻であることをもったいない」と思っていた。空蝉に気に入られたい一心で、この弟を可愛がり、連れて歩いているのだ。ゲンジの君は、弟を呼び出して尋問する。

 「昨日も一日中、お前を待っていたのに待ちぼうけだ。私が思っているほど、お前は私のことを思ってくれないんだね」

と八つ当たりするので、弟は赤面し、硬直した。「返事はどうしたの?」と聞けば、「こんなことがあって……」と答えるだけなので、「愚痴を言っても仕方がないが、あきれたな」と言い、性懲りもなく、また手紙を渡す。

 「お前は知らないと思うけど、お前の姉さんは、あの伊予の老人と結婚する前に、私の恋人だったんだ。でもね、私のことを子供扱いして、当てつけに変なオッサンと結婚してしまった。だから、お前だけは私の子になって欲しいよ。あのオッサンも先が短いんだからさ」

とゲンジの君が適当なことを言うと、弟は「そんな波瀾万丈があったの。胸が痛い」と同情しているようなのだ。ゲンジの君は、そんな仕草を「かわいい」と思う。それからは、いつでも弟をそばに置いて、後宮にも連れて行った。お抱えの仕立屋に注文して衣装も作らせ、実の親のように可愛がる。

 空蝉は何通もの恋文を受け取った。けれども、幼い弟が心配で、「間違って手紙を落としたり、このことが知れ渡ってしまったら、惨めな境遇が浮ついた噂話でよりいっそう惨めになる」と思った。ゲンジの君の気持ちを有り難く思うのだけど、「自分の身分とは釣り合わない」と、決して心を許さず、返事も書かなかった。ぼんやりと見たゲンジの君が信じられないほど美しかったから、自然と思い出されてしまうが「その姿を見たところで、自分とは関係ない」と我にも返った。ゲンジの君はといえば、いっときも空蝉を忘れられず、ただ恋しくて甘酸っぱい気分に浸っている。あの危険な逢瀬で空蝉が苦しんでいた姿を不憫に思ってモヤモヤするばかりだ。しかし、不用意に逢いに行くことはできない。あの家に紛れ込みたくても人目が多すぎるのだ。「誰かに見つかってしまったら彼女の立場が悪くなるだろう」と逡巡するばかりだった。

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十三 ゲンジと空蝉のきぬぎぬ

(現代語訳)
 ニワトリが鳴きだすと朝になった。ゲンジの君の家来たちが起床して、「朝寝坊するほどよく寝たな」とか「車を引き出せ」なんて言っている。紀伊のカミも起きたようだ。「女性の家に方位除けに忍び寄ったんじゃないんですから、こんな朝っぱら急がなくても」と引き留める。

 ゲンジの君は、こんなチャンスが、また巡ってくるとは思えなかった。だからといって、「こちらから逢いに行くわけにもいかないし、手紙を交わすことも困難だ」と途方に暮れている。奥の部屋から中将の女官が来て、困り顔の様子だ。空蝉を戻してあげようとするのだが、引き留めないではいられない。

 「あなたとどうやって文通したらいい? あなたの冷たい仕打ちへの恨みも、愛しさも半端じゃない。こんな気持ちになるなんて」

と泣きつく姿も、ただまぶしい。そして、ニワトリが騒がしく鳴き続けた。

 冷たさを恨みきれずに明ける夜 鶏は我らを起こしてくれるな

ゲンジの君が、いそいそと一首詠む。光り輝くゲンジの君を目の当たりにして、空蝉は自分のみすぼらしさに、かえってたじろいでしまう。何と言い寄られても、うれしくないのだ。いつもは嫌いで仕方がない、夫がいる伊予の国が恋しい。そして「夫が変な予知夢でも見ていないだろうか?」と不安になるのだった。

 過ぎ去りし日々の不幸を嘆く間もなかった夜明け 鶏と泣きあう

日が昇りはじめると、夜明けは早い。空蝉は扉の側までゲンジの君を送った。家の外でも中でも人々が目覚めて、ざわついているから素早く扉を閉める。ゲンジの君には扉が天の川のように思えた。

 ゲンジの君は、上着を身につけ身支度を終えると、南側の欄干に寄りかかって外を眺めた。西側の格子戸を、せっせと開けて、誰かがゲンジの君を覗いている。縁側の真ん中に立っている間仕切りから、ゆらゆら浮かんで見えるゲンジの君に発情している浮ついた女たちもいるようだ。日が出ても、空には月が浮いていた。光を消して影を浮かべ、気持ちよさそうに泳いでいる。こんなどうでもよい空の景色でも、見る人の心次第で、ときめいたり、哀愁をおびたり。秘めた思いの切なさよ。ゲンジの君は「手紙を送ることもできないのに」と、未練たっぷりに立ち去る。

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十二 ゲンジ、空蝉を夜這う

(現代語訳)
 ゲンジの君は切なくて眠れない。寂しい独り寝は目が冴えるばかりだ。北側の紙の扉の向こうに人の気配がする。「もしかして、あの姫君がいるのだろうか?」と甘い気持ちもあって立ち上がった。全神経を集中して立ち聞きしていると、紀伊のカミが話した弟君の声がするのだった。

 「お姉さま。どこにいるの」

震える声が可愛らしい。

 「ここよ。ここで寝ているの。お客様はおやすみになった? 近いところにいるのかと思っていたけど、遠くにいるようね」

眠たそうな声が弟君とよく似ているので姉だとすぐに知れた。

 「廂のある部屋でおやすみになりました。評判のとおり本当に綺麗な人なんです」

弟君は声をひそめて言う。

 「昼間だったら隙間から見てみたかった」

お姫様は着物で顔をおおうようにして、眠そうに言った。「もう少し真面目に聞いて欲しいね」と、ゲンジの君は拍子抜けするのだった。

 「私は端っこで寝るね。真っ暗」

とお姫様が言うので、弟君が灯りを立てているようだ。彼女は紙の扉を隔てて、ゲンジの君の対角線上に寝ている。

 「中将の女官はどこに? 近くに誰もいないような気がして怖い」

お姫様が呼ぶと、

 「風呂に行きましたが、すぐ戻ると言ってました」

と部屋の下から、誰かの声がする。

 夜も更けて、みんな寝静まった。「試しに」と、ゲンジの君は紙の扉の掛け金を引っこ抜いてみた。簡単に扉が開いたので、侵入に成功してしまう。向こう側から鍵がかけられていなかったようだ。ゲンジの君は、うす暗い灯りを頼りに、散らかった収納箱をかき分けて侵入を続けた。お姫様の気配のする場所まで来ると、女がひとり小さく丸まって眠っているのだった。ゲンジの君は良心の呵責に苛まれながらも、顔をおおっている着物をつまみ上げた。お姫様は中将の女官が風呂から戻ったと思っている。

 「中将を呼んでいましたね。私の想いが届いたと思いました」

ゲンジの君は近衛中将である。パニック状態の空蝉は、悪夢の続きを見ているように「あん」と抵抗するのだが、顔が着物でふさがって、声にならない。

 「私は好奇心で奇襲をかけたのではありません。昔からあなたが好きだったのです。胸の想いを聞いて欲しかった。今宵のようなタイミングを待っていたのだから、こうやってあなたを捕獲する運命だったのです」

