カテゴリー : 01 第一章 桐壺

九 桐壺更衣の郷里改築。

(現代語訳)
 ゲンジが元服し大人になると、ミカドは以前のように簾の内に入れなくなった。ゲンジは演奏会があれば、藤壺女御の琴に自分の笛の音を重ねて無言の会話を楽しみ、ほのかに漏れる声を聞いて心を慰めた。そして、藤壺女御のぬくもりを感じられる後宮での暮らしを好んだ。五六日も後宮で過ごし、左大臣の御殿には二三日という、よそよそしい通い方だ。左大臣は「まだ子供だから仕方がない」と許してやり、ますます優しくするのだった。ゲンジの君にも、娘の姫君にも、相当な家政婦を見繕ってはべらせている。また、若者が喜びそうなイベントなども用意して、気に入られようと頑張っていた。

 後宮にあっては、あの桐壺御殿があてがわれ、母の家政婦たちが暇を出されることなく働いている。実家の御殿は、建築や木工の役所に命令が下り、またとない豪邸に改築されることになった。もともと造園の木々や山の見栄えがよく、立派な建物だったが、大きな池まで造ることになり、改築工事の職人たちで賑わっている。ゲンジは、「こういう御殿で運命の人と同棲したい」と、ためため息一つ、甘い妄想を浮かべた。

 「ヒカル君」という名前は、半島の外国人が、ゲンジの君の美貌を祝福して呼んだのだと言い伝えられている。

続きを読む

八 ゲンジの元服と結婚。藤壺女御への淡い恋心。

(現代語訳)
 この愛らしい、わらべスタイルも見納めかと思えば勿体ないが、十二歳になると元服である。ミカド自ら指揮を取り、元服式の限りを尽くした。去年の春に皇太子の元服式が紫宸殿であったが、「それにも負けるな」との命令だ。

 「役所が祭礼の準備や食物の調達をすると事務的になる」

からと、特命があって、とにかく派手に開催された。清涼殿の会場に椅子を置き、かんむりをかぶる者の席と、かんむり係の席が向かい合わせに設置される。午後四時になるとゲンジが席に着いた。ツインテールの髪型や顔立ちを変えてしまうのが惜しまれる。断髪係は大蔵大臣だ。つやつやと光る黒髪をそぎ落とす姿が痛々しいので、ミカドは「亡くなった人が見たら、どんな気がするだろう」と偲ばれて、じっと涙をこらえるのだった。冠を乗せて貰うと控え室に戻り、お色直しである。階段を下り、東庭で喜びの舞をする姿は参列者の涙を誘った。ミカドはなおさらで、過去の記憶を蘇らせて感傷に浸っている。「まだ若い息子が元服すれば見劣りするのではないか」と心配していたのだが、開いた口がふさがらないほど美しく変貌した。かんむり係は左大臣で、その后宮は皇族だった。二人がもうけた一人娘は、箱に入れて育てられている。「皇太子の嫁に」という縁談を断ったのは、ゲンジの君に差し上げたいと考えていたからなのだった。ミカドの意向を聞いてみると、「息子が成人した後に面倒を見る人もいないので、元服の夜の添い寝に姫君を」と要望があり、左大臣もそのつもりでいた。

 参列者は宴会場に移動し着席した。酒宴が始まり、ゲンジも皇族の末席に座る。左大臣が新婚初夜の話をほのめかすのだが、思春期なので恥ずかしがってとぼけている。壇上から司会が「大臣はこちらに」と呼ぶので、それきりになった。壇上では祝儀を宮中の女官たちが左大臣に取り次ぐ。白い大きな着物に衣装一式、いつもの通りだ。盃を交わすのと一緒に、

 かんむりを結んだ仲ならいつまでも姫と結ばれ倶に幸あれ

 とミカドの歌が添えられたのは、ゲンジに言い含めているようにもみえる。

 かんむりの紫色が褪せぬよう強く結んだ深い縁なら

と左大臣が返歌をし、廊下を下りて庭で舞うのだった。ミカドは特別に左馬寮の馬や、蔵人所の鷹を木に留まらせて贈呈する。屋根の下に並んだ皇族や重職の者たちが、身の程の祝儀を受け取っている。この日の御膳の折り詰めやカゴの果物は、ゲンジの保護者の右大弁が用意した。握り飯から祝儀の入った唐櫃まで、会場からはみ出さんばかりに並べてあり、皇太子の元服式よりも多い。それほど盛大な儀式だったのである。

