カテゴリー : 源氏物語

一 ゲンジ、北山に行き明石入道の娘の話を聞く

(現代語訳)
 ゲンジの君はわらわ病で発熱を繰り返していた。やおよろずの加護を祈らせるのだが、効果が出ず発作が続いている。ある人が、「北山の何とか寺に一流の修行僧がおります。去年の夏、この病が流行した折にも、他の僧侶たちは匙を投げていたというのに、片っ端から治療したそうですよ。長引くと厄介ですから、すぐにでも診てもらってください」と勧めるので、往診を依頼してみた。しかし、「老衰で足腰が立たないので往診は行っておりません」と断られてしまったのだった。「贅沢は言っていられない。隠密に訪ねよう」とゲンジの君は、四、五人の気の合う取り巻きを引き連れて未明に旅立つ。

 目的地はいささか山深い。三月末日なので都の桜は終了していたが、山は花盛りである。山が深まるにつれて霞がたなびき、一面にパノラマが広がる。普段は僻地に来ることもない、やんごとなき面倒くさい身分のゲンジの君は、わくわくせずにいられないのだった。

 寺は風格があった。峰高い岩の深くに例の聖が住んでいる。ゲンジの君は岩を登った。自分の正体を明かさず目立たぬ身なりをしていたが、光り輝く男である。

 「かしこめ、かしこめ。先日、往診を依頼された皇子様ですね。今となっては、わたくしめの意識も彼岸に飛んでおりますので、もう霊験を引き寄せる法も忘れましたわい。何かご用でいらっしゃいますか」

と聖は驚くのだが、微笑みながらゲンジの君を見つめている。いかにも本物っぽい大聖なのである。聖は薬を処方し、ゲンジの君に飲ませた。仏の加護を祈っていると日が昇り出すのだった。ゲンジの君は、しばし外に出て周囲を展望する。高台なので、ここかしこの寺院宿舎が、はっきりと見下ろせるのだった。

 「曲がりくねった道の下に、同じような柴を編んだ垣根が見事に張り巡らされているね。素朴な家が廊下続きになっていて、木立がそよそよ揺れている。どんな人が住んでいるのかな?」

とゲンジの君がたずねると、取り巻きの一人が、

 「あれが、例の僧侶が二年ほど籠もっているという宿舎ですよ」

と答えるので、

 「ずいぶんな身分の人が住んでいる所だね。こんな小汚い姿を見られたら格好がつかないな」

と漏らす。洒落た女の子供たちが蜘蛛の子を散らすように出てきて、聖水を汲んだり、花を折ったりする姿が丸見えなのだった。

 「あそこに女がいる」

 「僧侶は女なんて囲わないだろ」

 「どういう女だろうか」

と取り巻きが騒ぎ出す。とうとう下へ降りて覗く者もいて、

 「着飾った若い女や女官、女の童が見えた」

と言う。

 ゲンジの君は祈っている。日が盛って、「病は良くなるだろうか」と逡巡していると、

 「気分転換でもして思い詰めないのが一番の治療ですよ」

と聖に諭されたので、後ろの山に登って都の方角を眺めてみた。

 「遙か彼方まで霞んでいるね。あたりの梢が霧まみれだ。絵を見ているようだよ。こんな場所に住めば仙人気分だろう」

とゲンジの君が言うと、

 「まだまだこの辺の景色は序の口です。最果ての地にある海や山の佇まいを見たら、絵画の神髄も会得できましょう。富士の山、その他の山」

などと話す取り巻きがいた。それから西の国の、煌びやかな海岸や、磯の展望について話し、取り巻きたちは、ゲンジの君の意識を病から切り離そうとするのだった。

 「この近くでは、播磨の国の明石という海岸が壮観です。なにが凄いと聞かれても困るのですが、じっと海面を見渡すと他の海にはない雄大さがあるんです。前任の播磨の長官が仏門に入りまして、娘を純粋培養している家があるんですが、これがまた見事なんですよ。その入道というのが、大臣の後裔で出世頭だったのですが、変態なんです。人付き合いが嫌いで、近衛中将だったのに辞めちゃったんです。それから自ら進んで播磨の長官に左遷されたという変わり者でして。播磨の土着の者にも馬鹿にされたとかで、『どの面をさげて都に帰るんだ!』と逆上して坊主になったそうです。坊主が山奥に籠もらずに辺境の海に住んでいるのだから、おかしな話ですよね。播磨にも隠遁生活に相応しい土地がありますが、山奥は人気がなくて物騒ですし、若い妻子が惨めな気分になるからでしょうか、まあ、保養地のような住まいなんですよ。先日、帰省のついでに様子を見に行ったんです。入道は、都では干されていましたが、田舎だったら広大な土地を買い占めて屋敷を造築することもできたんでしょう。何と言っても播磨の長官ですから、悠々自適のリタイヤなんです。来世への願いも半端じゃなくって、むしろ坊主になってから貫禄が出てきた人ですね」

と取り巻きの一人が言った。ゲンジの君は、

 「で、その娘というのは」

とたずねる。

 「まずまずですね。見た目や性格も悪くないです。歴代の長官も下心があるようで、求婚をほのめかすのですが、入道は全く相手にしないんです。『落ちぶれた自分に変わって、一人娘に托した信念がある。私の死後、意志を遂げられないのであれば海に身投げしなさい』などと、とんでもない遺言を繰り返していまして」

と答えるので、ゲンジの君は興味津々である。取り巻きたちは、

 「竜宮城の姫にでもなるのかよ」

 「身の程知らずにも程がある」

などと馬鹿にしている。

 こんな話をするのは、今の播磨の長官の息子で、六位の蔵人から五位に出世し、都に配属された男なのだった。

 「お前は助平だから、その入道の遺言を破ろうとしているんだろう」

 「それで覗きに行ったんだな」

と茶化されている。

 「とやかく言っても田舎娘だもんな。幼いときから田舎で育って、そんなカビ臭い親に教育されているんだから」

 「いや、母親の血筋がいいのだろう。そこそこの若い女官や女の童たちを、都の上流家庭からゆかりを辿って呼び寄せたのさ。ピカピカに娘を可愛がっているようだ」

 「次の播磨の長官にえげつない人が就任したら、そんな悠長なこともしていられんだろう」

などと取り巻きたちが話す。ゲンジの君は、

 「なぜ海の底までも深刻に考えるんだろうね。海底のミルメという海草は見る目にも汚いだろうに」

と駄洒落を言うのだが、実は好奇心でいっぱいなのだった。取り巻きたちは、ゲンジの君の変態好きを知っているので、こんな話を喜ぶのは、お見通しなのである。

 「そろそろ日が暮れます。ずいぶんと顔色が良くなってきたようですよ。急いで撤収しましょう」

と誰かが言うのだが、聖はそれを制し、

 「悪霊に取り憑かれたというお話も伺いましたから、今夜は静かにお祈りをなさって、それからお戻りください」

と言う。「確かにそうだ」と一同も納得する。ゲンジの君は、「こんな旅行は滅多にできない」と興奮ぎみに、「それでは明日の明け方に帰ろう」とはしゃぐのだった。

 

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若紫の帖 (系図と登場人物の年齢)

若紫帖 関係図

|WAKAMURASAKI

主人公、ゲンジ十八歳の三月から十月までのことである。

 若紫    …… 十歳
 若紫の祖母 …… 推定四十歳
 藤壺    …… 二十三歳
 葵上    …… 二十二歳
 明石の娘  …… 九歳 

 
これまでのあらすじ

 ミカドから寵愛を受けた桐壺更衣の御子が、主人公のゲンジの君である。桐壺更衣は、後宮の虐めの心労で夭逝してしまう。私生児同然になったゲンジの君だが、その美貌と才能を武器に後宮を騒がせる貴公子へと成長した。

 雨の夜、ゲンジの君は、部屋に訪れた貴公子たちの話を聞き、中流階級の姫君に興味を持つ。翌日、ゲンジの君は人妻の空蝉と関係を持ってしまった。空蝉はゲンジの君に憧れながらも、深みに嵌らぬよう執拗に拒む。ゲンジの君は空蝉を求めて奇襲を仕掛けるが、空蝉は夏衣を一枚残し消えてしまうのであった。空蝉はゲンジの君の愛情を思って悶絶し、自らの運命を重ねた和歌をなぞる。

 失意のゲンジの君は、乳母であるコレミツの母を五条に見舞った。隣には白い花が咲く家があった。女童が白い花を乗せて差し出した扇に、意味深な歌がしたためてあり、ゲンジの君はこの家の姫君に興味を持つ。お互いに正体を隠したままの恋が始まり、次第に二人は引かれあう。八月の十五夜、ゲンジの君は女を荒ら屋に誘った。その夜、ゲンジは女の可愛さに心を奪われるのだが、深夜に悪霊が現れ女に取り憑いた。女は未明に息を引き取った。コレミツの力を借りて人知れず葬儀を済ませたが、ゲンジの君も病に倒れてしまう。病状の回復後、女に付き添った女官の右近から詳細を聞き、ゲンジの君は、頭中将の愛人の夕顔だったと知るのだった。

十四 空蝉、伊予に下る

(現代語訳)
 十月初日、伊予のスケが任地へ旅立った。「女たちも一緒に旅立つ」と聞き、ゲンジの君は心づくしの餞別をする。他にも内緒で、精密な細工を施した櫛や扇の数多くと、手間をかけた祓え幣を贈り、例の薄い衣を添えて空蝉に返却した。

 巡り会う形見と思い想い出の涙で朽ちる袖の夏服

と一首詠んであったが、手紙の詳細を説明するつもりはないので、いつも通り省略する。届けに来た使者が帰ってしまったので、空蝉は弟を伝令に薄い衣の返歌を送った。

 抜け殻を返して貰う夏服の夏は戻らぬ夏の蝉鳴く

 「考えれば、あり得ない執念で拒絶し続けた女だったな」と思うゲンジの君に、空蝉は爪痕を残したのだった。今日は冬の立つ日である。折しも時雨れて空が寂しい。ゲンジの君は放心しながら、一首詠む。

 去る人も別れる人もそれぞれの秋の終わりに分かれ道ある

 秘められた恋は浪花節だったと身に沁みて知っただろう。こんな醜態を必死に隠すゲンジの君が哀れなので、何もかも割愛していたのだが、「なぜミカドの息子だからと、スキャンダルを知る人が揉み消し、そんなに崇め奉るのだ」と意見され、この物語が「絵空事だ」と言われたのにいたたまれなくなって書いた。この口の軽さが、血祭りに上がることを覚悟の上で。

 

