八 夕顔、もののけに襲われる

(現代語訳)
 空が暗くなりゲンジの君がうとうとしていると、枕元に相当な美人が座っているのを確認した。

 「あなたを思うと狂おしいのに、こんな得体の知れない女と乳繰り合っているのね。気にくわないわ」

と女が金切り声をあげて、隣にいる夕顔を叩き起こそうとする。ゲンジの君は化け物の気配を察し飛び起きた。周囲の灯りが消えている。刀を引き抜いてから、右近を呼んだ。右近がちびりそうな顔をして出てくる。

 「渡り廊下の部屋にいる警備兵を起こせ。灯りを持ってこさせるんだ」

とゲンジの君が命令する。右近は、

 「暗くてとても無理です」

と泣きべそだ。ゲンジの君は「子供じゃあるまいし」とあざ笑って手を叩く。音が暗闇に反響して気味が悪い。誰にも聞こえなかったのか警備兵は来なかった。夕顔は怖さに震え動転している。汗びっしょりでパニック状態だ。

 「お姫様は神経質な方だから怖がっていると思います」

と右近も心配で仕方ない。夕顔が白昼の空を儚く眺めていたのを思い出して、ゲンジの君は哀れになった。

 「私が警備兵を呼んでこよう。手拍子は騒がしいからね。ここで彼女の側にいてやってくれ」

とゲンジの君は右近を夕顔の側に引き寄せて、西向きの扉を押し開けた。廊下の灯りが消えている。風が立つ。人影が少なく、警備をするはずの兵隊が悉く寝ている。管理人の息子で日頃から使っている男と子供が一人、それから連れてきた家来がいた。ゲンジの君が呼ぶと目を覚まして返事をする。

 「灯りを持ってこっちに来るんだ。警備兵は魔除けの弓を響かせろ。何でこんな物騒な場所で寝ている。コレミツ朝臣は何をやっているんだ」

とゲンジの君が怒鳴る。

 「先ほどまで待機していたのですが、ご命令もないだろうから明日迎えにあがると言って帰りました」

管理人の息子が平謝りしている。この男は警備兵なので慣れた手つきで弓を鳴らし「火の用心」と叫びながら警備室へ駆けていく。後宮では午後十時の点呼が終わった頃だろう。今は警備兵が名乗り合って確認している時間だと思えば、夜もそんなに更けていないはずだ。ゲンジの君は部屋に戻った。夕顔は倒れたままで、隣に右近が伏している。

 「どうしたんだ。怖がるのにも程がある。廃屋には狐のような獣が出て人を脅かそうと悪戯をするものだ。私がいれば大丈夫」

と右近を抱き起こす。右近は、

 「怖くて寒気がするので伏していました。お姫様はもっと大変なことになっています」

と引きつっている。

 「どんな様子なんだ」

とゲンジの君が夕顔に触ると呼吸がない。抱き寄せて揺すってもへなへなと失神したままだ。子供のような人だから悪霊に取り憑かれたのだろうとゲンジの君は途方に暮れてしまうのだった。警備兵が灯りを持ってくる。右近が腰を抜かしているので、ゲンジの君が自ら衝立を引き寄せて夕顔を隠す。

 「もっと近くへ」

とゲンジの君が叫ぶ。警備兵は急なことに混乱し、畏れ多くて部屋の前までも上がれないのだった。

 「非常事態だ。こっちへ来い」

とゲンジの君が警備兵を引き寄せて見てみると、夕顔の枕元に夢で見た美女が浮かび上がり、陽炎のように消えた。昔話で聞いたことがあったが、まさかこんな場面に遭遇するとは。鳥肌が立つ。それでも夕顔が心配でゲンジの君の心臓は破裂しそうだ。身の危険も忘れて、隣に伏し「おい」と呼びかけるのだが、夕顔の身体は冷たく息をしていない。手遅れだった。頼もしい相談相手がいる場所ではない。法師でもいれば何かの役に立ったかも知れないと思うが、強がったところでゲンジの君とて青二才だ。儚く絶命した夕顔を目の前に放心している。ゲンジの君は亡骸を抱きしめ、

 「生き返ってくれ。私を悲しませないでくれ」

と泣くしかないのだった。夕顔は冷たくなって死後硬直がはじまっていた。右近は怖さも忘れて泣き、取り乱している。ゲンジの君は紫宸殿に出た鬼の話を思い出し、

 「このまま死んだりはしない。闇夜の声は大袈裟に響くから静かにしなさい」

と不安を隠して諫めるのだが、あまりの急展開に呆然としてしまう。警備兵を呼び、

 「化け物に取り憑かれて苦しんでいる女がいると、コレミツ朝臣に急いで来るように伝えろ。阿闍梨がいたら内密に連れてくるように言え。尼君が詮索しても余計なことを言うなよ。私の冒険を許さないから」

とかろうじて命令するのだが、胸が塞がり、夕顔の死を目の前にして取り返しの付かないことをしてしまったと思うのだった。それを周囲の不気味な空気が包み込んでいた。

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七 コレミツの嫉妬

(現代語訳)
 目覚めると、太陽が天辺に昇る時間だった。ゲンジの君が格子の扉を跳ね上げる。荒廃した庭に人気がなく見渡しが良い。遠くの古い雑木林が不気味だ。近くの草木も鑑賞に堪え得る物ではなく、秋の野原が広がっている。池も水草で覆われていて、ここは荒れ地なのだった。別棟には部屋があって、誰かが住んでいるらしいが、ここからは遠い。

 「まるで幽霊屋敷だね。でも鬼だって私には手出しできないだろう」

とゲンジの君は余裕だ。まだ顔を隠しているが、夕顔がつれなく思っているようなので、「こんな関係になってまで隠し事をするのも良くない」と、

  「夕露を受けてひらいたこの花をあなたの前で咲かせてみせる
 露の光はどうだろう?」

一首詠んで覆面を取った。夕顔は思わせぶりな視線で、

  「光る露みていた花は夕顔で夕暮れ時の空目のように」

とかすれ声で返す。そんな夕顔を、ゲンジの君は意地らしく思うのだった。こうして二人がじゃれ合っている様子は、場所が場所だけに現世の光景には見えない。

 「あなたは誰なの? いつまでも話してくれないから私も正体を明かすつもりはなかったんだ。もうこうなってしまったんだから名前だけでも教えて欲しい。だって変だよ」

とゲンジの君が尋問するが、夕顔は「私は海の子、根無し草」とはぐらかし、心を許さず駄々っ子みたいだ。

 「私が先にちょっかいを出したのだから仕方がないか」

とゲンジの君は自嘲し、懲りずに話しかける。

 コレミツがゲンジの君の居場所を探し出し、果物などを持ってきた。騙した手前、右近に小言をされてはたまらないので、近寄ることができない。「君が、こうまで徘徊して尻を追いかける女は、きっと相当な上玉だな」と思い「自分が先に唾を付けてしまえばよかった。なんて俺はお人好しなんだ」と逃がした魚は大きかった。

 夕顔は世界の終わりのように静かな黄昏を見つめていた。向こうは暗くて不気味だった。ゲンジの君が端の簾を上げて近くに寝転んでいる。夕日にまみれた顔を見つめ合っていると、夕顔は地球のどこに立っているのかわからなくなった。だんだんと種々の悩みも忘れていくようで、心を許す姿が可愛らしい。ずっとゲンジの君にしがみつき、怯えているのが子供のようで健気だ。ゲンジの君は早めに格子扉を下ろし、灯りを点させた。

 「もう私たちはすっかり結ばれているのに、まだ隠し事をしているのだから理解できないね」

ゲンジの君は不満を言う。

 ゲンジの君は「後宮では、もう捜索がはじまっているだろうから、みんな私を探し回っているだろうな」と思った。それから「不思議な気持ちがする。六条の人は恨んでいるだろうな。悲しいことだが仕方ない」などと、すぐに六条御息所のことを思い浮かんだ。あどけない夕顔に向き合っていると「あんなにプライドが高くて、私を窒息させそうなのがよくない」と二人を天秤に掛けてしまうのだった。

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六 ゲンジの君、十五夜に夕顔を連れ去る

(現代語訳)
 十五夜の満月の光が隙間だらけの屋根からあふれ出し、ゲンジの君は見慣れない住居の様子が珍しくて仕方ない。夜明け近くになると、隣の家々から目を覚ました貧乏人の声が聞こえる。