 その夜、左大臣の御殿にゲンジがやってきた。左大臣は前代未聞の婚礼のもてなしで迎える。ゲンジがあまりに可愛らしいので可笑しくてたまらない。お姫様はゲンジを子供扱いし、自分の婿とは思えず、恥ずかしさにいたたまれないでいた。この左大臣はミカドからの覚えがよく、后宮がミカドの兄弟なので相当な権力者である。このたびゲンジを婿にしたので、皇太子の祖父として天下を取り仕切るべき右大臣の権力も失墜しそうな勢いだ。左右の大臣は姫君たちに多くの公家を産ませている。この后宮の息子にも蔵人少将がいる。仲違いをしている左右の大臣だが、蔵人少将の若さと美貌を見初めて、四女の婿に迎えた右大臣は、さすがに炯眼だった。そしてゲンジの君にも劣らぬ特別扱いは両家の繁栄のためでもある。

 ゲンジの君はミカドの呼び出しが頻繁なので左大臣の屋敷でくつろいでいる暇もない。ひそかに桐壺女御に恋をして、胸が張り裂けそうな彼である。「あのような人と結ばれたい」と思い詰めているのだが、それは淡い妄想でしかない。左大臣の姫君は愛らしい箱入り娘だが、この縁組みには違和感がある。そして一途な少年は、思春期特有の悶絶を繰り返す。

続きを読む

七 藤壺女御の入内。

(現代語訳)
 季節が巡り、年月を経ても、ミカドは御息所を忘れられない。取り巻きたちは、「ミカドの心の隙間を埋めよう」と、それなりの女性を連れてくるのだが、「あの人の代わりは、この世にいないのだ」と言って、誰とも会いたがらなかった。そんな折、「先のミカドの四女で、評判の美女がいる」と噂が立った。母君が過保護にしている箱入り娘なのである。ミカドの家政婦である典侍は、先代から仕えているので、この母君をよく知っていた。御殿にも親しく訪問し仲が良かったので、このお姫様の顔を幼少期から見ている。

 「宮中に三代仕えた私ですが、亡くなった御息所に似た方には、ついぞお目にかかることがありませんでした。でも、あの后の宮のお姫様は違います。大人になってからは、まるで御息所の生き写しのようなのです。あんな美人は滅多にいません」

と言うものだから、ミカドは「本当だろうか?」と浮き足立ち、何とか後宮に呼びたいと、あの手この手のモーションをかけるのだった。それを受けた母君は、

 「なんと恐ろしい。皇太子の母親が性悪で、桐壺更衣がボロボロになって死んだではありませんか」

と身の毛を弥立てて嫌がったのだが、しばらくして、その母君も死に、お姫様が一人寂しく暮らすようになった。ミカドは「この機会に」と、

 「後宮においでなさい。私の可愛い女たちと同じように可愛がりましょう」

と、下心見え見えのもてなしぶりである。執事や家政婦、親戚一同、兄の兵部卿親王までもが「こんな所でしみったれているよりも後宮で暮らした方が楽しいだろう」と説得し、ハーレムに移住させたのだった。このお姫様は、藤壺という。本当に見た目や仕草が、亡き人に恐ろしいまでそっくりだ。この人は生まれが良かったので、世間から羨望の的で、誰からもいびられることなく平和に暮らして、何の不満もない。亡き御息所の場合は、周囲の人が認めていなかった上に、ミカドが特別扱いしたから問題になったのだ。ミカドも、あの恋を忘れたわけでではなかったが、だんだん心移りし、心の隙間を埋めるようになった。男心とはこういうものだから仕方ない。