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十三 夕顔の四十九日

(現代語訳)
 夕顔の四十九日の法要は、人目を憚り比叡山の法華堂で取り行われた。ゲンジの君は、略式にせず、装束をはじめ必要な物は全て入念に揃え、ひたすら経文を唱えさせた。経巻物や仏の装飾も格別である。コレミツの兄は徳の高い阿闍梨で、これを立派に取り仕切った。ゲンジの君と昵懇な漢学博士を呼び、仏への願文を作らせる。ゲンジの君が、故人が誰かを隠したまま、「愛した人が儚く亡くなってしまったので、後は阿弥陀仏にすべて委ねます」と手厚く書いて博士に見せると、

 「これでよろしいでしょう。添削の必要もありません」

と答える。ゲンジの君が、耐えきれず涙を落とし身悶えるのを見て博士が、

 「どんな人でしょうか。あなたの思い人が亡くなったとは聞いていませんが、こんなに煩悶させるとは、何とも幸せ女性です」

と慰めるのだった。

 ゲンジの君は秘密に仕立てさせた装束の袴を手にして、

 泣き濡れて今は結ぶ下紐を 再びほどく日をも知らずに

と一首詠み、来世に托して下紐を結ぶ。「四十九日の間、この世を彷徨っていた魂は、どこへ流れていくのだろう」と思いを馳せ、ひたすら祈った。

 ゲンジの君は頭中将を見ると訳もなく動揺した。娘の撫子が生きていると知らせたいが、追及されるのが怖くて言い出せないのだ。

 あの夕顔の咲く家では、行方不明の姫を心配するのだが、捜索が難航した。右近とも音信不通なので不審に思うのだが、悲しみに暮れ合うしかなかった。通っていたのはゲンジの君ではないかという未確認情報もあったので、コレミツを尋問してみたが、我関せずを決めこんでいる。適当に誤魔化し、相変わらず浮ついている様子は、悪い冗談のようだった。「もしかしたら地方役人の変態息子が、頭中将に恐れをなして田舎へ誘拐したのではないか」と良からぬ想像まで膨らませる始末である。

 この家の主人は、都の西の乳母なる人の娘である。三人姉妹だったが、右近とは血が繋がっていないので、「右近が他人行儀に何も教えてくれないのだ」と泣き偲ぶ。右近の方でも、面倒な事になるのは嫌だった。ゲンジの君が事実の露見を恐れて隠蔽しているので、幼い姫の消息を聞くこともできない。かくして時間だけが過ぎ、夕顔の亡骸は行旅死亡人扱いになったのだった。

 ゲンジの君は夢にでも夕顔と逢いたかった。比叡山の法事の翌晩、あの荒ら屋で枕元に浮かび上がった悪霊が、ぼんやりと現れたので、「荒れ地に巣喰った化け物が自分に憑依して、取り返しの付かないことが起きたのだ」と考えて身震いした。

 

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十二 空蝉、ゲンジを見舞う

(現代語訳)
 あの伊予のスケの家の小君、空蝉の弟が、ゲンジの君の所へ来ることはあったが、以前のような伝言はなくなった。空蝉は、「嫌な女だと思って相手にしなくなったのね」と後ろめたく思う。そんな折に、ゲンジの君の病を聞いたので、さすがに溜息も漏れるのだった。これから夫に連れられて都を下ろうとしているので、やはり寂しく、「もう忘れてしまったのかしら」と、試しに、

 「病気だと聞いて心配していますが、伝える言葉を持っていなくて、

 問わぬのはなぜと問わずに時が過ぎ気づかぬうちに心乱れる

 人よりも自分が苦しいという歌は本当でした」

と便りを出したのだった。ゲンジの君は、まさか空蝉から便りがあると思わなかった。あの恋心を忘れられずに、

 「生きている意味がないというのは、誰の台詞でしょうか、

 抜け殻の落ちる世界が憂鬱だと教えた君にいのち繋がる

 儚い私です」

と返す。病後の震える手で乱れ書いた手紙もまばゆいばかりである。空蝉は、「あの抜け殻のことを忘れていないのだ」と思い出し、恋しくもあり、面はゆくもあった。こんな事務的な文通ならするのだが、それ以上の進展は望まない。それでもつまらない女とは思われずに終わりたいと思う打算だけは働くのだった。

 もう一人の軒端の荻は、蔵人少将を婿にしたと、ゲンジの君の耳に届いた。「理解に苦しむ。私たちの関係を知ったら少将はどう思うだろうか」と、ゲンジの君は身につまされる。そして、あの女のその後も気になるので、空蝉の弟を呼んで、

 「私が死ぬほど愛しているのをわかっていますか」

と伝言させる。

 ひそかにも軒端に荻を結ばずに露の恨みをかけたりしない

と手紙を長い荻の枝に結んで、「人に気づかれないようにしろよ」と言うのだが、むしろ、「少将に見つかって、発覚すれば良い」と思った。「知られても、奴は許さざるを得ないだろう」と世間を舐めきっているのだった。

 弟が少将の留守に手紙を持って行くと、軒端の荻は、「世間体が悪い」と思いながらも、思い出してくれたのが嬉しくて、「即興だから」と開き直って返歌を渡す。

 突然の思わせぶりの風にゆれ露につつまれ枯れてゆく萩

下手くそな筆跡を誤魔化すように、気取って書かれた文字が歪んでいる。ゲンジの君は、火影で見た二人の女を思い出した。「碁盤に差し向かって姿勢を正していた人は、いつまでも忘れられない印象があった。この人は何も考えずに、はしゃいでのぼせていたな」と懐かしく、嫌な気はしなかった。性懲りもなく、また女好きの浮き名を立てそうな雲行きである。ゲンジの君は何の学習もしていないようだ。

 

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十一 夕顔の正体

(現代語訳)
 九月の二十日を過ぎると、ゲンジの君の病は完治した。すっかりやつれたのだが、それが何とも色っぽいのだ。空気ばかり見つめて声を上げて泣いている。それを見た女官は、「化け物に取り憑かれたのかも知れない」と心配するのだった。

 気持ちの良い夕暮、ゲンジの君は右近を呼び、お喋りをする。

 「どうしてあの人は正体を隠したんだろう。理解に苦しむよ。たとえ漁師の子だったとしても、この私の恋の炎を振り払って牽制したんだから、寂しいね」

などとゲンジの君が言い出すので、右近は、

 「強情に隠す理由はありませんでした。伝えるタイミングを逃しただけです。知られても、どうにもならない名前ですから。虹をつかむような出会いに、姫様は『現実世界の出来事に思えない』と言っていました。あなた様のことも『名前を隠すほどの身分の人なのでしょう』って……。その場限りの遊びと考えて悩んでいました」

と答えるしかなかった。

 「お互いにやせ我慢だったね。私だって隠すつもりは無かったよ。でもね、こんな火遊びは初めてだったんだ。私には、ミカドからの忠告もあるし、他にも用心することが多い境遇なのだ。ただの戯れ言をしても、大火事のように騒がれて、たちまち批難の的になってしまう。それでも、あの白い花を見た夕暮から恋が始まった。あの人が心にちらついて、無茶をしてでも会いに行ったのに、こんな仕打ちに合うなんて。今は懐かしく、そして切ない。こんなに儚い恋なのに、なぜあんなにも悲しく可愛い人だったんだろう。もっとあの人のこと話して欲しい。今夜は何も隠さず教えてくれ。七日七日、仏画を描いて供養しても、誰のことを心に思えばいいのか、わからないんだ」

とゲンジの君が言うのだった。

 「隠し事なんて滅相もない。ただ、本人が隠し通したことを、亡き後に話すのは、あまりにも口が軽いと思いまして。そう、あの方のご両親は早くに他界しました。殿は三位中将と申した方です。姫様をずいぶんと可愛がっていましたが、ご自身の出世がままならないことを悩んでいるうちに、命さえままならなくなってしまって。そんな折、偶然にも、まだ少将だった頭中将様がご執心になったのです。三年間、熱心に通っていらっしゃったのですが、去年の秋、中将様の奥方の実家から、とても非道いことを言われました。臆病な姫様は、恐ろしくて仕方がなかったのでしょう。都の西に乳母がおりましたので、逃げて隠れたのです。そこも息苦しい場所で、住み続けるのが限界になりました。山奥に籠もろうかと思っていた矢先に、今年から不吉な方角になってしまって。方位除けへと、場末へ潜伏していたら、あなた様に見つかってしまったのです。姫様は、途方に暮れていました。人一倍神経質な人だから、恋心を知られるのが恥ずかしかったのでしょう。ことさらに平静を装っていたようです」

と右近が話すので、ゲンジの君は「やっぱりな」と思い、ますます夕顔が可哀想になった。

 「中将は子供が不明だと嘆いていたが、それは本当か?」

と右近に問うと、

 「はい。一昨年の春に生まれました。あどけない女の子でして」

と答える。ゲンジの君は、

 「どこにいるのか? 誰にも内緒で私に預けるようにしてくれないか。儚く死んだ人の形見だと思えば、これほど嬉しいことはない」

などと言い出すのだった。挙げ句の果てには、

 「本当は中将に伝えるのが筋だが、細かいことで恨まれるかも知れない。どちらにしても、育てて悪いって言うことはないのだから、その子の乳母をも適当に誤魔化して、ここに連れてきてくれ」

と言い出す始末だ。

 「それは嬉しいお申し出です。あの都の西で大人になるのは不憫ですから。私たちではろくな教育ができいので、あそこに預けてあるだけなのです」

と右近も満更ではない。

 夕暮は静かで、空も透き通っている。庭の植え込みは枯れ枯れで、虫の声も虫の息だ。染まりゆく紅葉が絵画のように広がる。見渡す右近は、まさかの展開に、あの夕顔の咲いた五条の家を思い出して恥ずかしくなるのだった。竹藪の中では家鳩という鳥が不機嫌に鳴いている。それを聞くゲンジの君は、例の隠れ家で、この鳥が鳴く声をずいぶん怖がった夕顔の姿が、なんとも可愛らしかったと思い出されて、

 「あの人は何歳だったのか。人並み外れて華奢には見えたのだから、やっぱり長生きはできない人だったのだ」

と聞いた。

 「十九歳になったのでしょう。私は姫様の亡き乳母の娘でございます。母に捨てられたように先立たれた私を、三位中将の君が可愛がってくれまして、姫様の側から離さず育ててくれましたのに。ご恩を思えば、私など生きていることも憚られます。どうしてあんな生活に馴れてしまったのかと、今となっては後悔さえします。か弱い姫様だけを頼りにして、ずっと今日まで生きて来たのですから」