こんな場合でもゲンジの君は爽やかだ。この男には天誅でさえ避けて通るだろう。美しいオーラをまとって近づいてくるので、空蝉はむやみに「ここに変態が」と叫ぶことができない。自らの不甲斐なさに、空蝉は泣くしかなかった。「人違いです。おねがいやめて」と消えてしまいそうな声で抵抗する。混乱したまま暗闇にまみれていく空蝉の姿が、たまらなく愛くるしい。

 「人違いなどしませんよ。あなたへの想いが私を導いたのです。それでもあなたは知らんぷりですか? 私は変態や遊び人ではありません。ただ、この想いをあなたに伝えたいんです」

ゲンジの君は、小さな空蝉を抱き上げて紙の扉の向こう側へと連れて行く。そのとき、中将の女官が風呂から帰ってきた。ゲンジの君が「やあ」と言ったので、中将は異常を感じて周囲を探る。ゲンジの君から漂う甘い芳香が中将の鼻先に広がったので、とっさにすべてを察したようだ。非常事態に中将もパニックをおこし、言葉が出ない。普通の変態ならば力ずくでも反撃にでるのだが、それでも大声を出して人に気がつかれたら、空蝉の恥になる。中将の心拍数が上がっていく。後を追いかけたが、ゲンジの君は空蝉を抱いて寝室へ入ってしまった。

 「夜が明けたら迎えに来なさい」

と紙の扉を閉める。空蝉は中将の胸中を思うと、割り箸みたいに真っ二つに割れそうになるのだった。汗が止めどなく流れ、悶える姿が色っぽい。ゲンジの君は可哀想にも思いながら、いつものように口が自動的に女を口説きだす。誠意いっぱいに女心をこじ開けるのだが、空蝉は、ますます惨めな心地がして、悲しみに心を閉ざす。

 「悪夢の続きだと言ってください。私が庶民だからって、あなたは見下している。遊び心じゃないなんて、どうやって信じたらいいの。私たち庶民には庶民の生き方があるの。お願い、放して」

 無理矢理押し倒したゲンジの君の傲慢さを恨んでいる。そんな空蝉を、ゲンジの君も不憫に思い、間が悪くなる。

 「私は人の階級など知らないガキなんだ。あなたが私を普通の変態扱いするから悲しいよ。私が馬鹿な火遊びをしないって、あなたも知っているはずでしょう。あなたは私を狂わせる。我慢できないんだ。だから軽蔑されても構わない」

全身全霊をこめて口説くのだが、空蝉は硬直したままだ。この眩しく輝く男の姿を目の当たりにして、「心を許してしまったら、いっそう惨めになるだけ」と思うのだった。このまま可愛くない嫌な女だと思われたかった。優しくておとなしい空蝉が強がると、竹のようにしなって、折れそうで折れない。本気で拒み涙を流す様子が、ゲンジの君にはいとおしい。可哀想なことをしていると思うのだが、今夜を逃したら後悔するとも思う。「求めてられてはならぬ恋だ」と悲しみに暮れている空蝉に、ゲンジの君は、

 「なぜ嫌がるんだ。私たちはもうこうなっている。定めなんだよ。子供みたいに男と女の事を知らないふりして、とぼけて泣いているんだね。意地悪な人だ」

と強引に襲いかかる。

 「私が人妻になる前の憂鬱な昔に、今夜のようなあなたを受け入れたなら、身分も忘れて愛し合えたかも知れないわ。今度あなたに抱かれることを慰めにする夜もあるでしょう。でも、ひと夜かぎり愛されて、途方に暮れるのはいや。あなたに抱かれても、今夜のことはなかったことにして。おねがい」

空蝉が泣きながら言うことも、もっともだ。ゲンジの君は心をこめて慰め、多くの約束を交わしたのだろう。

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十一 ゲンジの君の方位除け

(現代語訳)
 翌朝、やっと雨が上がった。ゲンジの君は、こうまで引きこもっていると左大臣家の人に悪いと思い、後宮を後に訪ねてみる気にもなった。家の様子はさっぱりしている。アオイも垢抜けて、取り乱すこともない。やはりこの人も昨夜の話にあった、放っておけない女の一人だろうと安心するのだが、あまりにも淑やかで、逆に近寄りがたいのだった。アオイのツンツン顔が歯がゆくて、ゲンジの君は中納言の君だとか中務という、女官の若い美少女たちと冗談などして戯れあう。蒸し暑さに着物をはだけているゲンジの君の姿に、女官たちは夢見心地で眼差しを向ける。そこへ左大臣もやってきた。リラックスしているゲンジの君を気遣って、仕切りの向こうから話そうとすると、ゲンジの君は「こんなに暑いんだから」と顔をしかめた。女官たちが笑い出すので「静かに、静かに」と言って、肘掛けに寄りかかってくつろいでいる。

 暗くなって、

 「今夜、この御殿から後宮までが天一神の通り道になっていまして、方角が凶です」

と、家来が知らせた。

 「そうだった」

と答える。普段なら避ける方角なのだ。

 「二条院の里邸も同じ方角だ。暑くて怠いのに、どこへ行ったらいいのやら」

と面倒くさそうにゲンジの君は寝てしまう。慌てて「それはなりません」と家来が制する。

 「親しくされている紀伊のカミの所があります。最近あの家が中川を池に引き入れて涼しそうですから」

と他の家来が言うので、

 「渡りに船だ。何もしたくないのだから牛車のまま入れる所がいいね」

と他人事のようだ。今夜の方位除けに行く愛人の家などは、いくらでもあるのだが、久々の左大臣家である。「方位除けにかこつけて別の女の元に向かうのね」とアオイに思われるのが嫌だったのだろう。紀伊のカミを呼んで「泊めてくれ」と言う。紀伊のカミは屋敷に戻ってから、