 ゲンジの君は、いつでもミカドの側を離れないので、しょっちゅう通われる藤壺も、いちいち恥ずかしがって隠れるわけにはいかない。ここでは、どの妾たちも自分が人より不細工だと思うわけがない。確かに綺麗どころばかりだが、熟女の中でただ一人、若くて愛らしい藤壺は、ゲンジの君を見つけると照れながら隠れてしまう。ゲンジの君は、それを覗き見てドキドキする。母親の記憶すらないゲンジの君だが、典侍が「とてもよく似ている」と言うので、子供心にも懐かしい気持でいっぱいになり、「いつも側にいて甘ったれたい」と妄想するのだった。この二人を同等に愛しているミカドは、

 「そう冷たくするな。なぜだかあなたは息子の母親に思えて仕方ない。悪い子だと思わないで可愛がってくれ。息子は目や顔が母親似だから、あなたとは親子のようだ」

などと言い、ゲンジの君も背伸びいっぱい、花や紅葉の美しさを理由に愛情のカケラをばらまいたりする。そういう微笑ましい光景を目にした弘徽殿女御はヘソを曲げ、藤壺との関係にもヒビが入った。そして、かつての憎しみをくすぶらせ、ゲンジの君を「忌々しいガキだ」と思うのだった。ミカドが「滅多にいない女だ」と見とれる普通に美人な藤壺でも、ゲンジの君の前では色褪せた。そんなゲンジの君を、世間の人は「ヒカル君」と呼んだ。そして、藤壺も同様にミカドに愛されたので「輝く日の宮」と呼ばれた。

続きを読む

六 北ノ方の死。ゲンジ勉強を始める。ゲンジと占い師。

(現代語訳)
 あの北ノ方は、「何を慰めに生きていけばよいのか」と塞ぎ込み「娘のいるところを訪ねたい」と祈った。そして、願いが叶ったのかポックリと逝った。ミカドは、これを深く悔やむ。若君も六歳になったので、今度は何が起こったか理解し、切なさに泣いた。生前、北ノ方も、「長く自分になついた孫を残して、この世をオサラバするのは、とても悲しい」と何度も繰り返していたのだった。そして若君は、宮中に移住することになった。七歳になったので読み書きを始めたのだが、これまた空前絶後の賢さで、恐怖すら覚える有様だ。

 「今では誰も息子を憎むことはできないはずだ。母君が亡くなった後だけでも可愛がってあげなさい」

とミカドは、弘徽殿に行くときにでも手を引いて、簾の向こうへも連れて行く。血に飢えた武士や宿敵だとしても、目にしたら顔がほころんでしまう容姿なので、弘徽殿女御も知らんぷりはできないのだ。弘徽殿女御には二人の娘がいるのだが、比べものにならない美貌である。他の妾にしても、この若君には気を許す。こんな小さな子が色気と存在感をばらまいているので、一緒にいると楽しく、「遊び相手にはもってこいだ」と誰もが思っている。勉強をさせても、一般教養などは朝飯前で、琴や笛を演奏すれば空をも震わせる天才っぷりである。一から十まで教育して詰め込んだら、これまた悪い冗談になってしまうぐらいの逸材なのだった。

 時を同じくして、外国人が宮中に訪問していた。ミカドは、その中に有名な人相見がいると聞き、宇多天皇の仕来りもあることなので、お忍びで迎賓館に息子を向かわせた。付き添いの右大弁を保護者だということにして連れて行くと、人相見は驚き、首を傾げてばかりだ。

 「国民から父と慕われ、帝王になる相をお持ちです。しかし、そうなれば国を惑わし、本人も苦労するでしょう。政治の世界で重職について裏方仕事をするようなお方でも御座いません」

などと言う。右大弁もなかなかの博識であるから、今回の談義はかなり面白がった。そして、詩の創作をし合うようになる。外国人が、今日か明日かに帰ると言う頃に、「こういう人間離れした人と会えたことが嬉しく、サヨナラしなくてはならいと思えば余計に悲しくなる」と、技巧を凝らして漢詩を作ったので、若君も負けずに感情を詰め込んだ詩を返した。外国人は、嫌というほど褒め称え、豪華なプレゼントをする。お礼にと、ミカドも多くの贈り物を届けた。ミカドはこの出来事を心にしまっておいたのだが、東宮の祖父である大臣などは、「何か良からぬことを考えているに違いない」と深読みしているようだ。ミカドは悩みに悩み、日本の術師に占わせて既に結論を出していた。やむなく息子の皇族入りを断念していたので、この外国人を本物だと思った。そして、「親族の保護のいらない身分の方が潰しが利く。自分の天下もいつまで続くかわからないのだから、家来に下して朝廷を守り立てたほうが将来のビジョンも明るい」と冷静になり、学問の道を本格的に歩ませた。それでも、特別に優秀なので一般人にするのは勿体ないが、皇族となれば、世の中からあらぬ疑いをかけられそうな状況である。占星術に詳しい人物に聞いても同じ結果なので、やはり息子にゲンジの姓を与えることに決めたのだった。