 「ああ、寒い。今年は商売あがったりだ。このままじゃ田舎へ帰ることもままならねえ。おい、お隣さん聞いてるか」

などと愚痴を言い合っている。みみっちい己の仕事のために早起きし、騒がしくなる隣人達が夕顔には恥ずかしかった。見栄っ張りの気取り屋だったら、穴に入りたくなるような集落なのである。夕顔は無邪気なのか、つらくても、悲しくても、恥ずかしくても、平気だった。その仕草が優雅ですらあり、ぼんやりとしている。この騒がしく行儀の悪い隣人について何も知らないようなので、恥ずかしがって火照るよりも罪がない。

 ゴボゴボと落雷よりもおぞましく、踏み臼の音が枕元に響く。ゲンジの君も、これには参って「ああうるさい」と思うのだが、何の音なのかは見当が付かず、ただ「物騒な音がする」と聞くだけだった。せせこましい土地なのである。

 白い衣を打つ棍棒の小さな音が四方から聞こえ、滑空する雁の鳴き声と混ざり合い、不思議なことが多い。端にあった部屋なので、引き戸を開けてゲンジの君と夕顔は外を眺めていた。小さな庭に呉竹が澄まして生え、植え込みの露が後宮と同じように光っている。秋の虫がうるさい。壁に張り付いているコオロギも、普段は遙か彼方に聴くゲンジの君を突撃するように鳴き叫んでいる。いつもと違って面白く聴いているのは、女に狂った副作用なのだった。

 夕顔は白い着物の上に、ふわふわと薄紫の衣を重ねている。貧乏くさいのだが、儚くて可愛らしい。どこに魅力があるのかと問われれば身も蓋もないが、細い身体を震わせて何かを言う様子が痛々しくて男心をくすぐるのだった。ゲンジの君は「もう少し女らしさに気を遣えば」などと夕顔を見つめながらも、もっと距離を縮めたくなった。

 「さあ、この近くでゆっくりと夜を明かそう。こんな関係じゃつまらないから」

とゲンジの君が本性を現すと、

 「急にそんなことを言われても」

と夕顔は屈託がない。ゲンジの君の口が、いつものように自動的に女を口説いていると、夕顔の心を許す様子が尋常でなく、かと言って尻軽女にも見えないので、何もかもどうでも良くなってきた。右近を呼び出し、家来に命令し、車を寄せさせた。この家の女達も、この女狂いの気持ちを充分に察していて、不安に思いながらも下心を持っていたのだ。

 そろそろ夜が明ける。鶏の鳴き声は聞こえず、現世利益を夢みる人が老けた声で唸って参拝しているのが聞こえる。立っているのも覚束なく、修行も楽じゃなさそうだ。ゲンジの君が「明日消えていく露のような幻の世界で、いったい何を探しているのだろうか?」と聞き耳を立てると、「弥勒菩薩よ導き給え」と祈っている。

 「あれを聞いてごらん。来世のことまで祈っている」

とゲンジの君は便乗して、

 修行者の道を標に次の世もふたりのきずな結ばれてゆく

と一首詠む。楊貴妃と玄宗の誓いは縁起が悪いので、比翼の契りの代わりに弥勒菩薩を引っ張ってきたのだ。五十六億七千万年先とは気が遠くなる。

 前世の契りを知らない私なら来世のことを君は知らない

夕顔も返歌をするのだが、出来栄えに不安を隠しきれないようだ。

 いざよう月に誘われて、どことも知れぬ場所に行くことを夕顔はためらう。ゲンジの君が性懲りもなく口説いているうちに、月は雲に隠れ、明けてゆく空が輝きだした。人目に付かぬようにと、いつもの通り急いで出発する。ゲンジの君は夕顔を軽々と抱き上げて車に乗せた。右近が付き添う。近くにある怪しい家に連れ込んで、受付を呼び出し、荒れた門に羊歯が絡みついているのを見上げた。何とも言えない薄暗さだ。霧深く露で湿っぽい。簾を上げていたので、袖がびしょ濡れになった。

 「こんな経験は初めてだけど、心拍数が上がりそうだよ。

いにしえの人もこんなに迷ったか 私の知らぬ明け方の道

あなたは経験済みかな?」

とゲンジの君が誘導尋問する。夕顔は恥ずかしそうに、

 「山の果て知らずに連れて来た月は空の彼方に消えてなくなる

怖いわ」

と恐ろしさに震えながら誤魔化す。ゲンジの君は「人が大勢住んでいた所にいたから」と微笑ましく思い騙される。車を進入させ、西の建物に座敷の用意をさせてから、高い欄干に車の柄を立てかけて固定した。右近は意味もなく浮き足だって、昔のことなどを人知れず思い出してしまう。留守番の者が甲斐甲斐しく走り回っているので、この変態の正体をすっかり知ってしまったのだ。薄明かりの中で物が見えはじめる頃、ゲンジの君は車を降りる。急拵えの簡単な座敷が用意されていた。

 「お供の家来がいないのは不都合です」

と左大臣家にも出入りしている用務員がやって来て、

 「しかるべき人を呼び寄せましょう」

など余計なお世話を焼く。ゲンジの君は、

 「わざわざ人気のない隠れ家を探してきたのだ。余計なことを言うなよ」

と口封じする。粥を御前に出すにしても、配膳する家政婦がいない。何もかもが初めての旅寝、ゲンジの君は絶え間なく夕顔にじゃれついて、いつまでも語りつくすしか術を知らなかった。

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五 コレミツの調査報告

(現代語訳)
 一方、コレミツが引き受けた隣邸の偵察だが、ある程度わかったとみえて報告があった。

 「女の正体はさっぱりわかりません。人目を警戒して潜伏しているようですが、退屈なのでしょうか、南側の跳ね上げ扉の部屋に出てくることがあります。車の音が聞こえると若い女官たちが外を覗いたりするのですが、ここの主人とおぼしき女も交ざっているようです。よく見えなかったのですが、目眩がするほどの美女で……。この間、先払いをする車が通ったときです。見物していた小さな女の子が急いで奥に引っ込んだのです。『右近の方さま。ちょっと見て。頭中将さまがここの前を通るんだから』って言って。それなりの女官が出てきて、『うるさいこと』なんてぶつくさしながらも、『どうしてわかったの? どれ、私が見てみましょう』などと覗きに出るわけですよ。途中に板が渡してあるもんだから、慌てると着物の裾が引っかかっちゃうんです。よろめいた瞬間、板から転落しそうになって、『この橋は突貫工事なのね』と小言をひとつ、覗く気も失せたようです。頭中将の君は平服姿で、お供を連れていました。あの女の子が『あの人、この人』と、頭中将のお供や、お召しの子供を指さし数えていましたから、それでわかったんでしょう」

とコレミツ。ゲンジの君は、

「ちゃんと車を確認しておけよ」

と言い、「もしかしたら、頭中将が未練いっぱいだった女かも知れない」などと、女たらしの直感が働く。ゲンジの君が、もっと知りたそうな顔で疼いているので、コレミツは、

「実は、私もあの家の女官にちょっかいを出しているのです。とんとん拍子に成功しまして、家の様子も隅々まで見ておきました。女官だけの家だと偽装しているようで、わざわざ口に出して説明する若い女もいるのですが、こっちも惚けて騙されたふりをしてやりました。完全に騙し通したつもりなんでしょうが、子供がうっかり口を滑らせると、慌てて誤魔化す猿芝居です」

と笑っている。

「尼君の見舞いに行く。頼むから覗かせてくれ」

とゲンジの君は正気じゃない。

 仮寝の宿と言っても、あれでは、左馬のカミが言っていた下流階級の女だろう。そんな中から掘り出し物が……。瓢箪から駒が飛び出す予感に、ゲンジの君のスイッチが入った。

 コレミツは、ゲンジの君の要望なら、何でも応える覚悟だ。その上、彼もまた生粋の助平だったので、様々な困難にも臆せず実家と隣邸を奔走した。その結果、半ば強引にゲンジの君を女のもとへと通わせることに成功したのだった。詳細を書くつもりはないので、省略するのだが……。

 女の正体が誰であるか。それはこの際どうでも良い。ゲンジの君も自分の正体を明かさないことにした。必要以上に地味な姿に身をやつし、車には乗らず、歩いて女のもとへはせ参じる。それを見て、殺気さえ感じたコレミツは、自分の馬を差しだして走りまわった。