と右近が答える。ゲンジの君が、

 「儚くみえる女はいとおしい。頭が良くても我が儘な女なんて、とても好きになれない。私は鈍くさくて頼りない男だからね。女は無邪気で、ともすると男に騙されそうな感じもするのだけど、やっぱり臆病で、恋人だけを信じているような人が可愛いんだ。そんな人を、私の思いどおりに教育していけたら、きっと素敵だろうね」

などと言うので、右近も、

 「姫様だったら、そんなお好みにぴったりの人だと思うのです。思い出すだけでもつらくて」

と泣き出した。空が曇りだし、風が冷たくなる。ゲンジの君は空を静かに見つめ、

 亡骸の煙を雲と眺めれば夕日の空に恋は吸われる

と口ずさむ。右近は返歌できない。ただ、夕顔が生きていればと思い、胸が潰れるのだった。ゲンジの君は、騒がしく思った五条の衣を打つ棍棒の音さえ恋しく思われて、「八月、九月、まさに長き夜、千声、万声止むときなし」と歌いながら眠りに落ちた。

 

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十 ゲンジの君、夕顔の亡骸と対面する

(現代語訳)
 日が落ちてから二条院にコレミツが来た。触穢だと説明してあるので、訪問者は庭先で用を済ませ、人気がない。ゲンジの君はコレミツを呼び、

 「どうだ? 手遅れだったか」

と袖を顔に押し当て泣く。コレミツも貰い泣きして、

 「すでに息を引き取っていらっしゃいました。いつまでも亡骸を安置しておくわけにはいきません。明日が葬儀に適当な日取りですから、知り合いの高僧に段取りを依頼してあります」

と答える。ゲンジの君が「付き添いの女は?」と問う。

 「その人も、生きているのが嫌だと……。後を追うと取り乱しまして、今朝は谷に身投げをしようとしました。『五条の家に知らせます』と言うので、『落ち着いてから事情を説明しなさい』と言い聞かせてあります」

コレミツの報告に、ゲンジの君は悲しみが増して、

 「私も体調が優れない。そろそろ死ぬかも知れない」

などと弱音を吐くのだった。コレミツは、

 「何を言い出すんですか。そういう考え方は良くありません。全ては運命に委ねられているのですよ。今回のことは誰にも知られぬよう、コレミツの面子にかけて全てを解決させます」

と励ます。ゲンジの君も、

 「そうだな。だけど、私の女たらしが人命を奪うとは。世間の糾弾が怖い。お前の妹の少将命婦にも内緒にしてくれ。尼君にはなおさらだぞ。浮ついた話にはうるさい人だから、これが知れたら顔向けできない……」

と釘を刺す。

 「他の法師たちにも、適当な話をして誤魔化してあります」

とコレミツが言うので、ゲンジの君は少し安心した。この密談を僅かに聞いた女官などは、

 「おかしい。触穢だと言って後宮にも参内なさらないし、秘密会議をして、ため息なんて」

といぶかしむ。

 「葬儀は人事を尽くせ」

とゲンジの君が式の手順を言い聞かせるのだが、コレミツは、

 「そう重々しいのは無理でしょう」

と立ち上がった。ゲンジの君はいっそう悲しくなり、

 「お前は駄目だと言うだろうが、私はもう一度、あの人の亡骸と対面したい。馬で向かうぞ」

と駄々をこねる。コレミツは節操がないと思いつつ、

 「そこまでお考えでしたら仕方がありません。早くお出かけになって、夜更け前にはお帰りください」

と折れるのだった。夕顔の元へ通うために仕立てた、変装用の狩衣に着替えて出発する。

 心が暗闇に支配されるのがたまらなく、この危ない道を進むのだが、危険な目に遭うのはもう懲り懲りだった。迷いに迷ったが、悲しみのやり場が他になく、「夕顔の亡骸を現世で見ておかなければ、次の世界で巡り会うことができない」という思いに駆られて、五条に忍んだように、コレミツと家来を連れて先を急ぐ。道程が果てしなく感じられた。

 立ち待ちの月が上る夜の始めに、賀茂の河原を下る。先駆の火が頼りなく、鳥辺野の葬地は不気味だが、ゲンジの君は何も感じない。ただ悲しみに暮れたまま到着したのだった。寒気がするような場所に、板葺きの家があり、隣には尼が勤行をする堂がある。寂寞の地だ。仏に供えた灯りが隙間から微かに漏れている。建物からは女が一人、泣く声だけが聞こえる。外では、二、三人の僧侶が、おしゃべりをしながら小声で念仏を唱えている。寺々の夕方の勤行も終了し、あたりは静まりかえっているのだった。清水寺だけは灯りが多く見えて人々が往来している。尼君の息子の高僧がしめやかな声で経を読んでいるので、ゲンジの君は涙が涸れるまで泣けそうな気がした。中に入ると、灯りを亡骸から遠ざけ、屏風の向こうで右近が泣き伏している。ゲンジの君は「どんなにやりきれないことだろうか」と胸を詰まらせた。夕顔の亡骸は気味悪さもなく、可愛らしいままで、まだ生きているようだ。ゲンジの君は、亡骸の手を取って、

 「もう一度、声を聞かせてください。前世でどんな契りを交わしたのでしょうか。短い間だったけど、私の全てを捧げて愛したというのに、あなたは私を残して悲しませるのですね。あんまりだ」

と憚らず泣きに泣いた。この男の正体を知らない僧侶達も、愛情の深さに、みな貰い泣きした。

 ゲンジの君は、右近に、

 「さあ、私と一緒に二条院へ行きましょう」

と言うのだが、右近は、

 「子供の頃から、いつでも一緒だった人と急に別れることになったのです。私にはもう、帰る場所なんてありません。みんなに何て弁解したらいいかもわからない。姫を亡くして悲しいだけじゃないの。みんなから後ろ指を指されるのが怖い」

と泣きじゃくり、「煙になって姫と一緒に消えてしまいたい」と喚く始末だった。

 「お前の気持ちもわかるが、人の死はどうにもならない。離別は全て悲しいのだ。先に死ぬか、後に残されるか、それは寿命で決まっている。落ち着いて、私を信じるんだ」

とゲンジの君が諫めるのだが、彼もすぐに、

 「こんなことを言う私も、生きる自信がない」

と弱音を吐いた。コレミツが、

 「夜が明けてしまいます。早く帰りましょう」

と急かす。ゲンジの君は何度も振り返り、胸を詰まらせながら二条院を目指した。道は大量の朝露を受け、深い霧が視界を奪う。位置感覚を失ったゲンジの君は、知らない場所を彷徨っている気分だった。生きているように寝かされた夕顔の亡骸、一緒にくるまって眠った自分の赤い着物が掛けられていたことなどを思い出せば、前世でどんな縁があったのかと偲ばれる。ゲンジの君が馬にも乗れないほど混乱しているので、コレミツが介抱しながら進む。賀茂の土手を過ぎる頃、ゲンジの君は馬からするすると落ちて、狼狽したまま、

 「このまま道ばたで野垂れ死ぬのかもしれない。二条院まで持たない」

とこぼした。これにはコレミツも動揺した。「私にもっと配慮があれば、君の我が儘を突っぱねて、こんな道を連れ歩いたりしなかった。やはり、葬地にお連れするべきではなかったのだ」と思えば泣けてくる。川の水で手を清め、清水観音の方角を拝み、途方に暮れた。それでも、ゲンジの君は、必死に耐えて心に仏を念じた。コレミツたちに助けられて、やっとの思いで二条院へ到着したのだった。

 ゲンジの君が不振な夜歩きばかりしているので、女官達は、

 「見苦しいことをしていらっしゃる。最近はせわしなく夜歩きをしているけれど、昨夜はあんなに顔色が悪かったのに。そこまでして出かけるなんて正気じゃないわ」

と歎き合うのだった。

 ゲンジの君の体調が悪化した。とても苦しがり、二、三日後には憔悴した。ミカドが知って、心配したのは計り知れない。各地で祈祷が催された。祭、お祓い、加持祈祷など、あらん限りが尽くされる。この国の人々は、「人間離れした美貌のお方だから、美人薄命とはこのことか」と、噂し、騒ぎ立てた。

 病苦に悩まされる間にも関わらず、ゲンジの君は右近を二条院に呼んだ。自分に近い部屋を与え、身の回りの世話をさせる。コレミツはゲンジの君の病に動揺していたが、決して表には出さず、頼りなさそうにしている右近を支えて伺候させた。ゲンジの君は、病状が少しでも軽くなると右近を呼び出し身の回りの世話をさせたので、暫くすると右近もこの生活に慣れた。真っ黒な喪服を着た右近は、大した美貌ではなかったが、端から見ればまずまずの若い女官のようだ。

 「短かったが、不思議な関係だった。私もこのまま生きていられないような気がする。長く頼りにした主人を亡くしたあなたは、ずいぶん寂しいだろうね。私が生き長らえたら、あなたの面倒をみさせて欲しいのだが、私もあの人の後を追うことになるだろう。あなたには悪いことをした」

とゲンジの君が右近にだけ聞こえるように言い、消え入りそうに泣くので、右近は主人のことも忘れて、この男の病状をどこまでも不憫に思った。

 二条院の人々は、戸惑いに宙ぶらりんだ。後宮の使者は雨脚よりも激しくやってくる。ミカドが心痛が尋常ではないことを聞き、ゲンジの君は畏れ多く思い、努めて気丈を装った。左大臣家の面々も献身的に看病した。左大臣は毎日、見舞いを欠かさず、まめまめしく世話をした。その効果だろうか、二十日以上も寝込んでいたが後遺症もなく、ゲンジの君の病状は徐々に快復へと向かった。

 三十日間の触穢の謹慎が明けた夜、ゲンジの君の病も回復した。ミカドの心配が気が気でなく、真っ先に後宮の宿直所に向かった。帰りは左大臣が自分の車で迎えに来て、病後の生活をうるさく監視した。ゲンジの君は虚脱状態で、しばらくの間は、パラレルワールドにでも生まれ変わったような気がしたのだった。

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九 コレミツ、夕顔の亡骸を処置する

(現代語訳)
 真夜中が過ぎ、少し風が強くなった。森の奥から、よりいっそう松の響きが聞こえてくる。妖しい鳥がガラガラと鳴いている。ゲンジの君は「梟というものだろう」と思った。よくよく思い返してみる。「どの里からも遠い不気味な場所だ。人の声もしない。どうしてこんな物騒な場所で乳繰り合おうと思ったんだろう」などと反省しても後の祭りだった。右近はといえば、放心状態でゲンジの君にへばりついて、ぶるぶる震えながら死にそうになっている。この女もおかしくなるのではないかと、ゲンジの君は右近を上の空で抱きしめた。正気なのは自分一人だと思えば、ゲンジの君も放心するしかない。灯りが淡く揺らぎ、母屋の境界に立ててある屏風の上や、あちらこちらの隙間に影が動き出す幻覚に悩まされ、何かの足音が、ひしひしと床を踏み、背後から擦り寄ってくる幻聴まではじまった。ゲンジの君は「コレミツの野郎、早く来い」と切に願う。夜這う家が無数にある男なので、家来達があちらこちらと探し回っているようだが見つからない。夜が明けるまでの長さが、千の夜に等しかった。