続きを読む

五 帰ってきた命婦の報告。

 後宮に戻るとミカドは未だ眠れずにいる。それを見た命婦は可哀想に思う。屋敷の前にある鉢植えが生々しく咲き乱れ満開なのを見つめ、気を許した四五人の女を侍らせて、しんみりと物語などしている。この頃では宇多天皇が書いた長恨歌の絵に伊勢物語だとか紀貫之の短歌が書いてあるものや漢詩など、しみったれた結末の物語ばかり選ぶ。そして命婦に気がつくと御息所の実家の様子を詳しく尋ねた。命婦は「あまりにも惨めで同情しました」と辛そうに話すのだった。ミカドが母君からの返事を読むと、

 「畏れ多いお言葉で、穴があったら入りたい気分です。ミカドからこのようなお願いをされましても悶絶するしか術を知りません。
 枯れたのは荒れ風凌ぐ母でした小さな萩が飛ばされそうで」

返歌も失礼で、ずいぶん取り乱しているようだ。それでもミカドは「気が動転しているのだろう」と許してやる気になるのであった。自分も同じ気持ちで、人に悟られないように辛抱しているのだが、もう我慢の限界なのである。出会った頃のことをいろいろと思い出し、「あの頃は少しの間でも離れていられなかったのに、よくも今日まで生きてこれた」と、我ながら意外に思う。

 「亡き大納言の遺言に背かず、宮仕えに尽くしてくれた礼に相応の報いをしたかったのだが、今となってはどうにもできない」

とミカドは不憫でならない。

 「それでも息子が大人になれば、いずれ宮中に上がる機会も巡ってくるだろう。それまでお婆様も長生きすることだ」

とも言うのだ。命婦が貰った贈り物を見ると、「長恨歌にあるように、魔法使いが亡き姫の所へ訪ねた証拠のかんざしならば救われるものを」と嘆くのも仕方ない。

 訪ね行く魔法使いがいたならば捕まえられる魂だけど

 どんなに手練れの画家でも筆に限界があるように、絵に描かれた楊貴妃も本人と比べれば精彩を欠くだろう。皇城の池に浮かぶハスやビョウヤナギによく似ていたという楊貴妃だが、外国の衣装をまとった姿は言葉では言い尽くせないはずだ。亡き人を、花の色や鳥のさえずりに喩えることなどできようか。朝晩の約束に「翼を並べる鳥のように、重なり合う枝のように二人で生きていこう」と誓ったことも叶わぬ夢だった。やはり運命は残酷だ。

 風の音、虫の声が悲しい季節だが、弘徽殿の婦人は長らくミカドの部屋を訪ねていない。気持ちよさそうに浮かんでいる月を眺めては、夜更けまで音楽を楽しんでいるようだ。ミカドは、その浮かれた音色を聞いて「人の気も知れずに」と不機嫌になる。最近のミカドの様子を知っているお偉方や女官たちは、弘徽殿の婦人の無神経さに気が気でない。この婦人は我が儘で、トゲのある女なのだ。ミカドの気持ちなど考えず、勝手気ままに振る舞っているのだろう。そうして、月は沈む。

 これほどに涙で曇る秋月夜 荒れた家にも浮かぶはずなく

ミカドは母君に返歌を詠み、灯りの芯が無くなっても目覚めている。交互に行われる宿直は、今日は右近衛府のようだ。声が聞こえてくるから午前二時頃なのであろう。ミカドは目立たぬよう寝室に入るのだが、モヤモヤとして寝付けない。朝に目覚めても「夜が明けたのもわからない」などとうわごとを言い、朝廷の勤めも留守がちになっている。