 「父の伊予のスケ朝臣の家にも方位除けがあって、女官たちが泊まっているんだ。狭い家だから失礼なことにならないか」

と悲鳴を上げたが、ゲンジの君が聞きつけて、

 「そうやって人が近くにいるのがいいんだ。女っ気がない旅の夜は怖くて眠れそうにないからね。女官がいる部屋の仕切りの後ろに寝かせてくれなかな」

と戯れる。

 「それならばもってこいの宿です」

と家来たちも言い、紀伊のカミの元へと遣いを走らせる。忍びの旅だ。たいした場所じゃないからと急いだので、左大臣にも挨拶をせずに側近だけを連れて出発した。紀伊のカミが「突然のことだから」と迷惑そうにしているが、誰も聞く耳を持たない。屋敷の東向きの部屋を片付けさせると、ゲンジの君の寝床になった。水がそよそよと流れ、見事に造園された庭がある。結んだ芝垣を秘境のようにめぐらせて、植えてある木や草も手間がかかっている。風が吹き抜けると涼しく、草の中から虫の声が聞こえた。蛍が光っては消えていく幻想的な光景なのだ。側近たちは、渡り廊下に腰掛け、流れる水を眺めて酒を飲んでいる。紀伊のカミは肴を調達しようと「こゆるぎの磯」ではあるまいが、忙しく奔走している。そんな気も知らずにゲンジの君は景色を眺めながら、「中将たちが中流階級と言っていたのは、こんな感じの家だろう」と思っているのだった。のちに空蝉【ウツセミ】と呼ばれる伊予のスケの妻は、プライドの高い姫君だと聞いたことがあるので、「どこにいるのだろう」と耳を澄ませば、屋敷の西側に人の気配がした。ひらひらと衣擦れの音と、若い女の声が心地よい。それでも、笑い声をこらえているのでよそよそしくもある。窓が吊し上げてあったが、紀伊のカミが「はしたない」と下げてしまった。今は灯りが漏れて襖に影を作っている。ゲンジの君は、忍び足で近寄ってみた。覗いてみたいのだけど隙間がない。仕方がないので聞き耳を立てると、自分の部屋の近くにいるのだろうか、小さな声で話しているのが聞こえるのだった。どうやら女たちはゲンジの君の噂をしているらしい。

 「とても誠実ぶって、若いのに上流階級の奥方様までいらっしゃるから寂しいんでしょう」、「でも、内緒で通う家もたくさんあるそうよ」

などと話している。ゲンジの君の頭の中は藤壺の宮でいっぱいだから、これを聞いてハッとする。「こんな噂話を、あの人が聞いたとしたら」と心配になってくるのだった。しかし、この噂話は下らなそうなので最後まで聞く必要はないようだ。女たちは、ゲンジの君が式部卿宮の姫君に朝顔の花を贈った時の和歌などを、少し間違えて話している。ときどき和歌をゆっくりと口ずさむので、ゲンジの君は物足りなく感じる。紀伊のカミがやってきて、灯りを増やして部屋を明るくすると、菓子などをもてなすのだった。

 「我が家に暖簾をかけて、大君が来ました、婿にしようっていう歌があるだろ。そういう色っぽいもてなしがないとは、けしからん家の主だ」

とゲンジの君は悪戯っぽく言う。

 「何が良いのか思いつかない不器用な主です」

と紀伊のカミは、神妙な顔で誤魔化している。ゲンジの君は隅の部屋で仮眠のように横になっている。側近たちも静まりかえっている。紀伊のカミにはあどけない子供がたくさんいて、後宮に仕えている見知った顔もいる。伊予のスケの子も往来していて、大勢の中に、とても可愛らしい十二三際ぐらいの子がいた。ゲンジの君は「どの子が誰の子なのか?」と質問する。

 「あの子は死んだ衛門督の末っ子で、可愛がられていたんですが、幼くして親を亡くしました。姉を頼ってここにいるんです。賢くて非凡に思えるので宮仕えさせたいのですが、思った通りにはいきませんね」

と紀伊のカミが言う。

 「可哀想に。するとこの子の姉が君の継母なのか?」

 「そうです」

と答えた。ゲンジの君は、

 「ずいぶん若い母親だ。不釣り合いだね。その人のことはミカドも知っているよ。『宮仕えに出したいと聞いたが、どうしているか』と、いつだったか話していたんだ。人の運命は予想できないね」

などと、ませたことを言っている。

 「瓢箪から駒でして。男女の縁というのは、今も昔もタイミング次第ですね。特に女の運命は儚くて痛ましい」

と紀伊のカミが言う。

 「伊予のスケは、この姫君を君主のように大切にしているんだろうね」

 「言うまでもないです。神様のようにあがめ奉って……。年甲斐もないと、私たち家族は文句ばっかりですよ」

 「まあ、君のような現代青年に譲ったりはしないよ。伊予のスケは女たらしだ。それに若作りもしている」

と、ゲンジの君が言う。

 「それで、彼女はどこにいるの?」

 「女官たちは下宿に移したのですが、入りきれず残っているんです」

ゲンジの君の側近たちは酔っぱらい、廊下にへばりついて眠っているようだ。

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十 左馬のカミのこじつけ

(現代語訳)
 「どんな男や女でも中途半端な人間は、少ない知識を総動員しようとするからたちが悪い。三史や五経みたいな歴史書や教養書の研究に没頭しているだけじゃつまらんね。女だからって、世の中の仕組みを全然知らなくても良いとは言わないけどさ。わざわざ勉強しなくても頭の回転が速い人なら、聞いたり見たりして自動的に覚えるだろう。そのうち漢字をすらすらと書き始めてね、仮名で書く手紙も半分以上が漢字になっちゃうんだ。読みにくいよな。もっと可愛らしく書けばいいのに、嫌になっちゃうよ。書いた本人は、知ったこっちゃ無いんだろうけど、漢字が多いと自動的にわざとらしくなって、声に出して読むと胡散臭いんだ。一種の思い違いだけど、上流階級の女にもありがちだな。歌人だとかいう女が、歌にのめり込むのも最悪だ。小難しい故事成語を折り込んで、相手にしている暇もない時に贈って寄こすなんて迷惑だよ。貰ったら返歌をしないと冷たい奴だと思われるし、できなかったら馬鹿にされる。宮廷の節句があるだろ。急いで五月の節句に駆けつける時にだよ、アヤメもクソもないのに、アヤメがどうのこうのとかいう歌を贈りつけたり、九月九日の菊の節句に至っては題詠があるっていうのに、菊が露になんだかんだと言ってきやがる。少しはこっちの身にもなってほしいよな。そういう曰く付きの歌だけど、後から読み直すと、実は捨てがたい味のある佳作だったりするんだよ。見てる暇がないんだから、もったいないよね。相手の都合を考えないで歌を詠むのは間違ってるんだ。こんな時に面倒なことはやめてくれって思うだろ。タイミングも知らないんだから風流ぶらない方がいいんだね。知識があっても、知らん顔、出しゃばりたいと思っても我慢、一つか二つは、もったいぶって言わない方がいいんだ」

と、左馬のカミがこじつける。ゲンジの君は放心状態で、一人の女性を妄想し続けていた。「あの藤壺の宮は、左馬のカミが言うとおり、馬鹿でもなく、出しゃばったりしない。滅多にいない運命の人なんだ」と胸が苦しくなるのだった。この品定めは、たいした結論も出ずに、だんだんどうでも良い話になり、夜が明けた。

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九 藤シキブ丞の体験談 (ニンニクを食べる賢い女編)