「愛の狩人たる者が、こんな足取りで歩いているのを見られたら一大事です」

などとコレミツは気が気でないが、隠密一行である。あの夕顔の花を手折った家来と、面の割れていない子供を同行させた。誰にも知れぬよう最善を期すため、コレミツの家をベースキャンプにすることも断念した。

 もちろん女は、この変態一行を不審に思った。気持ちが悪いので、使者が来ると尾行させ、明け方に一行が帰っても尾行させた。「どこの誰か」と探偵まがいのことをしてみるのだが、ゲンジの君は姿をくらませ逃げてしまう。それでもやはり、この女が好きで好きでたまらなく、どうしても逢いたい衝動を抑えられない。「何て馬鹿なことをしているんだろう」とか「軽薄すぎる」と頭では理解はできても、足は自動的に女の家へと向かってしまうのだった。

 火遊びは、真面目な男ほど炎上しやすい。ゲンジの君は不真面目なので、今まで後ろ指を差されるような失態は犯さなかった。しかし今回は別である。朝に別れたばかりでも、昼には発情し、乱れ、迷った。無性に胸が張り裂けるので、「あんな女は、特に気にとめる必要もないよな」と、精一杯、自分を冷却するのだが、冷やせば冷やすほど燃え上がる。女の素直な仕草や、とぼけた様子、不用心で考えが浅いこと、無邪気で子供っぽいのに、男を知らないわけでもないことなどが、次々とちらついて消えない。「たいした身分でないことは間違いないが、私は何でこんなに発情しているだろうか?」と、ゲンジの君は何度も身悶える。

 ゲンジの君は、わざとらしい変装に覆面を着用して夜這った。人が寝静まった夜更けに参上し、夜が明けぬ早朝に退散するので、怪談めいて、さすがに女も気味悪く思った。それでも肌の感触は正直だった。「いったい、誰なの? やっぱり隣の変態男が手引きしたのかしら?」とコレミツを疑うのだが、本人は知らんぷり。豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をして、相変わらず女官の尻ばかり追いかけている。結局、女は、狐につままれたままだ。

 一方、ゲンジの君にも不安が募った。いつまでもこんな無邪気な日が続けばよいが、ここは仮寝の宿である。女が突然、失踪したらどうしよう。どこを目印に探せばいいのやら。いつ何が起こっても不思議ではないのだ。女がどこかへ引っ越してしまう可能性だってある。後を追い、見失うこともあるだろう。それでも諦めきれる一夏の想い出なら、それも良いのだが、やっぱりそうはいかないのだ! と、ゲンジの君は焦った。人目が気になって、女と逢えない夜が続くと、ゲンジの君は辛抱たまらず発狂した。「いっそうのこと、私の正体を知らせずに、二条院に拉致してしまおう。世間体など気にするものか。面倒なことになったら、その時はその時、そういう運命だったのだ。我ながら、こうまで女に狂うとは、もしかしたら運命の人を見つけたのかも」などと馬鹿なことを考える始末だった。

ゲンジの君が、

「私と一線を越えてみませんか。静かな場所で、あなたとゆっくり話したいのです」

と誘った。女は、

「おっしゃる意味がわからないわ。あなたは変だから気味が悪くて」

と子供じみた返事をする。ゲンジの君は「それもそうだ」と微笑みながら続ける、

「私が狐なら、あなたも狐だ。騙されてごらん」

と。どうやら絶好調のようだ。女も発情して「もうどうなってもいい」と思った。世にも希な、危険な恋がはじまる。一途な女心が、ゲンジの君を捕らえた。ゲンジの君が、愛おしく感じれば感じるほど、「この女が、頭中将の言った夕顔に違いない」という確信に変わる。しかし、隠さなければならないほどの事情があるのだろうと察して、あえて追及はしなかった。

 ゲンジの君は、夕顔のつぶらな瞳を見つめる。突然逃げ隠れするような顔ではない。夜這いが途絶え、放っておいたら、心変わりもするかもしれないが、ヘソを曲げて逐電するような度胸もなさそうなので、自分が浮気しそうで怖くなった。

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四 ゲンジ、六条御息所を訪問する

(現代語訳)
 秋になった。ゲンジの君が悪いのに違いないのだが、モヤモヤすることが多く、左大臣の御殿へはご無沙汰だ。左大臣家の方は不満で仕方ない。六条大路近くの人にしても、最初は近寄り難さに熱心なゲンジの君だったが、いざ物にしてしまうと掌を返したようにお座なりなので不憫である。ゲンジの君は、まだ手が届かなかった頃のような貪欲さで恋心を震わすことができないようだ。

 六条御息所は考えすぎる性格だった。「歳の差があるから」とか「世間の噂を警戒しているのか」と思い詰めれば、ますます寂しい独り寝に目がギラギラと冴えて余計なことばかり考えてしまう。

 霧が大地を包んだ朝、ゲンジの君は帰りを急いだ。寝ぼけ眼のままため息ひとつ、部屋を出る。中将という女官が格子扉を一枚開けて「見送ってくださいませ」と言わんばかりに衝立を引き寄せてしまったので、六条御息所は頭を起こして外を眺めた。草木が百花繚乱に咲き乱れ、素通りできなかったゲンジの君が、光を受けて立ち止まっている。渡り廊下の方へと向かうゲンジの君を、中将の女官が案内する。淡い紫の秋めいた衣装に、薄手の腰掛けをギュッと結んだ腰つきが悩ましい。ゲンジの君が振り向く。中将の女官を奥の部屋の欄干に座らせると、その行儀の良さや流れる髪を魅力的だと思った。

 「咲く花へこころ移りは浮気でも折らずにいられぬ今朝のあさがお
 この気持ちをどうしたらいいだろうか?」

とゲンジの君は手を握る。中将の女官は、咄嗟に危険を察知すると馴れたもので、

 朝霧の晴れ間も待たず帰るのは花を見つける心がないから

標的を女主人にすり替えて迎撃したのだった。めかし込んだ美少年が、結んだ袴の裾を濡らしながら草むらを押し分けて朝顔の花を手折ってくる秋の風景は、まるで映画の一コマのようだ。ゲンジの君を少し見ただけの人でさえ、その姿には悩殺されてしまう。調和的情緒の世界を知らない山賊でも、休憩は花の木陰を選ぶ。この光り輝く男を知る者は、それぞれ自分の身の程だけの願いを持っている。可愛くて仕方がない娘を、家政婦に差し出したいと願ったり、人並みの美貌だと思う妹を、下っ端でもゲンジの君の側に仕えさせたいと願うのだった。ゲンジの君と折々に会話を交わしたり、近くで姿を見る女たちは、自分の立場をわきまえているだけで、決して拒んでいるのではない。中将の女官は、「もう少し気を許して、のんびりして欲しい」と、じれったく思っているだけなのだった。

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三 伊予に下る空蝉、心乱れるゲンジ

(現代語訳)
 ゲンジの君は、あの空蝉の異常なまでの冷たさを、幻のように儚く思っていた。無抵抗な女ならば、「忸怩たる火遊びをしてしまった」と諦めることもできただろう。「このまま引き下がるわけにはいかない」と負け惜しみだが、空蝉のことばかり考えているのだった。空蝉ごときに心を奪われるゲンジの君ではなかったが、あの雨の夜の話を聞いてからは、女という女、すべてが気になって仕方ないのだから、空蝉のことになると隅々まで愛おしくなった。そんなことも知らずに騙されてる軒端の荻は、無邪気にゲンジの君を待っている。ゲンジの君は「罪なことをした」と反省しなくもないが、空蝉に感づかれて軽蔑されるのではないかと気が気ではない。「先に空蝉の気持ちを確かめたい」などとグズグズしているうちに、なんと伊予のスケが上京したのだった。

 伊予のスケは「いの一番に」と、ゲンジの君へ挨拶に来た。長い船旅が、彼を日焼けさせ、やつれさせたのか、無骨で平凡な男にしか見えない。それでも、生まれが良く人格者のようだ。見た目は年寄りだが、清潔感があり、一般人とは違う雰囲気が漂っていた。伊予のスケが任地の話などをするので、ゲンジの君は、温泉の話でも聞いてみたく思うのだが、良心の呵責から気まずくなって縮こまっていた。疚しいことがありすぎて頭の中を廻転する。こんな真面目な老人と差し向かって罪の意識に苛まれるのは間抜けだが、もう後の祭りだ。「狂気の沙汰だった」と後悔すれば、左馬のカミが忠告したことも身に染みるのだった。すると伊予のスケが気の毒にも思えて、空蝉の非道い仕打ちは恨めしいが、「夫を持つ妻の鏡だった」と目が覚めた気にもなってくる。