 やっと鶏の声が遙か彼方から聞こえる。ゲンジの君は「命までかけて、どうしてこんな恋をしなければならないのだろうか。自分の恋心だが、とんでもないことになった。恋路から足を踏み外して大怪我をした失敗例として後の世にまで語り継がれそうな醜態だ。隠しても事実は消えない。ミカドの耳に入るのは当然で、世の中にも煙が立つはずだ。おしゃべりな子供達の話題にもなりそうだ。そして、社会から変態扱いされるだろう」と気が気でないのだった。

 待ちわびたコレミツ朝臣がやって来た。いつもなら朝から晩まで嫌な顔もせずに言うことを聞くこの男が、今夜に限って近くにいないだけでなく、なかなか来なかったことを恨みつつも、ゲンジの君は呼び入れる。話をしようにも、蜃気楼のような出来事で、何から話していいのかわからないのだった。右近はコレミツ五位が来たのを察し、ゲンジの君と自分の主人の顛末を思い巡らせて泣きだした。遂にゲンジの君も我慢ができなくなった。自分一人が強がって右近の世話をしていたのだが、コレミツを目の前にすると緊張の糸が切れて、悲しみがこみ上げてくるのだった。どこまでも泣いた。そして、落ち着きを取り戻し、

 「大変なことになった。気が動転して言葉にならないんだ。こんな時には僧侶に経を読ませるんだろ。願いも立てなくちゃならない。阿闍梨に来てくれと言ったのだが」

と言う。

 「阿闍梨は昨日、山に帰りました。それにしても妙なことが起こりましたね。前から持病でもあったんでしょうか?」

 「それはなかったと思う」

とゲンジの君が泣く姿が美しく、別次元のようで痛々しい。見ているコレミツも悲しくなって、声を出して泣いた。

 何を言っても、歳を取って世の中の場数を踏んだ人は、いざという時に頼りとなるものだ。ここにいる青二才達では、どうにもならない。コレミツが、

 「ここの管理人に知れたら面倒な事になります。あの男は信用できますが、自然としゃべり散らす家族がいるかも知れません。撤収しましょう」

と言う。

 「でも、ここ以上に人気がない場所はあるまい」

とゲンジの君は怪訝な顔で答えた。

 「確かにそうですが、五条の家に至っては、女官達が悲しんで大騒ぎするでしょう。それに隣近所も多い。怪しまれたら里中に知れ渡る危険があります。山寺であれば、亡骸の搬送も日常なので目立つこともありますまい」

とコレミツは余念がない。

 「昔の知り合いの女官が、出家して東山に住んでいるので、そこに搬送します。私の父の朝臣の乳母が生き延びて隠遁しているのです。人が多い場所ですが、そこだけは閑散としています」

と言って、夜明け前の薄明かりにまみれ、車を寄せる。ゲンジの君に夕顔の亡骸を抱える力が残っていなかったので、コレミツが畳の上に敷いてあるムシロで巻いて車に乗せた。とても小さな夕顔の亡骸は、不浄でなく、可憐にさえ見えた。きつく巻くわけにもいかなかったので、ムシロの隙間から黒髪がこぼれてしまう。ゲンジの君が、それを見て目眩を起こし、悲しみに暮れる。最後まで見届けたいと思うのだが、

 「一刻も早く馬で二条院に帰ってください。明るくなると面倒ですから」

とコレミツが、右近を車に乗せた。自分の馬をゲンジの君に差し出し、自分は指貫の裾を括り上げて歩き出す。不思議な葬送だが、コレミツはゲンジの君の落胆が大きいのを見て、自分の事など構わず歩く。ゲンジの君に至っては、燃え尽きたように二条院へ帰って行った。

 女官達が、「どちらからお帰りでしょうか? 顔色が悪いようですよ」などと言うのだが、ゲンジの君は仕切りの布をめくって奥に入ってしまう。胸を押さえて考えてみると、ただ悲しい。「どうして一緒に車に乗らなかったのか。もし夕顔が蘇生したら、私が見捨てたと思って恨むだろうな」と取り乱しながらも気がかりなのである。胸がつかえて苦しい。ゲンジの君は、頭痛と発熱と悪寒を自覚した。このまま弱って、自分も死ぬのだろうと思った。

 翌日、日が昇ってもゲンジの君が寝ているので、女官達は心配になった。粥などをすすめるのだが、苦しくて受け付けない。ゲンジの君が「私は死ぬのだ」と思っていると、後宮から使者がやって来た。ミカドは昨夜、ゲンジの君が行方不明だったので心配していたのだ。左大臣家の貴公子たちも見舞いに来たが、頭中将にだけ、「立ったままで、少しだけこちらへ」と呼び、簾の中から言った。

 「私の乳母が、五月頃から重い病気でして。髪を下ろして尼になった効果があったのでしょうか、小康状態になったものの、またぶり返して危篤になったのです。一度見舞って欲しいと申し出があって、幼い頃から世話になっている人の今際の願いを無視するのも薄情だと思い訪問したんです。偶然その家の家来が病気になりまして、休暇を取らせる間もなく死んだらしくて……。私に遠慮をして日が暮れてから運び出したというのを後から知りました。これから後宮では神事が多くなりますので、縁起が悪いでしょう。謹慎の必要がありますので後宮には参内できません。それに今朝から風邪になったようで、頭痛がひどく苦しいので、こんな無礼な挨拶で申し訳ない」

頭中将は、

 「そうですか。では、そのように伝えますよ。昨夜の音楽会でも、ミカドはあなたを捜索させてご機嫌斜めでしたよ」

と伝令を終えて帰ろうとするのだが、振り返って、

 「何があったのか教えてください。まさか、そんな言い訳を私が信じるとでも思うんですか?」

と付け足す。図星なので、ゲンジの君は焦る。

 「詳細は説明しなくてもいいのです。突然の不幸に遭遇したとでも言っておいてください。本当に油断していました」

と誤魔化すのだが、胸の奥に言葉にできない悲しみが溢れ出す。ゲンジの君の体調は悪くなるばかりで、誰とも会おうとしなかった。頭中将の弟の蔵人弁を呼び出し、まことしやかに事情を説明し、ミカドに伝えるように頼み、左大臣家にも、事実を捏造した手紙を送って参上できないことを伝えた。

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八 夕顔、もののけに襲われる

(現代語訳)
 空が暗くなりゲンジの君がうとうとしていると、枕元に相当な美人が座っているのを確認した。

 「あなたを思うと狂おしいのに、こんな得体の知れない女と乳繰り合っているのね。気にくわないわ」

と女が金切り声をあげて、隣にいる夕顔を叩き起こそうとする。ゲンジの君は化け物の気配を察し飛び起きた。周囲の灯りが消えている。刀を引き抜いてから、右近を呼んだ。右近がちびりそうな顔をして出てくる。

 「渡り廊下の部屋にいる警備兵を起こせ。灯りを持ってこさせるんだ」

とゲンジの君が命令する。右近は、

 「暗くてとても無理です」

と泣きべそだ。ゲンジの君は「子供じゃあるまいし」とあざ笑って手を叩く。音が暗闇に反響して気味が悪い。誰にも聞こえなかったのか警備兵は来なかった。夕顔は怖さに震え動転している。汗びっしょりでパニック状態だ。

 「お姫様は神経質な方だから怖がっていると思います」

と右近も心配で仕方ない。夕顔が白昼の空を儚く眺めていたのを思い出して、ゲンジの君は哀れになった。

 「私が警備兵を呼んでこよう。手拍子は騒がしいからね。ここで彼女の側にいてやってくれ」

とゲンジの君は右近を夕顔の側に引き寄せて、西向きの扉を押し開けた。廊下の灯りが消えている。風が立つ。人影が少なく、警備をするはずの兵隊が悉く寝ている。管理人の息子で日頃から使っている男と子供が一人、それから連れてきた家来がいた。ゲンジの君が呼ぶと目を覚まして返事をする。

 「灯りを持ってこっちに来るんだ。警備兵は魔除けの弓を響かせろ。何でこんな物騒な場所で寝ている。コレミツ朝臣は何をやっているんだ」

とゲンジの君が怒鳴る。

 「先ほどまで待機していたのですが、ご命令もないだろうから明日迎えにあがると言って帰りました」

管理人の息子が平謝りしている。この男は警備兵なので慣れた手つきで弓を鳴らし「火の用心」と叫びながら警備室へ駆けていく。後宮では午後十時の点呼が終わった頃だろう。今は警備兵が名乗り合って確認している時間だと思えば、夜もそんなに更けていないはずだ。ゲンジの君は部屋に戻った。夕顔は倒れたままで、隣に右近が伏している。

 「どうしたんだ。怖がるのにも程がある。廃屋には狐のような獣が出て人を脅かそうと悪戯をするものだ。私がいれば大丈夫」

と右近を抱き起こす。右近は、

 「怖くて寒気がするので伏していました。お姫様はもっと大変なことになっています」

と引きつっている。

 「どんな様子なんだ」

とゲンジの君が夕顔に触ると呼吸がない。抱き寄せて揺すってもへなへなと失神したままだ。子供のような人だから悪霊に取り憑かれたのだろうとゲンジの君は途方に暮れてしまうのだった。警備兵が灯りを持ってくる。右近が腰を抜かしているので、ゲンジの君が自ら衝立を引き寄せて夕顔を隠す。

 「もっと近くへ」

とゲンジの君が叫ぶ。警備兵は急なことに混乱し、畏れ多くて部屋の前までも上がれないのだった。

 「非常事態だ。こっちへ来い」

とゲンジの君が警備兵を引き寄せて見てみると、夕顔の枕元に夢で見た美女が浮かび上がり、陽炎のように消えた。昔話で聞いたことがあったが、まさかこんな場面に遭遇するとは。鳥肌が立つ。それでも夕顔が心配でゲンジの君の心臓は破裂しそうだ。身の危険も忘れて、隣に伏し「おい」と呼びかけるのだが、夕顔の身体は冷たく息をしていない。手遅れだった。頼もしい相談相手がいる場所ではない。法師でもいれば何かの役に立ったかも知れないと思うが、強がったところでゲンジの君とて青二才だ。儚く絶命した夕顔を目の前に放心している。ゲンジの君は亡骸を抱きしめ、