(現代語訳)
 「シキブにも面白い体験があるだろ? 少し話してみろよ」

と中将がせっついた。

 「僕は下級階級の下ですよ。君たちを喜ばせる話なんてあるわけないです」

とシキブは辞退するのだが、中将は許さない。「早くしろよ」とせかすので、何を話そうか考えている。

 「学生時代のことです。頭がよい女の見本とつきあっていました。左馬のカミが言ったように、仕事の相談ができて、処世術の心得も深く、中途半端な博士などは敵わないぐらいの学識があって、僕なんかでは口出しもできない人でした。それはある博士の家へ学問のために通っていた頃の話です。先生に娘が大勢いると聞いたので、誘惑に負けて言い寄ってしまったのです。先生にばれると、盃を持ち出して「私が二つ話をするのでよく聞きなさい。金持ちの娘は嫁ぎやすくて早く嫁に行くが、夫を馬鹿にする。貧乏人の娘は婚期を逃して嫁ぐのが遅いが、姑に優しい」などと、白楽天の婚礼の詩を歌い出したんです。僕は遊びのつもりだったのですが、先生の親心を考えると断り切れず、うだうだとしていました。相手は親切に世話をしてくれましたよ。寝物語にも役に立つ勉強や、社会人としての心得などを色々と教えてくれました。手紙も立派に漢字で書いて、仮名を一切使いません。しっかりとした文章を書くので、ずるずるべったりになってしまい、ついにその女に弟子入りすることになりました。上手ではありませんが漢詩も、その女から習ったので、今でも恩を忘れられません。でも、自然な夫婦として一緒にいると、頭の悪い僕が馬鹿のように見えるから格好悪かったんです。雲の上にいるゲンジの君や中将には、こんなエリート女史は必要ないですね。頭が悪くてがっかりする女だと思っても、なぜか気になって運命の人になるという話だってあるんだから、男は単純なんでしょう」

とシキブが言った。中将は話を続けさせようと、

 「面白そうな女だな」

とヨイショする。シキブもそのつもりなので、ピクピク鼻を動かして続ける。

 「そしてです。長いこと逢わないでいたんです。何かのついでに立ち寄ったんですが、いつものように心を許して部屋に入れてくれません。非道いことにバリケードを立てて僕と話すんです。怒っているのかと思うと馬鹿馬鹿しくて、これを機会に別れちゃおうと思っていました。しかし、この女は曲者で、先走って怒ったりしません。かなりの手練れで恨んだりもしません。ただ、キンキン声で言うんです。

 『この頃、風邪が悪化して苦しくて、総合感冒の薬草を服用しました。とても臭いので面会謝絶です。ご用は物影から聞きますわ』

すまし声なので、僕は閉口しました。ただ『わかりました』と言って帰ろうとしたら、女は寂しかったのか、

 『このニオイがなくなった頃にまた来てね』

と金切り声で叫びます。無視するのも可哀想だし、躊躇している場合でもないんです。ニンニクのニオイが強烈で泣きそうになりました。逃げ道を探しながら、

 『訪問を虫が知らせた夕暮れに「ひる」を消してとあなたは避ける

蒜【ヒル】のニオイが消えるまでって、いったい何の言い訳ですか』

と言い終わる間もなく逃げ出しました。後から遣いが追いかけてきて、

 「毎晩をともに重ねる夫婦なら昼でも蒜でもよくってよ」

などと当意即妙に返歌する女なんです」

シキブが事も無げに言うので、ゲンジの君も中将もあきれて、「うそばっかり」と笑う。「そんな女がいるもんか。そんなのと一緒にいるんだったら鬼と一緒にいた方がまだマシだね。気味が悪い」と、シキブを爪弾きにする。「もっとまともな話をしろよ」と責めるのだが、シキブは「これ以上、珍しい話は無いですよ」などと、とぼけている。

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八 頭中将の体験談 (内気な女、夕顔編)

(現代語訳)

 中将が、「私も馬鹿な男の話をしよう」と口を開く。

 「人知れず愛していた女がいたんだ。可愛らしい人で、きっと長続きはしないと思ってたんだけど、知れば知るほど惹かれるようになった。途切れ途切れにしか逢わなかったけど、女も私を信頼してくれたんだ。信頼していれば私を恨むこともあるだろうと私も反省していたんだけど、女は平静を装っている。なかなか逢わなくても、『たまにしか来ない人ね』なんて怒らないで、いつも我慢しているんだ。あまりに可哀想なので、私も『一生面倒をみてやる』なんて思ってもないことを口にしたよ。彼女には親がなくて、儚く私に身を預けるから、胸がキュンとしたね。こんな優しくおっとりとした人だから、長いこと逢わなくても平気だったんだ。そんな頃に、後から聞いたんだけど、どうしてそうなったのか、妻の家が伝令を遣って、彼女に意地悪をしたらしい。そうとは知らずに私の方は、忘れたわけじゃないけど、彼女を放っておいて手紙も出さなかった。彼女は絶望して心配になったんだろうね。私との子供もいたから追い詰められたのかもしれない。彼女の遣いが手折った撫子の花を届けてきた」

と嗚咽しはじめた。「その便りには何て?」とゲンジの君が聞く。

 「どうっていうこともないんだ。

 この家の垣根が荒れてしまっても 娘のナデシコ 見捨てないでね

って詠んであった。行かなくちゃって訪ねたら、何事もなかったふりをするのだけど、ボサボサに荒れた庭を、思い詰めたように見つめて、虫の鳴き声にまみれて泣いているみたいなんだ。私は、神話の世界に紛れ込んだようで……。

 咲く花は百花繚乱あるけれど夕顔一輪ありありと咲く

娘のことは後回しにして、古今集にあった『塵ひとつ付けたくない』という歌みたく母親をなだめたんだ。

 塵を拭く袖も涙のトコナツに嵐も吹いて秋が来ました

彼女は小さな声で歌を詠んで、私に『飽きがきた』と思っている。でも、本気で怒っているようにも見えないんだよ。思わず涙を浮かべても、恥ずかしそうで、美意識に反するのか隠してしまうんだ。私が辛い目に遭わせるのを恨んでいると思われるのが、とても嫌だったんだろうね。それを良いことに、またご無沙汰してしまった。そのうち、女は姿を消して行方不明さ。まだ生きていれば、相当に落ちぶれていると思うよ。あの時、彼女がうるさいほど私を繋ぎ止めていてくれたなら、あんなに放ったらかしにしなかったのに。大切に愛して、いつまでも一緒にいられたのに。ナデシコと呼んだ娘も可愛かったから、どんな手段を使っても捜し出そうと思っているんだけど、未だ消息がわからない。左馬のカミが言った、儚い女っていうのは、こういう人だろう。彼女が私の薄情に苦しんでいたのも知らず、気持ちだけで愛していたんだから、馬鹿だよな。これも片思いの一種だよね。時間が彼女を忘れさせてくれそうだけど、彼女は私のことを忘れられずに切ない夜を泣いているかもしれない。男に過度の期待をしないで、ふわふわとしている女だった。きっと運命の人じゃなかったんだ。指を噛んだ左馬のカミの彼女だって、想い出だから美しいんだよ。現実はうるさいだけで、最悪は離婚かもしれないぞ。琴のうまい優等生だって浮気の罪は重いね。私の彼女も何を考えているかわからないのが問題だ。運命の女なんて決められないんじゃないかな。こうやって想い出話をしても、誰が一番かわからないんだから。こんな女たちの良いところだけ組み合わせて、欠点がひとつも無い人というのは、どこにもいないさ。天空界の女神に恋するようなもんだ。現実離れしていて虚しいし、何より線香くさいよ」

と中将が言うから、一同が笑う。

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七 左馬のカミの体験談 (木枯らしの浮気女編)