 伊予のスケが、娘の軒端の荻を適当な人に嫁がせて、妻の空蝉を伊予に連れて帰るつもりだと聞き、ゲンジの君の心は暴走し、うろたえた。「もう一度逢うことができないか」と弟に相談するのだが、そんなことは愛し合う二人でさえ難しい。まして空蝉の場合は「結ばれない関係だ」と諦めて、今さら醜態を晒さぬように忘れることにしたのだから、無理なのだった。それでも空蝉はゲンジの君の記憶から抹消されてしまうのが哀しく、やるせないようにも思えて、時には手紙の返事に意味深な返歌を詠んだり、義理で書く手紙にも女心を散りばめて謎めいた文章を書いた。思わせぶりな態度の空蝉なので、ゲンジの君は、冷たい女だと知りつつも、忘れられない女の一人に数えてしまうのだった。一方、軒端の荻は、人妻になっても心を許すのが見え見えだったので、どんな噂を聞いても、ゲンジの君は何とも思わなかった。

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二 コレミツ、お隣を調べる

(現代語訳)
 「閑職の地方役人の家だそうです。主人は地方へ単身赴任しているようで、若い遊び好きな妻がいるみたいですね。その姉妹たちが後宮に仕えているので出入りしているのだと言ってました。留守番の男でしたので、込み入ったことは知らないらしいのですが……」

とコレミツが報告する。ゲンジの君は「そうか。その女官たちだな。いい気になって馴れ馴れしい歌を」と、下流家庭の女だとは思うのだが、自分を光るゲンジと知ってちょっかいを出してきたと思えば、もう放っておけないのだった。これが女たらしというものなのである。懐からチリ紙を取り出して、別人の筆跡を装って書き付ける。

 近くならそうともわかる黄昏にふやけて見える夕顔の花

と夕顔を手折らせた家来に持たせて渡した。まだ見たこともないゲンジの君だが、間違いなくそうだと思った姿を凝視して詠んだ歌に、何の返事もないまま時間だけが過ぎていったので、女はバツが悪い思いをしていたのだ。そんなときにわざとらしい返歌が届いたので、「どんな返事をしたら良いかしら」と調子に乗って相談するのだが、家来の方は「行儀の悪い女たちだ」と無視して帰ってしまう。

 前を行く灯りがうっすらと、ゲンジの君は消えるように出発した。西隣の家の跳ね上げられた扉は閉じられて、隙間から漏れる光が瀕死の螢のように儚い。

 目指す六条の家は植えた木や庭の様子が輝いていて、一般人の住宅とは違違う雰囲気を放っている。落ち着いた閑静な屋敷だ。何となく緊張してしまう微妙な空間なので、ゲンジの君は夕顔の咲く家を思い出すわけもなかった。早朝、少し遅く目ざめると、ゲンジの君は日の出と一緒に帰った。その姿を見れば、人々が絶賛するのも仕方ないほど光り輝いている。

 この日も、ゲンジの君は夕顔が咲く跳ね上げ扉の家の前を通った。いつも通った路だけど、あの歌の一件があってから、「どんな女が住んでいるのだろうか?」と、通り過ぎる度にちらついて離れない。

 数日後、コレミツがやって来た。

 「病人がなかなか快復しないものでして、看病につきっきりになってしまって」

と言い訳してから、近寄って、

 「調査を仰せつかってから、隣のことを知っている者を呼び出して尋問したのですが、詳しいことは言わないので……。どうやら、五月頃から非常に人目を気にして通っている男がいるようですが、その正体は家の者にもわからないように隠蔽さているようです。随時、私の家を仕切っている垣根の間から覗いているのですが、若い女たちの影がしきりに見えます。前掛けのようなものを付けているので、きっと女主人がいるに違いありません。昨日の西日がたれ込む時間には、座って手紙を書く女の顔が美しく映っていました。考え事をしているようで、周りにいる女たちの中には泣いている者もいました」

と報告した。ゲンジの君は笑みを浮かべる。スケベ心に火が付いたようだ。コレミツは、そんな主人を見て思った。「女性関係に用心しなくてはならない身分の人ではあるが、この若さと、女たちを発情させる美貌では、何もしないのも忍びない。女たらしでも致し方ないな」と。まして、女の方で見向きもしないような男でも、好きになったら仕方ない。当たって砕けろだ。

 「少しでも情報を仕入れようと思いまして、タイミングを見計らって手紙を出してみたんです。すると手慣れた筆跡で返事が来ました。恋多い若き乙女がいるようですよ」

と、コレミツが言うと、

 「もっと攻めろ。このまま何も知らないのはさみしいからね」

とゲンジ君があおる。「雨の夜に話した、下流家庭の下の女だと笑われそうだが、こんな中から思いがけず上玉を掘り起こしたら素敵だね」と、ゲンジの君は思うのだった。

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一 ゲンジ、病気の乳母を見舞う。夕顔との出会い

(現代語訳)
 ゲンジの君が六条大路近くの恋人と密会を繰り返していた頃の話である。大弐のメノトが重病で尼になったと聞いたので、後宮から六条への行き掛けに見舞おうと五条を訪ねた。車を入れる門が閉まっているので、家来に命じて大弐のメノトの息子であるコレミツを呼び出す。待っているあいだ周囲を見渡せば、ゴチャゴチャとせせこましい大路の景観である。コレミツの家の隣には、新しい檜の垣根が立っていた。上の扉を四、五枚跳ね上げて、清潔な白い簾が掛けられている。女盛りに見えるおでこが何個かちらついていて、ゲンジの君を覗いているようだ。家の中を行ったり来たりしている女たちの首から下が見えない。ゲンジの君が想像で胴体を付けてみると、やたらと背の高い女たちが出来上がるのだった。「どういう女たちだろうか?」と、謎が深まる。ゲンジの君は、「乗ってきた車も潜伏用だし、人払いもしなかったから、自分の素性は誰にもわからないだろう」と、躊躇せずに覗いてみるのだった。

 門扉も跳ね上げられて吊してある。覗くまでもなく狭い家で、地味な暮らしをしているようだ。ゲンジの君は「流れ流れて仮寝の宿」という歌を思い出し、「飾り散らした後宮だって同じようなものだ」と思った。板壁の隙間から、蔓草が青々と力一杯に絡まり、上機嫌で笑っている。ゲンジの君が「あそこに咲く白い花は何の花」と鼻歌交じりでいると、家来がひざまずき、

 「あの白く咲いている花は夕顔です。名前だけは女を連想させるのですが、こんな場末の垣根に咲く花です」

と伝える。見渡せば、確かに小さな家が、あちこちにある。倒壊寸前の家の軒端にも、白い花が絡みついて咲いている。

 「悲惨な巡りあわせの花だな。一つ折って来てくれ」

とゲンジの君が言うので、家来は跳ね上げてある門の中へ入って手折った。出入り口は上品な造りのようだ。黄色の薄い袴を長めに着ている小さな女の子が出てきて手招きをしている。たっぷりと香を焚き、いっぱいに染みこませた白い扇を差し出して、

 「この上に置いてください。枝も汚い花だから」

と渡す。ちょうどコレミツ臣出が門を開けて出てきたので、それを受け取って、ゲンジの君に差し出した。

 「鍵をかけっぱなしで大変失礼しました。世間の道理も解せぬ者が住む界隈ですが、小汚い大路に立ち往生させてしまって」

と詫びを入れる。車を門に引き入れて、ゲンジの君が下車する。コレミツの兄のアジャリ、娘婿の三河のカミ、娘などが集まっていて、こんな家にゲンジの君が見舞ってくれることを、「もったいない」と痛みいっている。尼になった大弐のメノトも起き上がり、

 「もう死んでも構わないのですが、世を捨てずに躊躇っていたのは、こうしてあなたに会えなくなってしまうのではないかと寂しかったの。神様の思し召しかしら、まだ死なずに、こうやってお見舞いに来てくれた、あなたが目の前にいます。あとは阿弥陀仏様のお迎えを安らかに待つだけね」