 「生き返ってくれ。私を悲しませないでくれ」

と泣くしかないのだった。夕顔は冷たくなって死後硬直がはじまっていた。右近は怖さも忘れて泣き、取り乱している。ゲンジの君は紫宸殿に出た鬼の話を思い出し、

 「このまま死んだりはしない。闇夜の声は大袈裟に響くから静かにしなさい」

と不安を隠して諫めるのだが、あまりの急展開に呆然としてしまう。警備兵を呼び、

 「化け物に取り憑かれて苦しんでいる女がいると、コレミツ朝臣に急いで来るように伝えろ。阿闍梨がいたら内密に連れてくるように言え。尼君が詮索しても余計なことを言うなよ。私の冒険を許さないから」

とかろうじて命令するのだが、胸が塞がり、夕顔の死を目の前にして取り返しの付かないことをしてしまったと思うのだった。それを周囲の不気味な空気が包み込んでいた。

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七 コレミツの嫉妬

(現代語訳)
 目覚めると、太陽が天辺に昇る時間だった。ゲンジの君が格子の扉を跳ね上げる。荒廃した庭に人気がなく見渡しが良い。遠くの古い雑木林が不気味だ。近くの草木も鑑賞に堪え得る物ではなく、秋の野原が広がっている。池も水草で覆われていて、ここは荒れ地なのだった。別棟には部屋があって、誰かが住んでいるらしいが、ここからは遠い。

 「まるで幽霊屋敷だね。でも鬼だって私には手出しできないだろう」

とゲンジの君は余裕だ。まだ顔を隠しているが、夕顔がつれなく思っているようなので、「こんな関係になってまで隠し事をするのも良くない」と、

  「夕露を受けてひらいたこの花をあなたの前で咲かせてみせる
 露の光はどうだろう?」

一首詠んで覆面を取った。夕顔は思わせぶりな視線で、

  「光る露みていた花は夕顔で夕暮れ時の空目のように」

とかすれ声で返す。そんな夕顔を、ゲンジの君は意地らしく思うのだった。こうして二人がじゃれ合っている様子は、場所が場所だけに現世の光景には見えない。

 「あなたは誰なの? いつまでも話してくれないから私も正体を明かすつもりはなかったんだ。もうこうなってしまったんだから名前だけでも教えて欲しい。だって変だよ」

とゲンジの君が尋問するが、夕顔は「私は海の子、根無し草」とはぐらかし、心を許さず駄々っ子みたいだ。

 「私が先にちょっかいを出したのだから仕方がないか」

とゲンジの君は自嘲し、懲りずに話しかける。

 コレミツがゲンジの君の居場所を探し出し、果物などを持ってきた。騙した手前、右近に小言をされてはたまらないので、近寄ることができない。「君が、こうまで徘徊して尻を追いかける女は、きっと相当な上玉だな」と思い「自分が先に唾を付けてしまえばよかった。なんて俺はお人好しなんだ」と逃がした魚は大きかった。

 夕顔は世界の終わりのように静かな黄昏を見つめていた。向こうは暗くて不気味だった。ゲンジの君が端の簾を上げて近くに寝転んでいる。夕日にまみれた顔を見つめ合っていると、夕顔は地球のどこに立っているのかわからなくなった。だんだんと種々の悩みも忘れていくようで、心を許す姿が可愛らしい。ずっとゲンジの君にしがみつき、怯えているのが子供のようで健気だ。ゲンジの君は早めに格子扉を下ろし、灯りを点させた。

 「もう私たちはすっかり結ばれているのに、まだ隠し事をしているのだから理解できないね」

ゲンジの君は不満を言う。

 ゲンジの君は「後宮では、もう捜索がはじまっているだろうから、みんな私を探し回っているだろうな」と思った。それから「不思議な気持ちがする。六条の人は恨んでいるだろうな。悲しいことだが仕方ない」などと、すぐに六条御息所のことを思い浮かんだ。あどけない夕顔に向き合っていると「あんなにプライドが高くて、私を窒息させそうなのがよくない」と二人を天秤に掛けてしまうのだった。

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六 ゲンジの君、十五夜に夕顔を連れ去る

(現代語訳)
 十五夜の満月の光が隙間だらけの屋根からあふれ出し、ゲンジの君は見慣れない住居の様子が珍しくて仕方ない。夜明け近くになると、隣の家々から目を覚ました貧乏人の声が聞こえる。

 「ああ、寒い。今年は商売あがったりだ。このままじゃ田舎へ帰ることもままならねえ。おい、お隣さん聞いてるか」

などと愚痴を言い合っている。みみっちい己の仕事のために早起きし、騒がしくなる隣人達が夕顔には恥ずかしかった。見栄っ張りの気取り屋だったら、穴に入りたくなるような集落なのである。夕顔は無邪気なのか、つらくても、悲しくても、恥ずかしくても、平気だった。その仕草が優雅ですらあり、ぼんやりとしている。この騒がしく行儀の悪い隣人について何も知らないようなので、恥ずかしがって火照るよりも罪がない。

 ゴボゴボと落雷よりもおぞましく、踏み臼の音が枕元に響く。ゲンジの君も、これには参って「ああうるさい」と思うのだが、何の音なのかは見当が付かず、ただ「物騒な音がする」と聞くだけだった。せせこましい土地なのである。

 白い衣を打つ棍棒の小さな音が四方から聞こえ、滑空する雁の鳴き声と混ざり合い、不思議なことが多い。端にあった部屋なので、引き戸を開けてゲンジの君と夕顔は外を眺めていた。小さな庭に呉竹が澄まして生え、植え込みの露が後宮と同じように光っている。秋の虫がうるさい。壁に張り付いているコオロギも、普段は遙か彼方に聴くゲンジの君を突撃するように鳴き叫んでいる。いつもと違って面白く聴いているのは、女に狂った副作用なのだった。

 夕顔は白い着物の上に、ふわふわと薄紫の衣を重ねている。貧乏くさいのだが、儚くて可愛らしい。どこに魅力があるのかと問われれば身も蓋もないが、細い身体を震わせて何かを言う様子が痛々しくて男心をくすぐるのだった。ゲンジの君は「もう少し女らしさに気を遣えば」などと夕顔を見つめながらも、もっと距離を縮めたくなった。

 「さあ、この近くでゆっくりと夜を明かそう。こんな関係じゃつまらないから」

とゲンジの君が本性を現すと、

 「急にそんなことを言われても」

と夕顔は屈託がない。ゲンジの君の口が、いつものように自動的に女を口説いていると、夕顔の心を許す様子が尋常でなく、かと言って尻軽女にも見えないので、何もかもどうでも良くなってきた。右近を呼び出し、家来に命令し、車を寄せさせた。この家の女達も、この女狂いの気持ちを充分に察していて、不安に思いながらも下心を持っていたのだ。

 そろそろ夜が明ける。鶏の鳴き声は聞こえず、現世利益を夢みる人が老けた声で唸って参拝しているのが聞こえる。立っているのも覚束なく、修行も楽じゃなさそうだ。ゲンジの君が「明日消えていく露のような幻の世界で、いったい何を探しているのだろうか?」と聞き耳を立てると、「弥勒菩薩よ導き給え」と祈っている。

 「あれを聞いてごらん。来世のことまで祈っている」

とゲンジの君は便乗して、

 修行者の道を標に次の世もふたりのきずな結ばれてゆく

と一首詠む。楊貴妃と玄宗の誓いは縁起が悪いので、比翼の契りの代わりに弥勒菩薩を引っ張ってきたのだ。五十六億七千万年先とは気が遠くなる。

 前世の契りを知らない私なら来世のことを君は知らない

夕顔も返歌をするのだが、出来栄えに不安を隠しきれないようだ。

 いざよう月に誘われて、どことも知れぬ場所に行くことを夕顔はためらう。ゲンジの君が性懲りもなく口説いているうちに、月は雲に隠れ、明けてゆく空が輝きだした。人目に付かぬようにと、いつもの通り急いで出発する。ゲンジの君は夕顔を軽々と抱き上げて車に乗せた。右近が付き添う。近くにある怪しい家に連れ込んで、受付を呼び出し、荒れた門に羊歯が絡みついているのを見上げた。何とも言えない薄暗さだ。霧深く露で湿っぽい。簾を上げていたので、袖がびしょ濡れになった。

 「こんな経験は初めてだけど、心拍数が上がりそうだよ。

いにしえの人もこんなに迷ったか 私の知らぬ明け方の道

あなたは経験済みかな?」

とゲンジの君が誘導尋問する。夕顔は恥ずかしそうに、

 「山の果て知らずに連れて来た月は空の彼方に消えてなくなる

怖いわ」

と恐ろしさに震えながら誤魔化す。ゲンジの君は「人が大勢住んでいた所にいたから」と微笑ましく思い騙される。車を進入させ、西の建物に座敷の用意をさせてから、高い欄干に車の柄を立てかけて固定した。右近は意味もなく浮き足だって、昔のことなどを人知れず思い出してしまう。留守番の者が甲斐甲斐しく走り回っているので、この変態の正体をすっかり知ってしまったのだ。薄明かりの中で物が見えはじめる頃、ゲンジの君は車を降りる。急拵えの簡単な座敷が用意されていた。

 「お供の家来がいないのは不都合です」

と左大臣家にも出入りしている用務員がやって来て、

 「しかるべき人を呼び寄せましょう」

など余計なお世話を焼く。ゲンジの君は、

 「わざわざ人気のない隠れ家を探してきたのだ。余計なことを言うなよ」

と口封じする。粥を御前に出すにしても、配膳する家政婦がいない。何もかもが初めての旅寝、ゲンジの君は絶え間なく夕顔にじゃれついて、いつまでも語りつくすしか術を知らなかった。

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五 コレミツの調査報告

(現代語訳)
 一方、コレミツが引き受けた隣邸の偵察だが、ある程度わかったとみえて報告があった。

 「女の正体はさっぱりわかりません。人目を警戒して潜伏しているようですが、退屈なのでしょうか、南側の跳ね上げ扉の部屋に出てくることがあります。車の音が聞こえると若い女官たちが外を覗いたりするのですが、ここの主人とおぼしき女も交ざっているようです。よく見えなかったのですが、目眩がするほどの美女で……。この間、先払いをする車が通ったときです。見物していた小さな女の子が急いで奥に引っ込んだのです。『右近の方さま。ちょっと見て。頭中将さまがここの前を通るんだから』って言って。それなりの女官が出てきて、『うるさいこと』なんてぶつくさしながらも、『どうしてわかったの? どれ、私が見てみましょう』などと覗きに出るわけですよ。途中に板が渡してあるもんだから、慌てると着物の裾が引っかかっちゃうんです。よろめいた瞬間、板から転落しそうになって、『この橋は突貫工事なのね』と小言をひとつ、覗く気も失せたようです。頭中将の君は平服姿で、お供を連れていました。あの女の子が『あの人、この人』と、頭中将のお供や、お召しの子供を指さし数えていましたから、それでわかったんでしょう」