(現代語訳)
 「同じ頃、もうひとり関係があった女がいたんだ。生まれもそこそこで、心遣いもあって、詠む歌、書く文字、鳴らす爪、手の仕草や、話す言葉、みんな合格点が付けられそうだった。見た目も悪くなかったから、さっき話した嫉妬ばかりしている女を妻にして、この人の所には秘密に通っていたんだけど、当時はドキドキしたなあ。あの女が死んでから、なるようになれで、可哀想に思っても死んだ人は生き返らないから、この女の所へ頻繁に通うようになったんだけど、ちょっと派手でさ、お色気たっぷりだから、なんだか嫌らしくて、やっぱり運命の人じゃないって思ったよ。逢瀬の回数が減った頃、密かに心を通わせる新しい男ができたようなんだ。十一月、月が気持ちよさそうに浮かんでいる夜、宮中から帰ろうと思ったら、友達の役人がきたので車に乗せてやった。父の大納言の家へ泊まるつもりだったけど、友達が、

 『今夜は僕を待っている女がいるから、気になって仕方ない』

と言うんだ。僕の女の家も同じ道筋にあったから覗いてみたよ。

 壊れた土の壁の隙間から見える水面にキラキラと月影が浮かんでいる夜だから、僕も魔が差したんだ。友達を尾行することにした。ひどい浮かれ足で、なんと僕の女の家へ歩いていく。門の近くにある縁側に腰掛け、わざとらしく月を見ている。菊の色に染まった庭に、紅葉が風に舞ってちりばめられる。こんな夜は、人恋しいね。友達は懐から笛を出し、吹いては謡い、謡っては吹く。『飛鳥井に泊まろうかな。影が綺麗だね』なんて謡っていやがる。用意が良いことに家の中からは、甘美な和琴の音が聞こえてくる。琴の音が歌とうねり合うから、僕は聴き惚れてしまったよ。こんなメロディは、女がカーテンの向こうで柔らかく爪弾くとハイカラで、透き通った月夜なら尚更だね。友達は酔いしれたようにカーテンに近寄って、『庭に落ちている紅葉は、あなたが誰にも踏み荒らされていない証拠だね』なんてからかう。そして菊を手折って、

 琴のおと 月のかげ 響き合う家 誰も気づかず素通りした人

『僕だからあなたを探し当てたんだ。駄目かな?』と一首詠んでから、『もう一曲聴いてみたい。恥ずかしがらずに弾いてごらん』なんて、とても嫌らしい。女も甘えた声で、

 木枯らしを吹かせる笛の激しさを琴の言葉じゃ押さえきれない

って色気たっぷりに返す。僕が苦虫を噛みながら覗いているのも知らずに、十三弦の琴を楽しそうに弾きはじめた。モダンな爪音は悪くないんだけど、僕はいたたまれないよ。時々言葉を交わす後宮の女たちが色っぽくて節操がないのは、それっきりの恋だから構わないけど、たまたまでも妻として通う女がこんなんじゃ心配だね。あまりに発展家なので、この夜のことをきっかけに別れた。

 若いときの話だけど、この二人の女の体験で、色っぽ過ぎる女は危険で信用できないと悟ったな。僕もいい年だから、あのとき以上にそう思っているんだ。若い君らは、折ったらこぼれ落ちる萩の雫や、手に取れば消えそうな笹に落ちた雪の結晶みたいに、セクシーで、儚くて、スキャンダラスな女のケツばっかり追っかけてるだろうけど、あと七年もしたら身に染みてわかるよ。虫けらみたいな僕の忠告だけど、色っぽくて男好きする女は怖いぞ。大失敗して間男になったりするからね」

と左馬のカミの話は説教じみてきた。中将はうなずいてばかりだ。ゲンジの君は、笑いながら「さもありなん」と思っているのだろう。そして、

 「どっちの話も人聞き悪い。女は怖いね」

と言って、ますます笑い出す。

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六 左馬のカミの体験談 (嫉妬深く指を噛む女編)

(現代語訳)

 「もう昔のことだ。僕がまだ下っ端だった頃、恋人がいてね。言ったみたく見た目なんて気にしてなくて、若気の至りだったんだ。運命の人だとは思っていなかったけど妻のつもりで通っていた。満たされなくて浮気ばかりしていたから、彼女が嫉妬しやがるんだ。頭にきて、ツベコベ言わずに大目に見ろよって思ってた。あんまりしつこく追及してくるから面倒でね。どうして僕みたいな女たらしを見捨てないで好きなのか不思議だったよ。そう考えると不憫だから、少しは女たらしも控え目にしていたつもりなんだ。彼女は好きな男のために出来ないことでも無茶するたちで、安っぽい女だと思われたくない一心で苦手なことからも逃げたりしなかった。世話好きの姉御肌なんだけど、夫のヘソを曲げないように気を遣うような女だったな。出しゃばったところもあったけど、だんだん言うことも聞くようになって、丸くなったんだ。美人じゃないから夫に嫌われないように、せっせと化粧してさ、知らない人に顔を見られたら夫の恥だと思ったのか、いつも縮まって隠れてた。一緒に暮らしたんだけど、いじらしい性格は嫌いじゃなかった。でも、彼女の嫉妬心の強さには我慢ならなかったな。

 当時は、『この女は俺に捨てられるのが怖くてビクビクなんだ。一度お灸を据えてたら、大人しくなって嫉妬もしなくなるだろう。もう面倒だからお前と別れてやるってきつく言えば、本当は一緒にいたいんだから懲りるだろう』って自惚れていた。わざと冷たく扱ってね、彼女がいつもの嫉妬心を剥き出しにしたときに、

 『お前の嫉妬にはうんざりだ。俺達が運命の赤い糸で結ばれていたとしても、これ以上は無理。サヨナラするから、いくらでも好きに疑えよ。それが嫌だったら我慢して少しぐらい大目に見ろ。嫉妬さえしなければ、お前は可愛い女なのに。俺だって人並みに出世して、それなりの男になるだろうから、その時は、お前だって誰にも負けないような妻になっているんだぞ』

口が自動的に開くから調子に乗ってしゃべっていると、彼女が馬鹿にしたように笑って、

 『あんたは何をやっても駄目じゃないの。いつまで経ってもウダツが上がらないでしょうね。出世が遅れるのは最初からわかりきってるから待つのも苦じゃないわ。苦しいのは、あんたの浮気なの。あんたが改心する日を夢見て何年も辛抱しろっていうの? もう潮時ね』