と言って、めそめそしている。

 「ずっと体調が悪いと聞いていて心配していましたが、こうやって尼になってしまったなんて。痛ましく寂しいじゃないですか。長生きして、私が花道を駆け上がるのを見ていてください。そうすれば、最上級の仏の弟子にも生まれ変わることができますよ。浮き世に未練を残して死ぬのは悪いことです」

とゲンジの君も貰い泣きするのであった。乳母というのは、たとえドラ息子でも、親馬鹿から「良くできた子だ」と勘違いしがちだが、大弐のメノトの場合、夢のような子供を育てたことが奇蹟に思われて、自分までもが特別な人間になったような気がするのだった。有り余る幸運が身に染みて、わんわんと泣きじゃくる。

 息子たちは、目のやり場に困り、

 「世を捨てた人が、泣き顔を見せるような真似を」

と互いにつつき合い、目配せしている。ゲンジの君は、とても不憫で、

 「私が小さな頃に、母や祖母が亡くなったので、いろんな人が可愛がってくれたようだけど、本当の親だと思ったのは、あなただけです。大人の社会はややこしいから、毎日会うことができなくて、自由には遊びに来られませんでした。でも、長く会わないでいると寂しくなるのだから、『死に別れが無くなればよい』という歌の意味もわかるんです」

と真心を込めて話す。ゲンジの君が涙をぬぐう袖から芳香が放たれて、部屋いっぱいに充満するから、息子たちは「この方の世話をした母さんは、奇跡の人だったんだ」と、母親の涙を見苦しいと思ったことさえ棚に上げて、みんなで目頭を押さえた。

 ゲンジの君が「病の祈祷を再開するように」と告げた帰り際、コレミツに蝋燭を持って来させた。さっきの白い扇を見てみると、使い込んだ持ち主の残り香が優しく染み付いている。綺麗な筆跡で、

 夕顔の水滴白く輝くの 光る君だと胸騒ぎする

と他愛もなく書かれているのだが、筆跡が凛としている。不意打ちを喰らったゲンジの君の、女たらしの血が騒ぐ。コレミツに、

 「お前の家の西隣に住んでいるのは何者かい? 何か聞いていないか」

と尋問した。コレミツは「いつもの悪い癖が出た」と思うのだが、そのまま口にできるわけもなく、

 「ここ五、六日、この家にいますが、母の看病でバタバタしていて、隣を気にする余裕がなくて」

と事務的に処理するのだった。ゲンジの君は、

 「さては、私の言うことが気に入らないんだな。でも、この扇を見てしまったら仕方ないだろ。この近所のことをよく知っている人に聞いてみてくれよ」

と尻を叩く。「やれやれ」と、コレミツは隣の家に入って留守番の男を呼び出し、聞くしかなかった。

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夕顔の帖 (系図と登場人物の年齢)

夕顔の巻 登場人物関係図

夕顔の巻 登場人物関係図

|YUHGA0

主人公、ゲンジ十七歳の夏から十月までのことである。

 六条御息所 …… 二十四歳
 夕顔    …… 十九歳
 葵上    …… 二十一歳

 
これまでのあらすじ

 ミカドから寵愛をうけた桐壺更衣だが、玉のように清らかな御子を出産すると、いじめの心労からか逝去してしまう。この御子が主人公のゲンジである。彼は、この世の人間とは思えぬ美貌の持ち主なだけでなく、学問、音楽においても類い希なる才能の片鱗を顕した。そして、ゲンジはミカドの後妻、藤壺女御に亡き母への思いを寄せてしまう。宮私生児同然のゲンジだが、その美貌と才能を武器に後宮を騒がせる貴公子となった。

 物忌みの続くある日、ゲンジの部屋へとやって来た貴公子達は、恋愛談義に花を咲かせる。これが世に言う「雨夜の品定め」である。頭中将、左馬のカミ、藤シキブの丞の体験談を聞き、ゲンジは中流階級の姫君に興味を持った。

 翌日、ゲンジは方位除けに訪れた紀伊のカミの家で、地方官の伊予のスケの後妻である空蝉と関係を持ってしまう。空蝉はゲンジに憧れはすれども、これ以上関わってはいけないと悩むのだっが、ゲンジは懲りず奇襲に打って出る。ゲンジが空蝉の弟の手引きで、部屋の中を覗くと、空蝉が男好きのする軒端の荻を相手に碁を打っていた。ゲンジは、その夜、二度目の奇襲をかける。それに気がついた空蝉は、小袿を残して逃亡した。なぜかゲンジは、そのまま軒端の荻と過ちを犯してしまうのだが、やはり空蝉が忘れられない。空蝉もゲンジの情熱を思って煩悶し、自らの運命をなぞって、思い出した和歌を書きなぞる。

五 ゲンジの手紙に煩悶する空蝉

(現代語訳)
 ゲンジの君は、弟を車の後ろへ乗せて二条院に帰った。昨夜の顛末を物語って、「お前は子供だ」と口を酸っぱくする。空蝉の仕打ちを爪弾きにして、恨み節だ。弟はやりきれず、黙り込むしかなかった。

 「こんなに嫌われているんだから、自分が嫌になるよ。逢いたくないんだったら、返事だけでもしてくれればいいのに。私は伊予のスケにも劣る甲斐性無しなんだ」

とゲンジの君は、ご機嫌斜めだ。空蝉が脱ぎ捨てた着物を抱きしめて不貞寝してしまう。弟を隣に寝かせて、相変わらずブツブツと恨み節が終わらない。

 「お前のことは好きだけど、私を足蹴にする人の弟だから、いつまでも面倒をみるわけにはいかないよ」

などと、真顔のゲンジの君に言われると、弟は目の前が真っ白になるのだった。ゲンジの君はしばらく突っ伏していたけど、眠れるはずもなかった。いそいそと硯を取り出して、書くまでもない手紙の代わりに、懐からチリ紙を取り出して、落書きのように一首したためる。

 抜け殻を残して消えた蝉なのに 忘れられないきみの人柄

と空蝉の着物を握りしめて書きつけた。弟は、そのチリ紙を懐にしまった。ゲンジの君は、軒端の荻にも手紙を贈ろうかと迷ったが、よくよく考えて用心のためにやめることにした。この薄い着物は、小袿という上着だ。空蝉の残り香が染みついているので、ゲンジの君は手元に置いて、哀愁たっぷりに見つめている。

 弟が家へ帰ると姉が待ち構えていて、きついお灸を据えるのだった。

 「昨日は何があったかわかっているの? 何とか逃げ切ったけど、誰かが見ていて変なことを想像したらどうするのよ。馬鹿なことばかりしているあんたを、あの方はどう思っているのかしら」

と容赦ない。弟は、どう転んでも文句を言われる不条理さに泣きたくなるのだが、じっと堪えてチリ紙を渡す。これだけは強情な空蝉でも読まずにはいられない。「私の抜け殻を持って帰ってしまったのね。漁師が捨てた着物のように萎れていたらどうしよう」などと胸騒ぎがした。身悶えがやまない空蝉だった。

 軒端の荻も、羞恥心いっぱいで西の部屋に帰った。誰も知らない密会だったから、一人で自分の世界に浸っていた。弟が家の中を行ったり来たりすると、胸が「きゅんきゅん」とするのだけど、いっこうに手紙は届かない。これが、女たらしのやり方だとは知る由もなかったが、細かいことを気にしない性格なのか、ぼんやりとした満たされなさを抱くだけだった。

 空蝉は精一杯に強情でいようとするのだが、ゲンジの君の滅茶苦茶なまでの愛情を思えば、ただ、「夫のいない昔の私だったら」と思うのだった。過ぎた時間を取り戻すことはできない。未来に流される運命が切なくて仕方ないので、チリ紙の端っこに、今の自分に相応しい歌を思い出して書いた。

 光り出す涙の露が隠されて 木の葉の下にはセミのヌケガラ

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四 ゲンジ、夜明けの退散

(現代語訳)
 ゲンジの君は、近くに寝ている弟を揺り起こす。弟は、はらはらしながら寝ていたので、すぐに起き上がった。戸をそっと押し開けると、年寄った女官の声がして、「あら、どなた?」と大声を張り上げたのだった。弟は「うるせえな」と思いつつ、「僕だよ」と黙らせる。それでも、「こんな夜更けに、どこへ行くんですか」と説教じみてきた。来なくても良いのに、わざわざ近寄ってくるので腹が立つ。弟は「何でもないよ。外の空気を吸っているだけ」と言いながら、ゲンジの君の背中を押して隠す。月が辺り一面を照らす夜明けだから、ゲンジの君の影が、すうっと浮かび上がった。老女は「もう一人は誰です」と問い詰める。弟が返事に窮していると、