とコレミツ。ゲンジの君は、

「ちゃんと車を確認しておけよ」

と言い、「もしかしたら、頭中将が未練いっぱいだった女かも知れない」などと、女たらしの直感が働く。ゲンジの君が、もっと知りたそうな顔で疼いているので、コレミツは、

「実は、私もあの家の女官にちょっかいを出しているのです。とんとん拍子に成功しまして、家の様子も隅々まで見ておきました。女官だけの家だと偽装しているようで、わざわざ口に出して説明する若い女もいるのですが、こっちも惚けて騙されたふりをしてやりました。完全に騙し通したつもりなんでしょうが、子供がうっかり口を滑らせると、慌てて誤魔化す猿芝居です」

と笑っている。

「尼君の見舞いに行く。頼むから覗かせてくれ」

とゲンジの君は正気じゃない。

 仮寝の宿と言っても、あれでは、左馬のカミが言っていた下流階級の女だろう。そんな中から掘り出し物が……。瓢箪から駒が飛び出す予感に、ゲンジの君のスイッチが入った。

 コレミツは、ゲンジの君の要望なら、何でも応える覚悟だ。その上、彼もまた生粋の助平だったので、様々な困難にも臆せず実家と隣邸を奔走した。その結果、半ば強引にゲンジの君を女のもとへと通わせることに成功したのだった。詳細を書くつもりはないので、省略するのだが……。

 女の正体が誰であるか。それはこの際どうでも良い。ゲンジの君も自分の正体を明かさないことにした。必要以上に地味な姿に身をやつし、車には乗らず、歩いて女のもとへはせ参じる。それを見て、殺気さえ感じたコレミツは、自分の馬を差しだして走りまわった。

「愛の狩人たる者が、こんな足取りで歩いているのを見られたら一大事です」

などとコレミツは気が気でないが、隠密一行である。あの夕顔の花を手折った家来と、面の割れていない子供を同行させた。誰にも知れぬよう最善を期すため、コレミツの家をベースキャンプにすることも断念した。

 もちろん女は、この変態一行を不審に思った。気持ちが悪いので、使者が来ると尾行させ、明け方に一行が帰っても尾行させた。「どこの誰か」と探偵まがいのことをしてみるのだが、ゲンジの君は姿をくらませ逃げてしまう。それでもやはり、この女が好きで好きでたまらなく、どうしても逢いたい衝動を抑えられない。「何て馬鹿なことをしているんだろう」とか「軽薄すぎる」と頭では理解はできても、足は自動的に女の家へと向かってしまうのだった。

 火遊びは、真面目な男ほど炎上しやすい。ゲンジの君は不真面目なので、今まで後ろ指を差されるような失態は犯さなかった。しかし今回は別である。朝に別れたばかりでも、昼には発情し、乱れ、迷った。無性に胸が張り裂けるので、「あんな女は、特に気にとめる必要もないよな」と、精一杯、自分を冷却するのだが、冷やせば冷やすほど燃え上がる。女の素直な仕草や、とぼけた様子、不用心で考えが浅いこと、無邪気で子供っぽいのに、男を知らないわけでもないことなどが、次々とちらついて消えない。「たいした身分でないことは間違いないが、私は何でこんなに発情しているだろうか?」と、ゲンジの君は何度も身悶える。

 ゲンジの君は、わざとらしい変装に覆面を着用して夜這った。人が寝静まった夜更けに参上し、夜が明けぬ早朝に退散するので、怪談めいて、さすがに女も気味悪く思った。それでも肌の感触は正直だった。「いったい、誰なの? やっぱり隣の変態男が手引きしたのかしら?」とコレミツを疑うのだが、本人は知らんぷり。豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をして、相変わらず女官の尻ばかり追いかけている。結局、女は、狐につままれたままだ。

 一方、ゲンジの君にも不安が募った。いつまでもこんな無邪気な日が続けばよいが、ここは仮寝の宿である。女が突然、失踪したらどうしよう。どこを目印に探せばいいのやら。いつ何が起こっても不思議ではないのだ。女がどこかへ引っ越してしまう可能性だってある。後を追い、見失うこともあるだろう。それでも諦めきれる一夏の想い出なら、それも良いのだが、やっぱりそうはいかないのだ! と、ゲンジの君は焦った。人目が気になって、女と逢えない夜が続くと、ゲンジの君は辛抱たまらず発狂した。「いっそうのこと、私の正体を知らせずに、二条院に拉致してしまおう。世間体など気にするものか。面倒なことになったら、その時はその時、そういう運命だったのだ。我ながら、こうまで女に狂うとは、もしかしたら運命の人を見つけたのかも」などと馬鹿なことを考える始末だった。

ゲンジの君が、

「私と一線を越えてみませんか。静かな場所で、あなたとゆっくり話したいのです」

と誘った。女は、

「おっしゃる意味がわからないわ。あなたは変だから気味が悪くて」

と子供じみた返事をする。ゲンジの君は「それもそうだ」と微笑みながら続ける、

「私が狐なら、あなたも狐だ。騙されてごらん」

と。どうやら絶好調のようだ。女も発情して「もうどうなってもいい」と思った。世にも希な、危険な恋がはじまる。一途な女心が、ゲンジの君を捕らえた。ゲンジの君が、愛おしく感じれば感じるほど、「この女が、頭中将の言った夕顔に違いない」という確信に変わる。しかし、隠さなければならないほどの事情があるのだろうと察して、あえて追及はしなかった。

 ゲンジの君は、夕顔のつぶらな瞳を見つめる。突然逃げ隠れするような顔ではない。夜這いが途絶え、放っておいたら、心変わりもするかもしれないが、ヘソを曲げて逐電するような度胸もなさそうなので、自分が浮気しそうで怖くなった。

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四 ゲンジ、六条御息所を訪問する

(現代語訳)
 秋になった。ゲンジの君が悪いのに違いないのだが、モヤモヤすることが多く、左大臣の御殿へはご無沙汰だ。左大臣家の方は不満で仕方ない。六条大路近くの人にしても、最初は近寄り難さに熱心なゲンジの君だったが、いざ物にしてしまうと掌を返したようにお座なりなので不憫である。ゲンジの君は、まだ手が届かなかった頃のような貪欲さで恋心を震わすことができないようだ。

 六条御息所は考えすぎる性格だった。「歳の差があるから」とか「世間の噂を警戒しているのか」と思い詰めれば、ますます寂しい独り寝に目がギラギラと冴えて余計なことばかり考えてしまう。

 霧が大地を包んだ朝、ゲンジの君は帰りを急いだ。寝ぼけ眼のままため息ひとつ、部屋を出る。中将という女官が格子扉を一枚開けて「見送ってくださいませ」と言わんばかりに衝立を引き寄せてしまったので、六条御息所は頭を起こして外を眺めた。草木が百花繚乱に咲き乱れ、素通りできなかったゲンジの君が、光を受けて立ち止まっている。渡り廊下の方へと向かうゲンジの君を、中将の女官が案内する。淡い紫の秋めいた衣装に、薄手の腰掛けをギュッと結んだ腰つきが悩ましい。ゲンジの君が振り向く。中将の女官を奥の部屋の欄干に座らせると、その行儀の良さや流れる髪を魅力的だと思った。

 「咲く花へこころ移りは浮気でも折らずにいられぬ今朝のあさがお
 この気持ちをどうしたらいいだろうか?」

とゲンジの君は手を握る。中将の女官は、咄嗟に危険を察知すると馴れたもので、

 朝霧の晴れ間も待たず帰るのは花を見つける心がないから

標的を女主人にすり替えて迎撃したのだった。めかし込んだ美少年が、結んだ袴の裾を濡らしながら草むらを押し分けて朝顔の花を手折ってくる秋の風景は、まるで映画の一コマのようだ。ゲンジの君を少し見ただけの人でさえ、その姿には悩殺されてしまう。調和的情緒の世界を知らない山賊でも、休憩は花の木陰を選ぶ。この光り輝く男を知る者は、それぞれ自分の身の程だけの願いを持っている。可愛くて仕方がない娘を、家政婦に差し出したいと願ったり、人並みの美貌だと思う妹を、下っ端でもゲンジの君の側に仕えさせたいと願うのだった。ゲンジの君と折々に会話を交わしたり、近くで姿を見る女たちは、自分の立場をわきまえているだけで、決して拒んでいるのではない。中将の女官は、「もう少し気を許して、のんびりして欲しい」と、じれったく思っているだけなのだった。

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三 伊予に下る空蝉、心乱れるゲンジ

(現代語訳)
 ゲンジの君は、あの空蝉の異常なまでの冷たさを、幻のように儚く思っていた。無抵抗な女ならば、「忸怩たる火遊びをしてしまった」と諦めることもできただろう。「このまま引き下がるわけにはいかない」と負け惜しみだが、空蝉のことばかり考えているのだった。空蝉ごときに心を奪われるゲンジの君ではなかったが、あの雨の夜の話を聞いてからは、女という女、すべてが気になって仕方ないのだから、空蝉のことになると隅々まで愛おしくなった。そんなことも知らずに騙されてる軒端の荻は、無邪気にゲンジの君を待っている。ゲンジの君は「罪なことをした」と反省しなくもないが、空蝉に感づかれて軽蔑されるのではないかと気が気ではない。「先に空蝉の気持ちを確かめたい」などとグズグズしているうちに、なんと伊予のスケが上京したのだった。

 伊予のスケは「いの一番に」と、ゲンジの君へ挨拶に来た。長い船旅が、彼を日焼けさせ、やつれさせたのか、無骨で平凡な男にしか見えない。それでも、生まれが良く人格者のようだ。見た目は年寄りだが、清潔感があり、一般人とは違う雰囲気が漂っていた。伊予のスケが任地の話などをするので、ゲンジの君は、温泉の話でも聞いてみたく思うのだが、良心の呵責から気まずくなって縮こまっていた。疚しいことがありすぎて頭の中を廻転する。こんな真面目な老人と差し向かって罪の意識に苛まれるのは間抜けだが、もう後の祭りだ。「狂気の沙汰だった」と後悔すれば、左馬のカミが忠告したことも身に染みるのだった。すると伊予のスケが気の毒にも思えて、空蝉の非道い仕打ちは恨めしいが、「夫を持つ妻の鏡だった」と目が覚めた気にもなってくる。