 食事にしても少しだけ箸をつけ、メインディッシュにはまるで手をつけないので、配膳係が腫れ物に触るように扱っている。側近は皆、男でも女でも「面倒なことになった」とため息をつく。「やはりこういう結末になりましたか。人々の非難も顧みず、女に溺れた行く末に、朝廷の仕事まで捨てるようでは、もうおしまいだ」と、外国の皇帝の話を引き合いにして、コソコソと嘆きあう。

 月日が流れ、若君が宮中にやってきた。成長するにつれて、ますます人間離れした美貌を振りまいているので、かえって薄気味悪くさえある。ミカドは、来年の春の皇太子の内定に第一王子を越えて抜擢したいと思ったが、後押しする親戚もおらず、まして世間が承知しないので、「もう面倒なことは、もうこりごりだ」と、そんなそぶりも見せないでいた。世間は「あんなに可愛がっていたのに、無理なものは無理なのでしょう」と噂し、弘徽殿の婦人も油断していた。

続きを読む

四 靫負の命婦、母北の方を見舞う。

(現代語訳)
 台風が通り抜けた後の夕暮れは肌寒く、いつもより御息所が偲ばれる。ミカドはユゲイの命婦という女官を実家に向かわせた。出発の頃には夕方の月が気持ちよさそうに浮かび、ミカド本人は思いに耽っている。「こんな晩なら演奏会を催しただろう」と、浮んでくる記憶に任せるまま、琴の音色を優雅にうねらせ歌たいだす。すると、誰の物でもないあの姿がちらついて、寄り添っているかのような夢心地になるのだが、それは夢で、闇にまぎれた幻でしかないのであった。一方、命婦は御息所の実家に到着し、車を門の中に引き寄せた。見渡せば哀愁いっぱいの庭である。やもめ暮らしではあったが一人娘に恥をかかせまいと隅々まで気を配り、後ろ指を指されぬように暮らしていたが、今となっては娘を偲んで泣き暮らす暗闇と化している。庭は生い茂った雑草に覆われて、風で薙ぎ倒され、荒れ果てたままだ。月の光だけがヤエムグラの葉を透かしている。

 車は屋敷の南側に停車し、命婦を降ろす。迎える母君は、しばし口ごもる。そして、

 「今日まで生き延びただけでも辛い身ですのに、ミカドの伝令が深い雑草をかき分けて来るのは恥ずかしくて耐えられません」

と堰き止めていたのか、溢れる涙でいっぱいだ。命婦は、

 「訪ねると痛々しく気が滅入った、と典侍が報告したのを聞いておりましたが、私のような感情の起伏が乏しい者でも堪えられない気持ちになります」

と前置きして、言づてを伝える。

 「『夢の中の出来事だったと現実逃避していたが、だんだん冷静になって夢から覚めても現実は変わらない。やるせなく、どうしたら救われるのか語り合う人もいないので、人知れぬよう後宮に連れて来てくれないか。息子が湿っぽい屋敷で暮らしているのも耐えられないのだ。早く』と、ミカドが嗚咽混じりに弱々しく話します。人目も憚らないのが痛々しく、終わりまで聞かずに後宮を出発しました」

と手紙を差し出す。

 「目が腫れて見えなくなっていますが、その言葉を光として受け取ります」

母君は手紙を読む。

 「時が解決すると思っていたが、月日が経つにつれ悲しみが膨れ上がるのはどうしてか。息子のことを考えても、共に育てられず、無念で悔しい。亡き人の忘れ形見だと思って息子を連れて来てくれ」

などと胸がはち切れんばかりに書き付けてある。

 「秋草に風が涙を飛ばす音ちいさな萩の息子を憂う
 息子が心配なのだ」

とあるのだが、母君は最後まで読むことができない。

 「長く生きるのはとても辛いと知りました。松の木にまで引け目を感じるのです。そんな私が後宮に出入りなどできるはずもありません。ミカドの畏れ多い言葉と引き替えにしても無理なのです。ただ若宮のことだけは、お考えがあってのことでしょう。早く宮中に呼び寄せたいのはじゅうぶん承知で悲しんでおります、とだけお伝えください。私はこのような身の上ですので後宮にいれば不吉なだけでなく、もったいないばかりです」