 「ああ、民部さんなのね。背の高い人だからすぐにわかったわ」

と一人で納得している。長身のいつもからかわれている女官の名前である。老女は弟が民部を連れているのだと勘違いしているようだ。「すぐに、坊ちゃまも同じぐらいの背丈になりますよ」などと、戸口から出てくるのだった。ゲンジの君は「まずいことになった」と思いながら、廊下の入り口に寄り添って硬直している。老女が近くにやって来て、

 「あなたも今夜はお屋敷でしたの。私はお腹が痛くて下宿で休んでいたのよ。でも人手が足りないからって、夜になってから呼び出されたの。痛くて痛くて仕方ないのに」

と文句を言っている。返事などそっちのけで、

 「痛い、痛い。キリキリするの。また後で」

と外に飛び出してくれたので、事なきを得た。ゲンジの君は「やっぱり無謀な火遊びは危険を伴うものだな」と、少しは反省した様子である。

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三 空蝉の逃亡。ゲンジ、軒端の荻を襲う

(現代語訳)
 若い軒端の荻は、警戒もせずに「すやすや」と眠っている。その部屋に人の気配と、甘い芳香が広がった。空蝉が顔を持ち上げると、夏服を脱いで吊した仕切りの裂け目に、暗闇にまみれて匍匐しながら近寄ってくる変態の影が浮き彫りになっているのだった。空蝉は仰天した。パニック状態のまま、そっと起き上がり、薄い上着を一枚羽織って、すべるように逃げる。

 ゲンジの君が侵入してみると、女が一人で寝ていた。そっと胸をなで下ろす。床下には、女官が二人寝ている。女の被っている布を引っ張って近寄ると、この前より成長したような気もするのだが、ゲンジの君は空蝉だと信じて疑わない。だが、行儀の悪い寝姿に違和感を覚え状況を察したのだった。ゲンジの君は予想外の展開に何もかもどうでも良くなってきたが、人を間違えたと思われるのも悪趣味だし、それよりも、この女に疑念を持たれるのは危険だと諦めた。もはや、空蝉を追いかけることもできない。こうまで必死に逃げる空蝉である。この夜這いは絶望的だ。ゲンジの君は「私のことを気持ち悪い男だと思っているだろう」と赤面した。しかし、この期に及んでも、「この女が、あの灯りの向こうに見えた美人なのだから、まあいいか」と、女たらしぶりを発揮してしまうあたりは、とんでもない浮気者なのだった。

 軒端の荻が少しずつ目を開ける。こちらもあり得ない展開に驚いているようだ。不意の夜這いに可愛らしくしようにも、何の心の準備もできていない。恋を知らない子供だが、こましゃくれたところがあるらしく、妙に落ち着いている。ゲンジの君は自分の素性を隠そうと思ったが、「あの夜は一体何だっの」と軒端の荻が後で冷静に考えたら面倒なことになると思った。自分のことはさておき、冷酷な空蝉が、ひたすら世の中の噂を恐れているのが可哀想に思えたのだ。ゲンジの君は「今までの方位除けは、あなたに逢いたい口実だったのです」とか何とか適当なことを言って軒端の荻を口説く。嘘だと簡単にわかるのだが、自意識過剰な小娘には、それで充分だった。

 この男は、女たらしではあるが、今回ばかりは上の空だった。薄情な空蝉への未練だけが残る。「どこかに紛れ込んで、私のことを、恥ずかしい男だと思っているのだろう。こんなに負けん気の強い女が他にいるだろうか」と腹が立つのだが、心がモヤモヤして空蝉が忘れられない。それでも、軒端の荻の鈍感さと、花も恥じらう仕草が可愛いので、思いの限りを尽くして将来の約束などをしてしまった。

 「知れ渡った関係よりも、人目を忍んだ恋愛のほうが燃え上がると、昔の人も言っています。あなたも私を愛してください。私には世間の目がなきにしもあらずだから、思い通りにならないこともあるんです。伊予のスケやの紀伊カミだって、きっと許してくれないだろうし、それが心配で。きっと忘れないで待っていて欲しいんです」

などと口が自動的に嘘をつくのであった。軒端の荻は、

 「みんながどう思うか考えるだけでも恥ずかしいから、お手紙も出せません」

などと、しおらしく答えている。

 「そう。みんなに知られたら困るけど、この家の小さい公家の弟に伝令をさせましょう。二人だけの秘密ですよ」

とゲンジの君は念を押して、空蝉が脱ぎ捨てた薄い上着を掴んで脱出する。

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二 ゲンジ、空蝉と軒端荻を覗く

(現代語訳)

 入ってくるのが子供なので警備員も知らん顔だ。出迎えもしないから余裕で侵入できた。弟はゲンジの君を東側の入り口付近に立たせ、自分は南側の隅の部屋から高らかに戸を叩いて入って行った。室内の女官が「まあ、外から丸見えじゃない」とたしなめる。弟は、

 「なんでこんなに暑いのに戸を閉めているの?」

と聞いた。

 「昼すぎに西のお部屋から軒端の荻様がやって来て、碁を打っていらっしゃるのです」

と女官が答える。ゲンジの君は空蝉と伊予のスケの娘が向かい合って碁を打っている姿を、ぜひ覗いてみたいと思った。つま先立ちに歩き出し、すだれの間に身を隠す。弟が戸を開けたままだから、そのまま覗けるのだった。すり足で近寄ってみると、西日を浴びて良く見える。室内の屏風は畳まれていて、この暑さで目隠しの布も巻き上げられていた。

 人影の近くに灯りがあった。ゲンジの君は「居間の中柱に寄りかかっている女が空蝉ではないか」と、まじまじと見つめる。紫に染めた織物を着て、その上に何かをフワフワと纏っている。華奢な顔と小柄な体型の地味な女だ。顔は正面に座った人にも見られないようにしていて用心深い。もう一人は東向きに座っているから、丸見えだ。白い薄衣の夏服にキラキラとスミレ色の晴れ着を引っかけ、紅色の袴の結び目まで胸を露出している姿がだらしない。すべすべの白い肌がふっくらとしていた。背の高い人で、髪や生え際がサラサラ光っている。目や口元が可愛らしくて、男好きする顔なのだった。ふさふさの髪の毛は長くないが、先端や肩のあたりが艶めいている。非の打ち所がない美人である。ゲンジの君は「これは、親馬鹿に誉めるのも仕方ないな」と色めき立った。しかし「もう少し謙虚にしてもらいたいけどね」などとも思う。そんな軒端の荻も馬鹿ではないようだ。碁を打ってトドメを刺す時には賢そうな風でいて「きゃっきゃ」と笑う。奥に座っている空蝉は、

 「待って。ここは引き分け。こっちの、攻め込まれている方を」

と静かに言う。

 「いいえ。ここは私の負け。この隅はどうかな。ええと」

と軒端の荻が「十、二十、三十、四十」と指を折って数えている。たくさんある伊予の道後温泉の浴槽でも数えているつもりだろうか? 少し下品だ。空蝉はといえば、正反対に袖で顔を隠して人目を憚っている。それでも、ゲンジの君がじっと覗いていると横顔が浮かび上がってくるのだった。瞼が少し腫れぼったい気がして、鼻筋も通っていない。老け顔で、顔色も悪く、あまり可愛くなかった。それでもゲンジの君には、あばたもえくぼに見えるのか「落ち着きのある人だから」と、普通の美人の軒端の荻よりも気になって見とれてしまう。軒端の荻も、元気で茶目っ気たっぷりの美しい女である。くつろいで得意げに笑う顔にオーラがあり、誰が見ても良い女だった。浮気にも、ゲンジの君は「悪いスケベ心だ」と思うのだが、女たらしの血が騒いでしまう。

 今まで関わった女は、みんな、ゲンジの君の前では、そわそわしていて猫をかぶっていた。化けた猫ばかり見ていて、飾ることない生の女を覗いたのは初めてだ。それを知らずに覗かれている女達には申し訳ないが、このまま見ていたくて仕方ない。しかし、そろそろ弟が戻って来る頃だからと、見つからないように逃げた。廊下の扉の前に戻って寄りかかっていると、戻ってくる弟は「あんな所に立たせていて、申し訳ない」と思うのだった。