 伊予のスケが、娘の軒端の荻を適当な人に嫁がせて、妻の空蝉を伊予に連れて帰るつもりだと聞き、ゲンジの君の心は暴走し、うろたえた。「もう一度逢うことができないか」と弟に相談するのだが、そんなことは愛し合う二人でさえ難しい。まして空蝉の場合は「結ばれない関係だ」と諦めて、今さら醜態を晒さぬように忘れることにしたのだから、無理なのだった。それでも空蝉はゲンジの君の記憶から抹消されてしまうのが哀しく、やるせないようにも思えて、時には手紙の返事に意味深な返歌を詠んだり、義理で書く手紙にも女心を散りばめて謎めいた文章を書いた。思わせぶりな態度の空蝉なので、ゲンジの君は、冷たい女だと知りつつも、忘れられない女の一人に数えてしまうのだった。一方、軒端の荻は、人妻になっても心を許すのが見え見えだったので、どんな噂を聞いても、ゲンジの君は何とも思わなかった。

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二 コレミツ、お隣を調べる

(現代語訳)
 「閑職の地方役人の家だそうです。主人は地方へ単身赴任しているようで、若い遊び好きな妻がいるみたいですね。その姉妹たちが後宮に仕えているので出入りしているのだと言ってました。留守番の男でしたので、込み入ったことは知らないらしいのですが……」

とコレミツが報告する。ゲンジの君は「そうか。その女官たちだな。いい気になって馴れ馴れしい歌を」と、下流家庭の女だとは思うのだが、自分を光るゲンジと知ってちょっかいを出してきたと思えば、もう放っておけないのだった。これが女たらしというものなのである。懐からチリ紙を取り出して、別人の筆跡を装って書き付ける。

 近くならそうともわかる黄昏にふやけて見える夕顔の花

と夕顔を手折らせた家来に持たせて渡した。まだ見たこともないゲンジの君だが、間違いなくそうだと思った姿を凝視して詠んだ歌に、何の返事もないまま時間だけが過ぎていったので、女はバツが悪い思いをしていたのだ。そんなときにわざとらしい返歌が届いたので、「どんな返事をしたら良いかしら」と調子に乗って相談するのだが、家来の方は「行儀の悪い女たちだ」と無視して帰ってしまう。

 前を行く灯りがうっすらと、ゲンジの君は消えるように出発した。西隣の家の跳ね上げられた扉は閉じられて、隙間から漏れる光が瀕死の螢のように儚い。

 目指す六条の家は植えた木や庭の様子が輝いていて、一般人の住宅とは違違う雰囲気を放っている。落ち着いた閑静な屋敷だ。何となく緊張してしまう微妙な空間なので、ゲンジの君は夕顔の咲く家を思い出すわけもなかった。早朝、少し遅く目ざめると、ゲンジの君は日の出と一緒に帰った。その姿を見れば、人々が絶賛するのも仕方ないほど光り輝いている。

 この日も、ゲンジの君は夕顔が咲く跳ね上げ扉の家の前を通った。いつも通った路だけど、あの歌の一件があってから、「どんな女が住んでいるのだろうか?」と、通り過ぎる度にちらついて離れない。

 数日後、コレミツがやって来た。

 「病人がなかなか快復しないものでして、看病につきっきりになってしまって」

と言い訳してから、近寄って、

 「調査を仰せつかってから、隣のことを知っている者を呼び出して尋問したのですが、詳しいことは言わないので……。どうやら、五月頃から潜伏している人がいます。その正体は私の家の者にもわからないように隠蔽さているようです。随時、私の家を仕切っている垣根の間から覗いているのですが、若い女たちの影がしきりに見えます。前掛けのようなものを付けているので、きっと女主人がいるに違いありません。昨日の西日がたれ込む時間には、座って手紙を書く女の顔が美しく映っていました。考え事をしているようで、周りにいる女たちの中には泣いている者もいました」

と報告した。ゲンジの君は笑みを浮かべる。スケベ心に火が付いたようだ。コレミツは、そんな主人を見て思った。「女性関係に用心しなくてはならない身分の人ではあるが、この若さと、女たちを発情させる美貌では、何もしないのも忍びない。女たらしでも致し方ないな」と。まして、女の方で見向きもしないような男でも、好きになったら仕方ない。当たって砕けろだ。

 「少しでも情報を仕入れようと思いまして、タイミングを見計らって手紙を出してみたんです。すると手慣れた筆跡で返事が来ました。恋多い若き乙女がいるようですよ」

と、コレミツが言うと、

 「もっと攻めろ。このまま何も知らないのはさみしいからね」

とゲンジ君があおる。「雨の夜に話した、下流家庭の下の女だと笑われそうだが、こんな中から思いがけず上玉を掘り起こしたら素敵だね」と、ゲンジの君は思うのだった。

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一 ゲンジ、病気の乳母を見舞う。夕顔との出会い

(現代語訳)
 ゲンジの君が六条大路近くの恋人と密会を繰り返していた頃の話である。大弐のメノトが重病で尼になったと聞いたので、後宮から六条への行き掛けに見舞おうと五条を訪ねた。車を入れる門が閉まっているので、家来に命じて大弐のメノトの息子であるコレミツを呼び出す。待っているあいだ周囲を見渡せば、ゴチャゴチャとせせこましい大路の景観である。コレミツの家の隣には、新しい檜の垣根が立っていた。上の扉を四、五枚跳ね上げて、清潔な白い簾が掛けられている。女盛りに見えるおでこが何個かちらついていて、ゲンジの君を覗いているようだ。家の中を行ったり来たりしている女たちの首から下が見えない。ゲンジの君が想像で胴体を付けてみると、やたらと背の高い女たちが出来上がるのだった。「どういう女たちだろうか?」と、謎が深まる。ゲンジの君は、「乗ってきた車も潜伏用だし、人払いもしなかったから、自分の素性は誰にもわからないだろう」と、躊躇せずに覗いてみるのだった。

 門扉も跳ね上げられて吊してある。覗くまでもなく狭い家で、地味な暮らしをしているようだ。ゲンジの君は「流れ流れて仮寝の宿」という歌を思い出し、「飾り散らした後宮だって同じようなものだ」と思った。板壁の隙間から、蔓草が青々と力一杯に絡まり、白い花が上機嫌で笑っている。ゲンジの君が「あそこに咲く白い花は何の花」と鼻歌交じりでいると、家来がひざまずき、

 「あの白く咲いている花は夕顔です。名前だけは女を連想させるのですが、こんな場末の垣根に咲く花です」

と伝える。見渡せば、確かに小さな家が、あちこちにある。倒壊寸前の家の軒端にも、白い花が絡みついて咲いている。

 「悲惨な巡りあわせの花だな。一つ折って来てくれ」

とゲンジの君が言うので、家来は跳ね上げてある門の中へ入って手折った。出入り口は上品な造りのようだ。黄色の薄い袴を長めに着ている小さな女の子が出てきて手招きをしている。たっぷりと香を焚き、いっぱいに染みこませた白い扇を差し出して、

 「この上に置いてください。枝も汚い花だから」

と渡す。ちょうどコレミツ臣出が門を開けて出てきたので、それを受け取って、ゲンジの君に差し出した。

 「鍵を落とし忘れたままで大変失礼しました。世間の道理も解せぬ者が住む界隈ですが、小汚い大路に立ち往生させてしまって」

と詫びを入れる。車を門に引き入れて、ゲンジの君が下車する。コレミツの兄のアジャリ、娘婿の三河のカミ、娘などが集まっていて、こんな家にゲンジの君が見舞ってくれることを、「もったいない」と痛みいっている。尼になった大弐のメノトも起き上がり、

 「もう死んでも構わないのですが、世を捨てずに躊躇っていたのは、こうしてあなたに会えなくなってしまうのではないかと寂しかったの。神様の思し召しかしら、まだ死なずに、こうやってお見舞いに来てくれた、あなたが目の前にいます。あとは阿弥陀仏様のお迎えを安らかに待つだけね」

と言って、めそめそしている。

 「ずっと体調が悪いと聞いていて心配していましたが、こうやって尼になってしまったなんて。痛ましく寂しいじゃないですか。長生きして、私が花道を駆け上がるのを見ていてください。そうすれば、最上級の仏の弟子にも生まれ変わることができますよ。浮き世に未練を残して死ぬのは悪いことです」

とゲンジの君も貰い泣きするのであった。乳母というのは、たとえドラ息子でも、親馬鹿から「良くできた子だ」と勘違いしがちだが、大弐のメノトの場合、夢のような子供を育てたことが奇蹟に思われて、自分までもが特別な人間になったような気がするのだった。有り余る幸運が身に染みて、わんわんと泣きじゃくる。

 息子たちは、目のやり場に困り、

 「世を捨てた人が、泣き顔を見せるような真似を」

と互いにつつき合い、目配せしている。ゲンジの君は、とても不憫で、

 「私が小さな頃に、母や祖母が亡くなったので、いろんな人が可愛がってくれたようだけど、本当の親だと思ったのは、あなただけです。大人の社会はややこしいから、毎日会うことができなくて、自由には遊びに来られませんでした。でも、長く会わないでいると寂しくなるのだから、『死に別れが無くなればよい』という歌の意味もわかるんです」

と真心を込めて話す。ゲンジの君が涙をぬぐう袖から芳香が放たれて、部屋いっぱいに充満するから、息子たちは「この方の世話をした母さんは、奇跡の人だったんだ」と、母親の涙を見苦しいと思ったことさえ棚に上げて、みんなで目頭を押さえた。

 ゲンジの君が「病の祈祷を再開するように」と告げた帰り際、コレミツに蝋燭を持って来させた。さっきの白い扇を見てみると、使い込んだ持ち主の残り香が優しく染み付いている。綺麗な筆跡で、

 夕顔の水滴白く輝くの 光る君だと胸騒ぎする

と他愛もなく書かれているのだが、筆跡が凛としている。不意打ちを喰らったゲンジの君の、女たらしの血が騒ぐ。コレミツに、

 「お前の家の西隣に住んでいるのは何者かい? 何か聞いていないか」

と尋問した。コレミツは「いつもの悪い癖が出た」と思うのだが、そのまま口にできるわけもなく、

 「ここ五、六日、この家にいますが、母の看病でバタバタしていて、隣を気にする余裕がなくて」

と事務的に処理するのだった。ゲンジの君は、

 「さては、私の言うことが気に入らないんだな。でも、この扇を見てしまったら仕方ないだろ。この近所のことをよく知っている人に聞いてみてくれよ」

と尻を叩く。「やれやれ」と、コレミツは隣の家に入って留守番の男を呼び出し、聞くしかなかった。

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夕顔の帖 (系図と登場人物の年齢)