などと言っている。若宮はもう夢の中だ。

 「若宮の顔を拝見して様子を伝えたかったのですがミカドがお待ちです。夜が更ける前に」

と命婦は帰りを急ぐ。

 「子を持つ親の悲しみが作った暗闇のカケラだけでもお話しして慰めていただきたいので、もう一度プライベートでお越しください。昔は祝い事の伝令だったあなたが、このように悲しいお遣いとして訪ねてくるのだから運命は残酷です。生まれた時から期待の娘でした。夫の大納言が死に際まで『娘の宮仕えをよろしく頼む。私の死を言い訳に、甘ったれて挫けることのないように』と何度も繰り返していました。しっかりと後押しできない家の娘が嫁ぐには壮絶な世界だとは知りながら、遺言に背かず踏ん張ったのです。ミカドの特別扱いが他人の癪に障ったのか、人とも思えぬ仕打ちを受けながらも何とか頑張っていたようです。それでも同僚の恨みを買って最後は犬死にしました。今ではミカドの特別扱いも、かえって恨んでしまう始末です。親心がこのような無茶を言わせるのかもしれません」

と母君がむせ返りながら語る間に夜が更けた。

 「ミカドも同じお気持ちです。『盲目の恋をして人を惑わせた。儚い運命を辿れば苦しい恋だった。人を苦しめるつもりは一度もなかったのだが、この恋が恨まれる必要のない人を恨ませ、その結果あの人は死に、私はひとりぼっちになった。荒れ狂う気持ちだけはそのままで、ますます間の抜けた男になってしまったのだから、いったい前世でどんな約束をしたのだろうか』と、ぼやいて泣くばかりです」

話は募る。命婦もただ泣くばかりで、

 「夜も遅くなったので、今夜のうちにミカドに報告しなくては」

と急いで立ち上がった。

 月の光が山の端に消えかかっている。透き通った秋の空に冷たい風が吹き抜けて、草むらから聞こえる虫の合唱が淋しく響く。立ち去るのが名残惜しい情景なのである。命婦は、

 泣き足りずふるえてしまう秋の夜 まるで我らは鈴虫のよう

と一首詠み、車に乗るのを躊躇っている。

 「草むらで泣き暮らす我虫のごと ふるわせたのは天のお遣い
 こんな我が儘もお許しください」

と歌い返して渡す。気の利いた物を贈る時でもないので、こんなことがあるかも知れないと思って取っておいた娘の形見の衣装一揃えと髪飾りを添えた。

 この屋敷に仕える若い女たちの悲しみもひとしおだ。朝から晩まで後宮に仕えた暮らしが身に付いているのだから、寂しくて耐えられない。ミカドを思い出して噂をしたり、母君に早く後宮に移るよう懇願する。それでも母君は「こんな面倒な婆さんが若君のお供をするのはみっともないのです。だからといって、しばらく若君と離れて暮らすのも心配だから」と逡巡して移住しようとしないのだった。

続きを読む

三 桐壺更衣死す。その葬送。

(現代語訳)
 その年の夏、ミカドの子を産んだお姫様は御息所と呼ばれるようになった。御息所は体調が芳しくなく実家に帰りたいのだが、ミカドが許してくれない。ここのところ病気ばかりしているので「いつものことだ」と思っているミカドは、「もう少しここで休んでいなさい」と言うのだが、どんどん衰弱し、一週間も経たないうちに重体になった。母親の北ノ方が泣いて懇願したので、やっと里帰りさせてもらう。こんな時でも、どんな意地悪をされるかわからないので、息子を置いて夜逃げのように宮中を出る。この限りある世界はミカドでも思い通りにならない。引き留めるわけにもいかず、ゆっくり見送ることもできない寂しさにミカドは切なくなるのだった。あんなに色っぽく、可愛かった彼女が、酷く痩せ細った姿で深く思い悩み、何も言わず暗闇にまみれていくのを見ると、何もかもどうでもよくなってくる。ミカドは泣きながら、あれこれ約束するのだが、彼女には返事をする力が残っていない。虚空を見つめ、消えそうな姿で夢見るように横たえている。ミカドは車で里帰りを許したが、部屋に入って彼女の姿を見ると恋しくてどうしてもここから出したくなくなるのだった。