 「珍しくお客さんがいて、姉の側に近づけません」

 「また今夜も空振りで追い返すつもりか? それは非道いな」

とゲンジの君が文句を言う。

 「そんなことはありません。お客さんが帰ったら奇襲の出番を作ります」

と弟は答えた。今夜は期待ができそうだ。「子供だが、やる時はやるし、人の気持も心得ている。事情も察しているだろう」とゲンジの君は思うのだった。碁の勝負が終わったのだろうか、部屋の中から女官たちが散って行く音がする。

 「あの子はどこに行ったの?」

 「この戸に鍵をかけますよ」

と扉をガタガタと鳴らす。

 「寝てしまったようだ。さあ、中でうまくやってくれよ」

とゲンジの君が命令する。しかし、この弟は生真面目な姉に何を言っても無駄だと悟っているので、空蝉の側近が少なくなってから、ゲンジの君を連れて行って強引に襲わせるつもりなのだ。

 「紀伊のカミの妹の軒端の荻も、ここで寝ているのか? ちょっと覗かせろ」

とゲンジの君が言うと、弟は、

 「無理です。扉の向こうにはついたてが」

と答える。ゲンジの君は「それもそうだ。でも、もう見てしまったよ」と可笑しくて仕方ないのだが、可哀想な気がして黙っていることにした。「夜這いの時間になるのが待ち遠しい」とだけ言う。弟は、扉を叩いて、部屋の中へ入って行く。女官たちは寝静まっているようだ。

 「この入り口で僕は寝よう。涼しい風が吹かないかな」

と弟は、布団を敷いて横になった。女官たちは廂のある東の大広間に大勢で寝ているのだろう。先ほど扉を開けた小さな女の子も、向こうへ行って寝てしまった。弟は少しだけ寝たふりをしてから、灯りがともっている場所を屏風で隠して死角を作り、ゲンジの君をスタンバイさせる。

 ゲンジの君は「うまくいくだろうか。返り討ちに遭うんじゃないだろうか」と気が気でない。胸がドキドキして心拍数が上がってくるのだが、弟に手を引かれるまま、部屋に張り巡らされた布をめくり、細心の注意を払って侵入する。草木も眠った時間には、ゲンジの君が「ふわり」と立てる衣擦れの音さえ気になった。

 空蝉は、ゲンジの君が愛想を尽かしてくれて良かったと思うのだが、あの悪夢の中にあった淫靡な夜を、忘れられないでいる。安眠できず、昼は虚脱状態で、夜は不眠症だった。そして、一日中、放心している空蝉とは反対に、碁の相手をしていた軒端の荻は「今夜はここで寝かせてね」と、おしゃべりをしながら寝てしまうのだった。

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一 ゲンジ、煩悶す

(現代語訳)
 ゲンジの君は寝付けない。

 「ここまで女にコケにされたのは初めてだ。今夜は恋愛の厳しさを知ったよ。死にたくなっちゃった」

とぼやくので、弟も泣けてきた。その様子がとても可愛い。ゲンジの君は、弟を手探って撫でてやる。小さく華奢な体と、それほど長くなかった髪の毛、気配までもが空蝉を思い出させるから、いとおしい。いつまでも空蝉を探しているのも間が悪く、はらわたが煮えくり返るような夜を明かしているので、普段のように気を許して話すでもない。ゲンジの君が真夜中に出発するというので、この子も同情して切なくなっている。

 空蝉といえば、張り裂けんばかりの胸の内でいたが、ゲンジの君からの手紙が舞い込むことはなかった。「ダメージが強すぎたのね」と思えば、このまま自分が忘れられてしまうような気がして寂しくもなった。それでも、ゲンジの君が危険な恋のトラップを越えて通い続けるのは迷惑である。「最初から破綻していた恋だったの」と自分に言い聞かせるのだが、やはり抜け殻のようになっていた。ゲンジの君に至っては、性懲りもなく、「このまま時が解決させてしまったら取り返しがつかない」と焦るのだった。しかし、プライドもあるので、弟に、

 「失恋のショックで自己嫌悪しているんだが、忘れようとすればするほど狂おしい。私に奇襲の出番を作ってくれないか」

などと頼むのだった。弟は「面倒なことに巻き込まれた」と思いつつも、ゲンジの君が自分を頼ってくれるのが嬉しい。子供ではあるが、せっせと奇襲のチャンスを伺い、紀伊のカミが出張する日を押さえた。屋敷に残っているのは女たちだけだ。弟は、ゲンジの君を自分の車に乗せて、夕日にまみれるように出撃した。ゲンジの君は「子供のすることだから」と心配なのだが、贅沢は言ってられない。迷彩服を身にまとい、「屋敷の門が閉じられる前に突破せよ」と急ぐ。見張りのいない門から侵入に成功すると、車を停めた。

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空蝉の帖 (系図と登場人物の年齢)

ustsusemi

空蝉の巻 登場人物関係図

|UTSUSEMI

主人公、ゲンジ十七歳の夏である。

これまでのあらすじ

 ミカドから寵愛をうけた桐壺更衣だが、玉のように清らかな御子を出産すると、いじめの心労からか逝去してしまう。この御子が主人公のゲンジである。彼は、この世の人間とは思えぬ美貌の持ち主なだけでなく、学問、音楽においても類い希なる才能の片鱗を顕した。

 桐壺更衣の死を悼み、廃人同然となっていたミカドだが、亡き人の生き写しとも思える藤壺女御の出現により再び生気を取り戻す。ゲンジは藤壺女御に亡き母への思いを寄せ、次第に一人の女性として恋心を募らせてしまう。元服し、左大臣の後見を得た源氏だが、正妻の葵上との関係は平行線をたどるだけで、ますます藤壺更衣への想いで胸を焦がす。

 宮私生児同然のゲンジだが、その美貌と才能を武器に後宮を騒がせる貴公子となった。人々は彼のことを「光り輝く君」と呼ぶ。

 物忌みの続くある日、ゲンジの部屋へとやって来た貴公子達は、恋愛談義に花を咲かせる。これが世に言う「雨夜の品定め」である。頭中将、左馬のカミ、藤シキブの丞の体験談を聞き、ゲンジは中流階級の姫君に興味を持った。

 翌日、ゲンジは方位除けに訪れた紀伊のカミの家で、地方官の伊予のスケの後妻である空蝉と関係を持ってしまう。空蝉はゲンジに憧れはすれども、これ以上関わってはいけないと悩むのだった。

十五 ゲンジ、また中川へ空蝉に逢いに行く

(現代語訳)
 ゲンジの君は、いつものように後宮に引きこもっていたが、ちょうどよい方位除けの日を待って、急に思い出したような素振りで、中川の家へ立ち寄った。紀伊のカミは驚いて、「庭の水の手柄ですね」などと神妙な顔をして喜んでいる。弟には事前に昼間から、「今日は姉さんに逢いに行く」と打ち合わせてあるのだ。一日中そばに連れている弟なので、今夜もすぐに呼び寄せる。空蝉にも手紙を渡してあった。空蝉は、こうまでして訪ねてくる源氏の気持ちを、女心に嬉しく思ったが、「だからといって簡単に心を許してしまえば、醜態をさらすだけ」と頑なだ。あの悪夢のような過ちを再び繰り返してはならないと悩んだ。「こういう風にゲンジの君を迎える運命の女ではない」と心に決めて、弟がいなくなった隙に、

 「ゲンジの君の近くにいるのは申し訳ないわ。体調も良くないみたいだから、そっとマッサージをして欲しいの。どこか遠くの部屋へ連れて行って」

と言って廊下の奥に、あの中将の女官の部屋があるので逃げた。その気になっているゲンジの君は、家来をさっさと寝かしつけてスタンバイしているのだけど、弟は空蝉を見つけることができない。あちこちを探し回り、廊下をすり抜け、やっとのことで捜し出した。「非道いよ、あんまりだよ」と思い、