と意地悪な反撃をしてくる。腹が立ったね。言い返したら、彼女も意地っ張りなので、僕の指を一本つかんで思い切り噛みつくんだ。痛くて大声で怒鳴った。

 『こんな傷まで付けられたら、もう人前には出られん。どうせ俺は下っ端役人だ。お先真っ暗だから世を捨ててやる』

って、捨て台詞を吐いて、

 『今日でサヨナラだ』

と痛む指を折り曲げて、押さえながら逃げた。

 この恋を指折り数えてみたけれど 焼き餅だけが悪いんじゃない

『俺を恨むのは筋違いだ』って一首詠んだら彼女は泣き出した。それでも、

 指を折り浮気を数えて耐えるのも今日でおしまい あなたと手を切る

 などと抜かしやがる。だけど別れ話は冗談だったんだ。何日も放っておいて手紙も出さなかった。相変わらず、女の元から別の女の元へと浮かれ歩く毎日だよ。賀茂の臨時祭のリハーサルがあった夜、みぞれが降り出して、みんな帰ったんだ。どう考えても僕の帰る家は、あの女の家しか思い当たらない。後宮に戻って独り寝も間抜けだし、盛りのついた犬みたいな女房なんてゾッとするだろ。彼女は今頃どうしてるかなって様子を見に行く気になったんだ。みぞれが雪になり、雪を払っていると、バツが悪くて恥ずかしいんだよね。でも、あの夜なら許して貰えそうな気がした。彼女の部屋に入ると間接照明が壁に当たっている。ふわりと綿が入った部屋着が大きな篭に掛けてあって香に焚かれているんだ。寝室のカーテンが少し開いていて、僕を待ち構えているようなんだよね。思った通りだって得意になっていると本人がいない。家政婦が何人か留守番をしていて、『今夜は実家に帰っています』なんて言うんだ。気の利いた歌一つ詠まず、それっぽい手紙も置いていない。黙って消えちゃったので拍子抜けしたよ。あんなにブツブツ文句を垂れていたのも、僕に捨てられるように仕組んだんじゃないかって、変に勘ぐってムシャクシャもした。でも用意してくれた着物が、いつもより上等に染めてあって仕立ても悪くないんだ。別れた男でも、こうやって心配してくれている。別れたと言っても、すぐに元通りになるって甘くみていたんだけどね。たくさん手紙を書いて説得したよ。それでも、彼女は、別れようともせず、姿を消すこともなかった。適当にあしらうんだ。

 『今までみたく浮気ばかりなら我慢できない。女たらしをやめて良い子になったら会ってあげる』

って言う。どうせ向こうも口だけだと思って少し懲らしめてやるつもりだった。『お前しかいない』なんて言えるわけないじゃん。拗ねたまま話を長引かせていたら、彼女が悲しみに暮れて死んだんだ。僕はとんでもないことをしてしまった。あの女が運命の人だったのかもしれないって、いつも思い出すんだ。つまらないことから真剣なことまで心を割って話したし、布を染めさせれば秋を染める龍田姫のようだった、裁縫の腕前は織り姫にも負けなかったよ」

 と、左馬のカミは涙ぐんで想い出に浸る。中将は、

 「機織りでなく、七夕姫のように永遠の愛を誓えたら良かったね。君の龍田姫が染めた反物には誰も敵わないだろうな。枯れ落ちる、花や紅葉だって季節がうまく染め抜かないとマダラになるから人目も知らずに消えちまう。運命の人を決めるのは至難の業だね」

と指を噛む女に心を奪われている。

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五 左馬のカミの女性論(三)

(現代語訳)
 左馬のカミの話は止まらない。

 「もう家系なんてどうでもいいや。容姿も我が儘を言うのはやめよう。素直で優しい女が、面倒なへそ曲がりじゃなければ、それが運命の人かもね。おまけに、ロマンチックな心を持っていたら、なお結構。少し物足りなくても我慢しなくちゃ。心の支えになると信じた人なら、女の心得は後からでも何とかなる。艶やかに恥じらうカマトト女が、浮気を我慢して平気そうにしているんだけど、胸につかえた不満が溢れ出して、非道い事を口走り、悲惨な歌を詠み、当てつけがましく形見を残して、山奥や淋しい海辺に逐電したとしよう。ガキの頃は、女官が物語を読むのを聞いて、切羽詰まった女心に同情して泣いたもんだけど、今思えば薄情な演技だよね。辛くて五里霧中だからと言って、愛情いっぱいの男を置き去りにし、人の気も知らずに家出して、夫を狼狽させて気を引こうとしているんだ。その後はお決まりのコースだな。『深いお考えをお持ちの方だ』なんておだてられて、その気になっちゃうから、尼さん確定だ。決心したときは自分でも心が透き通っているような気がして清々しているんだろう。そのうち友達が『尼になったのね。可哀想』なんて遊びに来たり、吹っ切れず未練タラタラの夫が風の噂に聞きつけて泣き出すと、家の者や婆やが『ご主人様はあんなに優しいのに、もう手遅れだ』なんてチクチク言いはじめる。削ぎ落とした前髪を触って寂しく放心し、泣きべそだ。せっかく耐えていたのに涙がいったん出ちまえば、後は一生泣き暮らす。うじうじ後悔しているばかりで、仏からも『汚い心の持ち主だ』と三くだり半を叩きつけられる。中途半端な出家は、俗世の汚れでベタベタになっているときよりも、変な道に迷いやすいのさ。前世からの腐れ縁で、尼になる前に夫が捜し出して連れ戻したとしても、一度ケチがついたら気まずいだけだよ。それでも何とか連れ添って、いつでも許し合えるのが本当の夫婦だと思うけどさ、こうなっちゃったら、お互いに疑いが芽生えてギクシャクするだけだ。他愛のない浮気心にプンプン怒って離婚届にハンコを押させるのは阿呆のやることだよ。外で浮気をしても、出会った頃の一途な気持ちを思い出せば、運命の人だからと我慢できそうなのに、ちっぽけな嫉妬心で別れる羽目になる。いつでも何でも冷静に、嫉妬しても『知っているのよ』って、遠回しに言うぐらいにしておけばいいじゃん。愚痴をぶちまけても、ふんわり可愛らしく言ってくれたら、不憫で可愛く見えるよ。だいたい浮気っていうのは、妻の心がけ次第なんだぜ。女が束縛しないのは、信頼し合っているように見えて、実は馬鹿にして下さいって言っているようなもんだ。糸の切れた凧みたいにフラフラしているんだから浮気しちゃう。そうだよね」

それを聞き、中将は頷き、口を挟む。

 「今、可愛く優しいと思って好きになった人に浮気の疑いがあったら大変だな。自分が浮気をしないで、相手を大事にしてやったら、向こうもよい子にしていそうなもんだけど、そんなに甘くはないのか。そうだと許せないことがあっても、包容力でカバーするしかないね」

と言って、妹のアオイは浮気なんてしそうにないから、こんな話題にも相応しいと思う。当人のゲンジの君は舟を漕いでいて何も言わないから、じれったくて残念だ。それでも左馬のカミは、女の選びの研究者になって、ますます熱弁をふるう。中将は演説を最後まで聞きたくて、せっせと相手をするのだった。