 「あの世への旅でも一緒に行こうと愛し合ったのだから、私だけこの世に捨てて行くことはできないはずだ」

と、ミカドがだだをこねるので、彼女も悲しみに暮れて、

 「この命の限りの切なさに 死にたくないのあなたといきたい
 でも最初からこうなるってわかっていたわ」

と、切れ切れに辞世の短歌を詠んだ。まだ言いたいことがありそうだが、とても苦しく辛そうで、ミカドは「このまま看取ってあげたい」と思うのだが、

 「実家の方で今日からお祈りが始まります。今夜から相当な修行を積んだ僧が来るのです」

と、催促されて仕方なく見送る。胸がつぶれる思いでギラギラと目が輝いたまま眠れず、夜が終わった。

 様子を見に行かせた使者が帰るまで待てず、ミカドは「心配で仕方がない」と弱音を吐いていたが、「昨夜未明に息を引き取りました」と、実家の人々が泣きじゃくっていたので、使者も落胆して帰ってきたそうだ。それを聞き、ミカドは気が触れたようになって部屋から出てこない。それでも彼女の子供だけは、このまま置いて顔を見ていたいのだが、そうもいかず、彼女の実家へと向かわせる。大人たちが周囲かまわず泣き、父親まで涙を流しているのを見て息子は、何も知らないまま不思議そうにしている。ありがちな親子の死に別れですら悲しいのだが、こんな別れ方は言葉にならない。葬式には決まりがあるので、普通のやり方で葬った。それでも母の北ノ方は、「私も同じ煙になって空気に溶けてしまいたい」と泣き続ける。葬列の女官の車に後から乗り込み、愛宕斎場でしめやかに葬儀が行われている最中に到着したが、その心は計り知れない。空っぽになった亡骸を見ては、

 「亡骸を見ていると生きている娘の姿がちらついて仕方ないから、灰になっていくのを見て諦めます」

 と、殊勝なことを言うのだが、車から落ちるのではないかと思うほど取り乱している。「やっぱり心配していた通りになった」と周囲の人は取り扱いに困った。宮中から伝令が参列し、「三位の位を贈ります」と弔文を読み上げる声が斎場に涙を誘う。ミカドが「女御と呼ばれるようにしてあげたかった」と嘆き、悔しさと無念から、一階級昇進させたのだった。こんなことにも文句を言う人が多いのである。それでも、優しい心の持ち主は、彼女の美しさを褒め、素直で優しい性格を今さらながらに偲ぶのだった。「亡くなってからその人が恋しくなる」という短歌は、こういう心境で詠まれたものだろう。

 それから、時間だけが頼りなく過ぎ去った。ミカドは、法事にも気遣いまめまめしく使者を送った。時間が経つほど悲しみが増してくるので、どの妾とも添い寝をせず、ただ涙を流し放心していた。そんなミカドの姿を見ると、すっかり秋めいて誰でも湿っぽい気分になってしまうのだった。「何という愛し方だこと。死んでまで人の心にまとわりつくなんて」など、第一王子の母、弘徽殿は、いつまでも根に持ちチクチク愚痴っている。ミカドは第一王子をあやしていても、あの子のことを思い出してしまい、気を許している女官や乳母などを遣いに出し、様子を報告させた。

続きを読む

二 主人公ゲンジの誕生。相変わらず桐壺更衣が迫害される。

(現代語訳)
 そんな中、お姫様とミカドは前世から約束でもしていたのだろうか、この世の人とは思えないほど汚れなく、玉のような男の子が誕生した。ミカドは早く息子に会いたくて仕方なく、急いで呼んで来させると、あり得ない美貌の赤ちゃんなのだ。第一王子は、長官の娘が産んだので血筋がよく、皇太子にぴったりだと世間から尊敬されている。それでもこの赤ちゃんのキラキラした姿といったら比較するのも失礼なレベルである。ミカドは第一王子を手短に可愛がり、この赤ちゃんばかり、目に入れそうな勢いで可愛がった。母親のお姫様も、本来はミカドの側で世話をする身分ではなかった。評判の美女で周囲からも貴人扱いされていたが、いつの間にかミカドが常に側に置きたがるようになり、音楽会や楽しいイベントがあると決まって彼女を連れ出した。いつだったかは、彼女と一緒に寝坊をして、そのままダラダラと過ごしたこともあった。手段を選ばず彼女を側に置いたので、自然と家政婦のように思われるようになったが、赤ちゃんが生まれてからは、神棚に祀るように扱われた。その結果、「この赤子を皇太子にするつもりだ」と、第一王子の母親は疑いはじめた。この母親は、一番最初に後宮に嫁ぎ、最も甘やかされていて、娘などもいたので、ブツブツ不満を言い出すと、ミカドは面倒くさくて嫌になるのであった。

