一 ゲンジ、北山に行き明石入道の娘の話を聞く
- 2010年 9月4日
(現代語訳)
ゲンジの君はわらわ病で発熱を繰り返していた。やおよろずの加護を祈らせるのだが、効果が出ず発作が続いている。ある人が、「北山の何とか寺に一流の修行僧がおります。去年の夏、この病が流行した折にも、他の僧侶たちは匙を投げていたというのに、片っ端から治療したそうですよ。長引くと厄介ですから、すぐにでも診てもらってください」と勧めるので、往診を依頼してみた。しかし、「老衰で足腰が立たないので往診は行っておりません」と断られてしまったのだった。「贅沢は言っていられない。隠密に訪ねよう」とゲンジの君は、四、五人の気の合う取り巻きを引き連れて未明に旅立つ。
目的地はいささか山深い。三月末日なので都の桜は終了していたが、山は花盛りである。山が深まるにつれて霞がたなびき、一面にパノラマが広がる。普段は僻地に来ることもない、やんごとなき面倒くさい身分のゲンジの君は、わくわくせずにいられないのだった。
寺は風格があった。峰高い岩の深くに例の聖が住んでいる。ゲンジの君は岩を登った。自分の正体を明かさず目立たぬ身なりをしていたが、光り輝く男である。
「かしこめ、かしこめ。先日、往診を依頼された皇子様ですね。今となっては、わたくしめの意識も彼岸に飛んでおりますので、もう霊験を引き寄せる法も忘れましたわい。何かご用でいらっしゃいますか」
と聖は驚くのだが、微笑みながらゲンジの君を見つめている。いかにも本物っぽい大聖なのである。聖は薬を処方し、ゲンジの君に飲ませた。仏の加護を祈っていると日が昇り出すのだった。ゲンジの君は、しばし外に出て周囲を展望する。高台なので、ここかしこの寺院宿舎が、はっきりと見下ろせるのだった。
「曲がりくねった道の下に、同じような柴を編んだ垣根が見事に張り巡らされているね。素朴な家が廊下続きになっていて、木立がそよそよ揺れている。どんな人が住んでいるのかな?」
とゲンジの君がたずねると、取り巻きの一人が、
「あれが、例の僧侶が二年ほど籠もっているという宿舎ですよ」
と答えるので、
「ずいぶんな身分の人が住んでいる所だね。こんな小汚い姿を見られたら格好がつかないな」
と漏らす。洒落た女の子供たちが蜘蛛の子を散らすように出てきて、聖水を汲んだり、花を折ったりする姿が丸見えなのだった。
「あそこに女がいる」
「僧侶は女なんて囲わないだろ」
「どういう女だろうか」
と取り巻きが騒ぎ出す。とうとう下へ降りて覗く者もいて、
「着飾った若い女や女官、女の童が見えた」
と言う。
ゲンジの君は祈っている。日が盛って、「病は良くなるだろうか」と逡巡していると、
「気分転換でもして思い詰めないのが一番の治療ですよ」
と聖に諭されたので、後ろの山に登って都の方角を眺めてみた。
「遙か彼方まで霞んでいるね。あたりの梢が霧まみれだ。絵を見ているようだよ。こんな場所に住めば仙人気分だろう」
とゲンジの君が言うと、
「まだまだこの辺の景色は序の口です。最果ての地にある海や山の佇まいを見たら、絵画の神髄も会得できましょう。富士の山、その他の山」
などと話す取り巻きがいた。それから西の国の、煌びやかな海岸や、磯の展望について話し、取り巻きたちは、ゲンジの君の意識を病から切り離そうとするのだった。
「この近くでは、播磨の国の明石という海岸が壮観です。なにが凄いと聞かれても困るのですが、じっと海面を見渡すと他の海にはない雄大さがあるんです。前任の播磨の長官が仏門に入りまして、娘を純粋培養している家があるんですが、これがまた見事なんですよ。その入道というのが、大臣の後裔で出世頭だったのですが、変態なんです。人付き合いが嫌いで、近衛中将だったのに辞めちゃったんです。それから自ら進んで播磨の長官に左遷されたという変わり者でして。播磨の土着の者にも馬鹿にされたとかで、『どの面をさげて都に帰るんだ!』と逆上して坊主になったそうです。坊主が山奥に籠もらずに辺境の海に住んでいるのだから、おかしな話ですよね。播磨にも隠遁生活に相応しい土地がありますが、山奥は人気がなくて物騒ですし、若い妻子が惨めな気分になるからでしょうか、まあ、保養地のような住まいなんですよ。先日、帰省のついでに様子を見に行ったんです。入道は、都では干されていましたが、田舎だったら広大な土地を買い占めて屋敷を造築することもできたんでしょう。何と言っても播磨の長官ですから、悠々自適のリタイヤなんです。来世への願いも半端じゃなくって、むしろ坊主になってから貫禄が出てきた人ですね」
と取り巻きの一人が言った。ゲンジの君は、
「で、その娘というのは」
とたずねる。
「まずまずですね。見た目や性格も悪くないです。歴代の長官も下心があるようで、求婚をほのめかすのですが、入道は全く相手にしないんです。『落ちぶれた自分に変わって、一人娘に托した信念がある。私の死後、意志を遂げられないのであれば海に身投げしなさい』などと、とんでもない遺言を繰り返していまして」
と答えるので、ゲンジの君は興味津々である。取り巻きたちは、
「竜宮城の姫にでもなるのかよ」
「身の程知らずにも程がある」
などと馬鹿にしている。
こんな話をするのは、今の播磨の長官の息子で、六位の蔵人から五位に出世し、都に配属された男なのだった。
「お前は助平だから、その入道の遺言を破ろうとしているんだろう」
「それで覗きに行ったんだな」
と茶化されている。
「とやかく言っても田舎娘だもんな。幼いときから田舎で育って、そんなカビ臭い親に教育されているんだから」
「いや、母親の血筋がいいのだろう。そこそこの若い女官や女の童たちを、都の上流家庭からゆかりを辿って呼び寄せたのさ。ピカピカに娘を可愛がっているようだ」
「次の播磨の長官にえげつない人が就任したら、そんな悠長なこともしていられんだろう」
などと取り巻きたちが話す。ゲンジの君は、
「なぜ海の底までも深刻に考えるんだろうね。海底のミルメという海草は見る目にも汚いだろうに」
と駄洒落を言うのだが、実は好奇心でいっぱいなのだった。取り巻きたちは、ゲンジの君の変態好きを知っているので、こんな話を喜ぶのは、お見通しなのである。
「そろそろ日が暮れます。ずいぶんと顔色が良くなってきたようですよ。急いで撤収しましょう」
と誰かが言うのだが、聖はそれを制し、
「悪霊に取り憑かれたというお話も伺いましたから、今夜は静かにお祈りをなさって、それからお戻りください」
と言う。「確かにそうだ」と一同も納得する。ゲンジの君は、「こんな旅行は滅多にできない」と興奮ぎみに、「それでは明日の明け方に帰ろう」とはしゃぐのだった。