 「いろんな世界と比べて考えてみろよ。木工細工の職人は、あれこれと器を思ったままに作る。決まった形がない物を、思いつきのデザインで作ったら、格好いいのかも知れない。こんな形もあるのかって、発想の豊かさと斬新なデザインに目移りしたりするね。でも、一生物として使う家具などのデザインや飾りが決まっている物を完璧に作らせたとしたら、人間国宝と普通の職人を比べるのは酷だよ。絵描きにも上手い人は結構いるけど、デッサンだけじゃ誰が上手いのか決められないさ。伝説の蓬莱山とか、時化た海で暴れる魚とか、中国に住む怖い獣とか、鬼だとか、見たこともない架空の物だったら、現実離れの意表を突いた絵を画けば誤魔化せる。でも、普通の山や、川の流れ、近所の家なんかをリアルに置いて、背景は、低い山と深い森を幻想的に重ね、手前の垣根には庭園を絶妙に配置するなんていう場合、巨匠だったら自動的に筆が動くんだ。ただの絵描きには出る幕もないよ。文字でも、何も考えずパラパラと点を伸ばして走り書くと、気取っていて賢そうに見えるね。書道家の丁寧な文字は、見た目にパッとしない。でも、二つを見比べればド素人とは全然違う。小さな芸だってこうなんだ。人の心になると、思わせぶりな誘惑や、見た目の可愛さなんてアテにならないね。そんな経験が僕にもあるんだ。まあ、女たらしな話なんだが聞いてくれよ」

などと顔を近づけるので、ゲンジの君も目を覚ました。中将は関心が募るあまり頬杖をついて、向かい合ったまま硬直している。坊主が世の中の仕組みを教えている説教部屋のようで笑っちゃいそうだが、こうなると誰もが経験した恋の一ページを隠しておけないのだ。

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四 左馬のカミの女性論(二)

(現代語訳)
たくさんの女のことを語り合い、左馬のカミの話はまだ続く。

 「恋人だったら全然問題ないけど、将来の奥さんになる理想の人を見つけ出すんだから、星の数ほどいる女でも、簡単には決められないさ。男の役人が政治を動かすほどの重役になったとしても、本物の政治家なんて見たこと無いだろ。まあ、一人や二人じゃ世界を変えられないんだから、上司は部下に助けられ、部下は上司に従って、気が遠くなるような政治を支え合うしかないんだね。でも、狭い家の中に主婦は一人だけだ。妥協できるわけないよな。帯に短したすきに長しで、ここはオッケーと思っても、あっちが駄目だったり、ちぐはぐなんだよね。これで我慢しておこうって思う女が少しもいないんだ。別に軟派な浮気心で女好きをやっているわけじゃないんだけど、一途に運命の人と死ぬまで一緒にいたいから、わざわざ仕込んだり矯正しなくていい人がいないか選り好みしちゃってなかなか見つけられないよ。運命の人じゃないのに愛し合った縁だけを大切に育んでいる人は優しいよなぁ。相手の女にも魅力があるんだろうけど、世の中の夫婦を見てみると思ったより羨ましくないんだ。ゲンジの君みたく高望みしていたら女なんて一生見つからないぜ。見た目が美人で、しかも若く、ゴミひとつ寄せ付けないような仕草で、おっとりとした言葉をつかって手紙を書いて、墨の色もほんのりと悪くない。相手をじらして、もう一度姿を見たいと思わせるテクニックも持っている。ちょっとだけでも声が聞きたくなって言い寄ってみると、息の根を殺して黙り込む。こういう女は猫をかぶっているからたちが悪い。色っぽい女だと勘違いして、相手の術中にはまった途端に、甘えだすんだ。これが最初につまづく問題だな。一番大切な家事は夫の世話だろ。感受性が強すぎて歌ばかっかり詠んでいる、すかした賢い女っていうのはなんか違うよなぁ。でも、髪を耳に挟んでせっせと働く所帯じみて貧乏くさい女もいやだね。朝の出勤、夕方の帰宅の時に、仕事やプライベートで世間話や、良いこと、悪いこと、見聞きしたことを、心が通ってない人と話したりしないだろ。側にいて、僕のことをわかってくれる人に聞いてもらいたいから、泣き笑いできるんだ。それから、ムシャクシャしている時や、納得できなくてイライラすることが溜まった時に、誰に話しても無駄だって諦めて背中を丸めて思い出し笑いしたり、『ああ』って独り言を漏らしているのに、『どうしちゃったの』なんて阿呆面で見つめてくる女も論外だ。ガキっぽくて何にも知らない女だったら、夫は何とかして教育するんだろうけど、頼りなさそうに見えても、やっぱり教え甲斐があるのかな。一緒にいる時なら、可愛さに免じて許してやっても、離れて暮らしている時の頼み事や、季節の用事の些細な事から大切な事まで、何も考えずに放心しているだけだったら面倒くさそうで困るよね。それとは反対に、いつもはツンツンしている女が、突然、覚醒しだしたりするんだよなぁ」

など、さすがの女たらしも、結論がさっぱりわからず、ため息ひとつ。

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三 左馬のカミの女性論(一)

(現代語訳)
 「成り上がり者が偉くなっても、元の血筋が悪ければ世間の人はよく思わないよ。反対に、よっぽどの血筋でもコネクションがなくて、時の流れにさらわれた人だったら、どんなに偉そうにしていても生活は破綻しているね。こんな人たちは中流階級と呼んでよさそうだ。受領という地方の政治家にも細かい階級があってさ、その中流家庭ぐらいから、よさそうな女を探したらいいんだよ。なまじ偉そうな上流階級の人より、偉くなくとも人望と血筋があって、安定した生活をしていればそれでいいんだ。何不自由ない家に生まれて、せせこましい生活をしていないから、キラキラに可愛がられて、ケチのつけようもなく育った娘がごまんといる。後宮に移り住んで、後々ラッキーな思いをする女っていうのは、こんな人たちに多いんだ」

と左馬のカミが言う。ゲンジの君は、

 「結局は金がモノを言うのか」

と笑っている。それを聞いた中将が、

 「つまらんことを。まったく君らしくない」

ときつい目で見る。左馬のカミは続けて、

 「生まれつきの血統と、社会的身分がかね揃った上流家庭に育っても、親のしつけが悪くって嫌な女っていうは論外だけど、どうしてこんな罰当たりになったんだろうって寂しくなっちゃうね。そんな家庭に育てば、たいした女になっても当然で珍しくも何ともないから、今更びっくりもしないよ。上流家庭のてっぺんになっちゃうと、もう僕の手が届く範囲ではないからノーコメント。誰も知らない草のからまった廃屋に、あり得ないような可愛い子が寂しそうに暮らしていたらどうだい。珍しくて仕方ないだろう。父親がでっぷりと暑苦しく、憎たらしい兄貴がいて、つまらなそうな部屋の奥にお上品な娘がいるわけだ。くだらない芸なんかを、ためらいいがちにやりはじめたら、もう不意を突かれてドキドキが止まらなくなるな。完全無欠の女を探し出すのは至難の業だから、こういう女を放っておく手はないよ」

とシキブのほうをじろじろ見る。シキブは「左馬のカミの奴、自分の妹たちが評判だからって、わざとこんな話をしやがる」と、とっさに察して黙っている。ゲンジの君は「上流家庭の女だって、たいした女は滅多にいないさ」と話半分だ。ふわふわと白い着物の上に上着を着て、前ひもを結ばずに肘掛けに寄りかかっている。灯りの影がゲンジの君を美しく照らし、もし彼が女だったら、どんなだろうかと思わせる。この人のためなら、どんな最上級の女をあてがっても物足りないだろう。