 一方、あり得ないほどの特別待遇を頼みに生きている彼女は、悪口を言い、粗探しばかりしている人に囲まれている。本人は、か弱く儚い存在なので、かえって心配事が募るばかりだ。彼女の部屋はミカドの寝室から一番遠い、桐壺御殿なのである。

 ミカドが彼女の部屋に通うには、たくさんの妾の部屋を通過しなければならない。こうまで素通りが多ければ、他の妾たちがイライラするのも当然である。また、彼女がミカドの部屋へ行くことが多くなると、廊下や渡り廊下の至る所にトラップが仕掛けられる。糞尿がばらまかれ、送り迎えをする人たちの着物の裾を汚すなど最悪だ。あるときは非常通路に閉じ込められて右往左往し、恥をかかされたこともあった。だんだんいじめがエスカレートするので、悩み事が多くしょんぼりするようになった。不憫に思ったミカドは、自分の寝室の裏にいる妾を追い出して、そこに囲った。追い出された人は、呪うしかなかった。

 この赤ちゃんも三歳になった。初めて袴を着ける儀式は、第一王子の時にも負けないぐらいで、役所や蔵の宝物を贅沢に使い盛大に取り仕切られた。その様子は世間から嫉妬されるばかりでなく、非難も絶えない。しかし、この子の成長を見ていると、顔や姿、性格までもが地球上の人間とは思えないほど素敵なので、憎んでばかりもいられない。心優しい人などは、「こんな人がこの世に産み落とされることもあるのですね」と、目玉を剥いて見つめている。

続きを読む

一 桐壺更衣、ミカドから愛され周囲から嫉まれる。

(現代語訳)
 あるミカドの時代の話である。女御だとか更衣などと呼ばれている人々が、たくさん後宮に暮らしている中に、どうでもよい身の上ではあったが、誰よりもミカドから愛されていたお姫様がいた。

 はじめから「私がシンデレラ」と、勘違いしていたお姫様たちは、納得いかず、嫉んだり陰口を叩くしかなかった。問題のお姫様と同じ境遇にある人たちは、たまったものではない。朝から晩まで他のお姫様たちを不機嫌にさせ、恨みを買ったのが爆発したのか、彼女はすっかり病気になってしまった。不安で心細く、実家に帰ることも多い。たちまちミカドは辛抱がたまらなくなり、人々が馬鹿にするのも構わず、女に溺れた男の見本にでもなりそうなぐらいの溺愛ぶりである。

 後宮にいるお偉方たちは、まるで見てはいけない物のように黙殺するありさまだ。「この恋は臨界寸前だ。外国でも皇帝が女に狂って内乱が勃発し、国が破綻した」などと、国家問題にまで発展し、「楊貴妃の二の舞になりかねない」と悪い噂が立つのも時間の問題だった。悩めるお姫様は前途多難だが、ミカドの激しい恋心と、特別扱いだけを頼りに後宮暮らしをするしかない。父の大納言は他界しており、母の北ノ方は古風な教養人で、「両親が健在で、世間から羨望を受けている姫君の生活にも負けないように」と、どんな行事の時にも気遣った。それでも、特別に面倒を見てくれる親戚もいないので、いざという時には頼りなく心細そうだ。

続きを読む

桐壺の帖 (系図と登場人物の年齢)

kiritsubo

桐壺の巻 登場人物関係図

|KIRITSUBO

主人公、ゲンジが誕生してから十二歳頃までのお話。桐壺更衣は二十歳前に死んでしまった。ゲンジが三歳、秋が始まった頃である。
(年齢は数え年)