夕顔の巻 登場人物関係図

夕顔の巻 登場人物関係図

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主人公、ゲンジ十七歳の夏から十月までのことである。

 六条御息所 …… 二十四歳
 夕顔    …… 十九歳
 葵上    …… 二十一歳

 
これまでのあらすじ

 ミカドから寵愛をうけた桐壺更衣だが、玉のように清らかな御子を出産すると、いじめの心労からか逝去してしまう。この御子が主人公のゲンジである。彼は、この世の人間とは思えぬ美貌の持ち主なだけでなく、学問、音楽においても類い希なる才能の片鱗を顕した。そして、ゲンジはミカドの後妻、藤壺女御に亡き母への思いを寄せてしまう。宮私生児同然のゲンジだが、その美貌と才能を武器に後宮を騒がせる貴公子となった。

 物忌みの続くある日、ゲンジの部屋へとやって来た貴公子達は、恋愛談義に花を咲かせる。これが世に言う「雨夜の品定め」である。頭中将、左馬のカミ、藤シキブの丞の体験談を聞き、ゲンジは中流階級の姫君に興味を持った。

 翌日、ゲンジは方位除けに訪れた紀伊のカミの家で、地方官の伊予のスケの後妻である空蝉と関係を持ってしまう。空蝉はゲンジに憧れはすれども、これ以上関わってはいけないと悩むのだっが、ゲンジは懲りず奇襲に打って出る。ゲンジが空蝉の弟の手引きで、部屋の中を覗くと、空蝉が男好きのする軒端の荻を相手に碁を打っていた。ゲンジは、その夜、二度目の奇襲をかける。それに気がついた空蝉は、小袿を残して逃亡した。なぜかゲンジは、そのまま軒端の荻と過ちを犯してしまうのだが、やはり空蝉が忘れられない。空蝉もゲンジの情熱を思って煩悶し、自らの運命をなぞって、思い出した和歌を書きなぞる。

五 ゲンジの手紙に煩悶する空蝉

(現代語訳)
 ゲンジの君は、弟を車の後ろへ乗せて二条院に帰った。昨夜の顛末を物語って、「お前は子供だ」と口を酸っぱくする。空蝉の仕打ちを爪弾きにして、恨み節だ。弟はやりきれず、黙り込むしかなかった。

 「こんなに嫌われているんだから、自分が嫌になるよ。逢いたくないんだったら、返事だけでもしてくれればいいのに。私は伊予のスケにも劣る甲斐性無しなんだ」

とゲンジの君は、ご機嫌斜めだ。空蝉が脱ぎ捨てた着物を抱きしめて不貞寝してしまう。弟を隣に寝かせて、相変わらずブツブツと恨み節が終わらない。

 「お前のことは好きだけど、私を足蹴にする人の弟だから、いつまでも面倒をみるわけにはいかないよ」

などと、真顔のゲンジの君に言われると、弟は目の前が真っ白になるのだった。ゲンジの君はしばらく突っ伏していたけど、眠れるはずもなかった。いそいそと硯を取り出して、書くまでもない手紙の代わりに、懐からチリ紙を取り出して、落書きのように一首したためる。

 抜け殻を残して消えた蝉なのに 忘れられないきみの人柄

と空蝉の着物を握りしめて書きつけた。弟は、そのチリ紙を懐にしまった。ゲンジの君は、軒端の荻にも手紙を贈ろうかと迷ったが、よくよく考えて用心のためにやめることにした。この薄い着物は、小袿という上着だ。空蝉の残り香が染みついているので、ゲンジの君は手元に置いて、哀愁たっぷりに見つめている。

 弟が家へ帰ると姉が待ち構えていて、きついお灸を据えるのだった。

 「昨日は何があったかわかっているの? 何とか逃げ切ったけど、誰かが見ていて変なことを想像したらどうするのよ。馬鹿なことばかりしているあんたを、あの方はどう思っているのかしら」

と容赦ない。弟は、どう転んでも文句を言われる不条理さに泣きたくなるのだが、じっと堪えてチリ紙を渡す。これだけは強情な空蝉でも読まずにはいられない。「私の抜け殻を持って帰ってしまったのね。漁師が捨てた着物のように萎れていたらどうしよう」などと胸騒ぎがした。身悶えがやまない空蝉だった。

 軒端の荻も、羞恥心いっぱいで西の部屋に帰った。誰も知らない密会だったから、一人で自分の世界に浸っていた。弟が家の中を行ったり来たりすると、胸が「きゅんきゅん」とするのだけど、いっこうに手紙は届かない。これが、女たらしのやり方だとは知る由もなかったが、細かいことを気にしない性格なのか、ぼんやりとした満たされなさを抱くだけだった。

 空蝉は精一杯に強情でいようとするのだが、ゲンジの君の滅茶苦茶なまでの愛情を思えば、ただ、「夫のいない昔の私だったら」と思うのだった。過ぎた時間を取り戻すことはできない。未来に流される運命が切なくて仕方ないので、チリ紙の端っこに、今の自分に相応しい歌を思い出して書いた。

 光り出す涙の露が隠されて 木の葉の下にはセミのヌケガラ

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四 ゲンジ、夜明けの退散

(現代語訳)
 ゲンジの君は、近くに寝ている弟を揺り起こす。弟は、はらはらしながら寝ていたので、すぐに起き上がった。戸をそっと押し開けると、年寄った女官の声がして、「あら、どなた?」と大声を張り上げたのだった。弟は「うるせえな」と思いつつ、「僕だよ」と黙らせる。それでも、「こんな夜更けに、どこへ行くんですか」と説教じみてきた。来なくても良いのに、わざわざ近寄ってくるので腹が立つ。弟は「何でもないよ。外の空気を吸っているだけ」と言いながら、ゲンジの君の背中を押して隠す。月が辺り一面を照らす夜明けだから、ゲンジの君の影が、すうっと浮かび上がった。老女は「もう一人は誰です」と問い詰める。弟が返事に窮していると、

 「ああ、民部さんなのね。背の高い人だからすぐにわかったわ」

と一人で納得している。長身のいつもからかわれている女官の名前である。老女は弟が民部を連れているのだと勘違いしているようだ。「すぐに、坊ちゃまも同じぐらいの背丈になりますよ」などと、戸口から出てくるのだった。ゲンジの君は「まずいことになった」と思いながら、廊下の入り口に寄り添って硬直している。老女が近くにやって来て、

 「あなたも今夜はお屋敷でしたの。私はお腹が痛くて下宿で休んでいたのよ。でも人手が足りないからって、夜になってから呼び出されたの。痛くて痛くて仕方ないのに」

と文句を言っている。返事などそっちのけで、

 「痛い、痛い。キリキリするの。また後で」

と外に飛び出してくれたので、事なきを得た。ゲンジの君は「やっぱり無謀な火遊びは危険を伴うものだな」と、少しは反省した様子である。

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三 空蝉の逃亡。ゲンジ、軒端の荻を襲う

(現代語訳)
 若い軒端の荻は、警戒もせずに「すやすや」と眠っている。その部屋に人の気配と、甘い芳香が広がった。空蝉が顔を持ち上げると、夏服を脱いで吊した仕切りの裂け目に、暗闇にまみれて匍匐しながら近寄ってくる変態の影が浮き彫りになっているのだった。空蝉は仰天した。パニック状態のまま、そっと起き上がり、薄い上着を一枚羽織って、すべるように逃げる。

 ゲンジの君が侵入してみると、女が一人で寝ていた。そっと胸をなで下ろす。床下には、女官が二人寝ている。女の被っている布を引っ張って近寄ると、この前より成長したような気もするのだが、ゲンジの君は空蝉だと信じて疑わない。だが、行儀の悪い寝姿に違和感を覚え状況を察したのだった。ゲンジの君は予想外の展開に何もかもどうでも良くなってきたが、人を間違えたと思われるのも悪趣味だし、それよりも、この女に疑念を持たれるのは危険だと諦めた。もはや、空蝉を追いかけることもできない。こうまで必死に逃げる空蝉である。この夜這いは絶望的だ。ゲンジの君は「私のことを気持ち悪い男だと思っているだろう」と赤面した。しかし、この期に及んでも、「この女が、あの灯りの向こうに見えた美人なのだから、まあいいか」と、女たらしぶりを発揮してしまうあたりは、とんでもない浮気者なのだった。

 軒端の荻が少しずつ目を開ける。こちらもあり得ない展開に驚いているようだ。不意の夜這いに可愛らしくしようにも、何の心の準備もできていない。恋を知らない子供だが、こましゃくれたところがあるらしく、妙に落ち着いている。ゲンジの君は自分の素性を隠そうと思ったが、「あの夜は一体何だっの」と軒端の荻が後で冷静に考えたら面倒なことになると思った。自分のことはさておき、冷酷な空蝉が、ひたすら世の中の噂を恐れているのが可哀想に思えたのだ。ゲンジの君は「今までの方位除けは、あなたに逢いたい口実だったのです」とか何とか適当なことを言って軒端の荻を口説く。嘘だと簡単にわかるのだが、自意識過剰な小娘には、それで充分だった。

 この男は、女たらしではあるが、今回ばかりは上の空だった。薄情な空蝉への未練だけが残る。「どこかに紛れ込んで、私のことを、恥ずかしい男だと思っているのだろう。こんなに負けん気の強い女が他にいるだろうか」と腹が立つのだが、心がモヤモヤして空蝉が忘れられない。それでも、軒端の荻の鈍感さと、花も恥じらう仕草が可愛いので、思いの限りを尽くして将来の約束などをしてしまった。

 「知れ渡った関係よりも、人目を忍んだ恋愛のほうが燃え上がると、昔の人も言っています。あなたも私を愛してください。私には世間の目がなきにしもあらずだから、思い通りにならないこともあるんです。伊予のスケやの紀伊カミだって、きっと許してくれないだろうし、それが心配で。きっと忘れないで待っていて欲しいんです」

などと口が自動的に嘘をつくのであった。軒端の荻は、

 「みんながどう思うか考えるだけでも恥ずかしいから、お手紙も出せません」

などと、しおらしく答えている。

 「そう。みんなに知られたら困るけど、この家の小さい公家の弟に伝令をさせましょう。二人だけの秘密ですよ」

とゲンジの君は念を押して、空蝉が脱ぎ捨てた薄い上着を掴んで脱出する。

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