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二 雨夜の品定め。頭中将の女性階級論。

(現代語訳)
 長々と雨が降り続く静寂な夜、後宮を訪ねる人も少なくてゲンジの君の部屋も微睡みかけていた。ゲンジの君が灯りを近くに寄せて読書をしていると、中将が近くの棚にある色とりどりの手紙を引き出して覗きたがる。

 「読まれてもよいものなら見せてあげよう。恥ずかしい手紙があるかもしれない」

と言って、ゲンジの君は見せたがらない。

 「君が女に心を許して恥ずかしいと思う手紙が見たいのさ。よくある普通の文通なら、私のような凡人でもそれなりにやっているからね。恋い焦がれての恨み節だとか、夕焼けの下で待ちぼうけなんていう手紙が読んでみたいんだ」

と、しつこくせがむのだけど、胸に秘めた大切なラブレターだったら、無防備に棚の上に散らかしておくわけがなく、誰にもわからない場所に隠して置くはずなので、この手紙の束は見られてもかまわない二流品なのだった。中将は少しずつ読み始めて、

 「いろんな手紙があるもんだね」

と、邪推をする。「この手紙はあの人だろう。これはあの女かな」などと質問するのだけど、当たっているのもあるし、見当違いな疑いをかけはじめたりもする。それをゲンジの君はおかしく思うのだが、余計なことは言わず、なんだかんだとはぐらかして、手紙を奪って隠してしまう。

 「君の方がいっぱい持っているだろう。ちょっと見てみたいな。そうしたらこの棚も観念して開けるさ」

と言う。中将は、

 「残念ながら見せる価値があるものは無いんだよね」

と誤魔化して、徐々に語り始める。

 「何の欠点もない運命の女というのは、滅多にいるもんじゃないと、ようやくわかってきたよ。うわべだけの感情で取り繕って手紙を書き始め、タイミングよく受け答えるぐらいだったら、巧妙にやってのける女も結構いるけど。だけど、その中から一番の女を選びだそうと思ったら、この女で間違いないという人はまずいないね。自分が知っていることばかり話し散らして得意げで、人を小馬鹿にしている低レベルな女ばっかりだ。親が大切に可愛がっていて、良いところに嫁がせようと箱に入れている娘なんかだと、才能があると大げさな噂が立って話題になるかも知れない。優しくて可愛らしい女の子が遊んでいられる年頃だったら、人真似に琴や短歌の練習をして自然とそれらしくなったりするしね。そんな女の世話を焼く人は、まさか都合の悪いことを言うわけない。向こうの都合で話をでっち上げているのだけど、そんな女がいるわけないと、はじめから疑ってかかるわけにもいかないし、期待して恋愛をしてみたところで、たいていはハズレだったりするよ」

中将の愚痴に、自分の胸の内を見透かされたような気がして、ゲンジの君は身につまされながら笑って、

 「何の才能もない女というのは、この世にいるんだろうか」

と聞いてみる。

 「そんな女がいたら、騙されて求愛する男が馬鹿なんだよ。全く何もできない駄目な女と、素敵な眩しい女は、半々の比率でいると思う。上流家庭に生まれると、召使いにもてはやされてうまく隠蔽されるから素敵に見えるのも当然さ。中流家庭の女となると、人それぞれ性格が違うし、自分の考え方というものを持っているようだから、色々と点数がつけられるね。下流階級の女になると、もう特別に気を遣う必要もないよな」

などと中将が恋愛のエキスパートみたいにしたり顔なので、ゲンジの君も興味津々で、

 「君が言う階級って、どういう基準で上中下って分けるのさ。本当は上流家庭に生まれながら、没落して下流階級に身をやつして人として扱ってもらえない女と、一般人が成り上がって偉そうな顔で家を豪華に飾って威張っている女とを、どうやって区別したらいいんだろう」

と聞いてみる。そんな折、左馬のカミと藤シキブの丞が、物忌みをしているゲンジの部屋にやってきた。二人とも女好きの有名人で口が達者なので、中将は「待ってました」とばかりに、この女の格付けの話に花を咲かせた。当然ながら、きわどい話も出てくるのだった。

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一 ゲンジの性格。頭中将との友情。

(現代語訳)

 「光るゲンジ」と名前だけが一人歩きした。出る杭は打たれるのが世の常だが、恥の上塗りをしないよう、細心の注意を払った女たらしぶりまで伝説に仕立て上げ、後世に伝える口軽もいる。しかし、ゲンジは常に人目を気にし、神妙な顔で用心していたので、ロマンスの噂は全く立たなかった。あの女たらしの交野少将が見たら一笑に付されるだろう。

 ゲンジが近衛中将だった頃は、後宮に引きこもることが多かった。左大臣の御殿には、忘れた頃にふらっと帰るだけだ。「乱れんばかりの恋に落ちたか」と、左大臣家の心配は絶えない。本人は「軽はずみにその場限りの情事を楽しむなんてまっぴら御免だ」と思っているのだが、魔が差して足が自動的に危険な恋の泥沼に滑り込んでしまう性癖があった。「光るゲンジ」と呼ばれる男には相応しくない挙動である。

 晴れ間ない梅雨のある日、ゲンジは物忌みのためいつもより長く後宮に留まっていた。左大臣家は、待ち遠しさのあまり恨めしくもなるのだが、それを堪えて、着替えから何まで珍しい物を揃えて届けてやる。左大臣家の若君たちも、せっせとゲンジのいる桐壺殿舎に参上し、話し相手になっている。后宮の息子の蔵人少将は、もう中将になっていた。この頭中将は、ゲンジの親友である。遊びや悪戯など、誰よりも気を許しあって馴れ馴れしい。頭中将も右大臣家の至れり尽くせりが鬱陶しくて逃げ回っているのだった。この男も、女たらしの遊び人である。左大臣家の自室を綺麗に飾り立てていて、ゲンジと一緒にやってくる。日がな勉強や音楽なども一緒で、負けず劣らずの二人である。いつもセットなので、遠慮もなくなり、素直に何も隠すことのない関係になった。

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箒木の帖 (系図と登場人物の年齢)

hahakigi

箒木の巻 登場人物関係図

|HAHAKIGI

主人公、ゲンジ十七歳の夏である。

これまでのあらすじ

 ミカドから寵愛をうけた桐壺更衣だが、玉のように清らかな御子を出産すると、いじめの心労からか逝去してしまった。この御子が主人公のゲンジである。彼は、この世の人間とは思えぬ美貌の持ち主なだけでなく、学問、音楽においても類い希なる才能の片鱗を顕した。

 桐壺更衣の死を悼み、廃人同然となっていたミカドだが、亡き人の生き写しとも思える藤壺女御の出現により再び生気を取り戻す。ゲンジは藤壺女御に亡き母への思いを寄せ、次第に一人の女性として恋心を募らせてしまう。元服し、左大臣の後見を得た源氏だが、正妻の葵上との関係は平行線をたどるだけで、ますます藤壺女御への想いで胸を焦がす。

 私生児同然のゲンジだが、その美貌と才能を武器に着々と大人になっていく。人々は彼のことを「光り輝く君」と呼んだ。