 「僕が使えない子供だと思われるよ」

と泣きべそをかいている。姉は、

 「何て悪い子なの。子供がこんなお使いをするのは、いけないことなのよ」

と叱りつけ、

 「気分が悪いから、女官たちのそばで介抱してもらっていると言いなさい。周りの人に怪しまれるでしょ」

と追い返す。本当は、「まだ結婚していない頃、お父さんも生きていたあのお屋敷へ、思いがけなくゲンジの君が訪ねてくるのを待ってるのなら、きっと幸せだったのに。意地を張って知らんぷりしているのだから、身の程知らずの馬鹿な女だと思われているでしょうね」と胸が締め付けられる思いなのだった。それでも、「人妻の私は、どう転んでもゲンジの君とは結ばれない」と諦めて、「嫌な女で押し通そう」と覚悟を決めた。ゲンジの君は、どんな段取りになっているのかと、頼みの弟がまだ子供なので心配だ。寝っ転がりながら待っていると、弟が「失敗しました」と伝えに来た。

 「意地悪な女だな。開いた口が塞がらないよ。私は恥ずかしくなってきた」

と嘆くゲンジの君に、哀愁が漂う。しばしの沈黙の後、ため息ひとつ。切なくてたまらないようだ。

 「近づけば消えてしまう箒木のあなたと知らず彷徨うばかり
もう何も言わないよ」

と一首詠んで贈った。空蝉も眠れないで悶えていた。

 つまらない荒れ屋に生きる私です あなたの前から消える箒木

と返歌する。弟はゲンジの君が不憫でしかたなく、一睡もせずに行ったり来たりしている。空蝉は、

 「みんなが怪しむ」

と気が気でない。例のごとく家来たちは泥酔して深い夢の中だ。ただ一人、ゲンジの君だけは悔しくて目をギラギラさせている。珍しいほど気の強い女で憎たらしいのだけど、恋しくて、近づくと見えなくなってしまうという箒木のように、都合良くは消えてはくれない。悔しいのだけど、「こんな女だから惹かれてしまうのかも知れない」と思う。あまりの仕打ちが気に食わず、どうでも良くなってくるが、やっぱり、どうでも良くないのだ。

 「やむを得ん。隠れているところに連れて行ってくれ」

と言うと、弟が、

 「無理です。戸締まりが厳重で、見張りの女官がたくさんいます。そんなところへは連れて行けません」

と答えた。弟は、ゲンジの君が気の毒で仕方ない。

 「わかったよ。だったら、お前だけはそばにいてくれ」

とゲンジの君は、弟をそばに引き寄せる。目の前で、その若くて美しい美貌にドキドキしている弟を見て、「冷酷な空蝉より、この子の方がよっぽど可愛い」と思うのだった。

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十四 ゲンジ、空蝉の弟をそそのかす

(現代語訳)
 左大臣の家に帰っても、ゲンジの君はすぐに寝付けない。「再び逢瀬を重ねる術を知らない自分だけど、それ以上に空蝉の胸中はどんなだろう」などと考えてしまい、煩悶するしかなかった。「至って普通の女であったが、身なりも悪くなく清潔感も漂う中流階級の人だった。さすが恋愛のプロフェッショナル。左馬のカミが言うことも、もっともだ」と共感までした。

 近頃のゲンジの君は、左大臣の家に引きこもってばかりだ。「あれっきりになってしまったけど、空蝉はどう思っているのだろう」と可哀想に思い、胸がグルグルとかき回されるので、思い切って紀伊のカミを呼び出した。

 「この前見た、中納言の子の面倒を私にみさせてくれないか。可愛らしい子だったから、身の回りの世話をさせたいんだ。後宮にも私が口添えしてあげよう」

とゲンジの君が言うと、

 「もったいない御言葉。あの子の姉に聞いてみます」

と紀伊のカミが答えた。姉と聞いて、ゲンジの君の胸が高鳴る。

 「そのお姉さんというのは、君の弟を産んだのかい?」

 「いえいえ。そういう子はいませんよ。二年前から後妻として暮らしていますが、父親の望む結婚ができなかったと嘆いて、もぬけの殻のようにしていると聞いています」

 「痛ましいね。なかなかの美人だって噂じゃないか。本当にそうなのかい?」

 「悪くはないでしょう。ただ、血のつながらぬ母なので離れて暮らしていて詳しくは知らないんです。世間体もありますしね」

と紀伊のカミは言う。

 そして、五日、六日と過ぎていったある日、この弟を連れて紀伊のカミがやってきた。よくよく見てみると、美少年というわけでもないのだが、気品が漂っていて、いかにも貴族っぽいのだ。近くに侍らせて、仲良く話してやると、子供心にも、ゲンジの君に可愛がられることをうれしく思っているようだった。ゲンジの君は姉のことを詳しく聞いてみる。弟が、差し障りのないことだけ答えて、落ち着き払っているので、一瞬戸惑ったが、段階を踏んで姉への恋心を説明した。弟は「そうなのか」と、察して耳を疑ったが、まだ子供なので、それ以上のことはわからなかった。そして、手紙を渡されて姉の所へやって来る始末なので、空蝉は愕然として泣けてきた。弟の目の前で恥ずかしくて仕方なかったが、読まないわけにいかず、手紙を広げて顔を覆って読んだ。手紙は文字で埋め尽くされている。

 「もう一度あの夜のこと夢見ても 目を閉じぬまま日々が過ぎてく
眠れないのだから、夢も見られません」

などと目のくらむような筆跡なのだった。空蝉の視界は涙で曇り、運命を呪って泣き崩れる。

 翌日もゲンジの君は弟を遣わした。弟は「これからゲンジの君の所へ行きます」と言って、空蝉に返事を求める。

 「こんな手紙を見る人は、ここにはいないの。そう答えて差し上げて」

と姉が言うので、弟はニヤニヤしながら、

 「人違いではないって聞いているのに、どうしてそんな返事ができるの」

と言った。空蝉は、「すべてをこの子に教えてしまったのね」と思い、恥ずかしさに胸まで痛くなるのだった。

 「こら。大人を馬鹿にしちゃだめよ。そんなことを言うなら、もうあの人の所には行ってはいけません」

と姉は弟を叱る。弟は、

 「呼ばれているんだから行かなくちゃ」

と言い残して、ゲンジの君のもとへと向かった。実は紀伊のカミもスケベ心で、「継母が父の後妻であることをもったいない」と思っていた。空蝉に気に入られたい一心で、この弟を可愛がり、連れて歩いているのだ。ゲンジの君は、弟を呼び出して尋問する。

 「昨日も一日中、お前を待っていたのに待ちぼうけだ。私が思っているほど、お前は私のことを思ってくれないんだね」

と八つ当たりするので、弟は赤面し、硬直した。「返事はどうしたの?」と聞けば、「こんなことがあって……」と答えるだけなので、「愚痴を言っても仕方がないが、あきれたな」と言い、性懲りもなく、また手紙を渡す。

 「お前は知らないと思うけど、お前の姉さんは、あの伊予の老人と結婚する前に、私の恋人だったんだ。でもね、私のことを子供扱いして、当てつけに変なオッサンと結婚してしまった。だから、お前だけは私の子になって欲しいよ。あのオッサンも先が短いんだからさ」

とゲンジの君が適当なことを言うと、弟は「そんな波瀾万丈があったの。胸が痛い」と同情しているようなのだ。ゲンジの君は、そんな仕草を「かわいい」と思う。それからは、いつでも弟をそばに置いて、後宮にも連れて行った。お抱えの仕立屋に注文して衣装も作らせ、実の親のように可愛がる。

 空蝉は何通もの恋文を受け取った。けれども、幼い弟が心配で、「間違って手紙を落としたり、このことが知れ渡ってしまったら、惨めな境遇が浮ついた噂話でよりいっそう惨めになる」と思った。ゲンジの君の気持ちを有り難く思うのだけど、「自分の身分とは釣り合わない」と、決して心を許さず、返事も書かなかった。ぼんやりと見たゲンジの君が信じられないほど美しかったから、自然と思い出されてしまうが「その姿を見たところで、自分とは関係ない」と我にも返った。ゲンジの君はといえば、いっときも空蝉を忘れられず、ただ恋しくて甘酸っぱい気分に浸っている。あの危険な逢瀬で空蝉が苦しんでいた姿を不憫に思ってモヤモヤするばかりだ。しかし、不用意に逢いに行くことはできない。あの家に紛れ込みたくても人目が多すぎるのだ。「誰かに見つかってしまったら彼女の立場が悪くなるだろう」と逡巡するばかりだった。

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十三 ゲンジと空蝉のきぬぎぬ

(現代語訳)
 ニワトリが鳴きだすと朝になった。ゲンジの君の家来たちが起床して、「朝寝坊するほどよく寝たな」とか「車を引き出せ」なんて言っている。紀伊のカミも起きたようだ。「女性の家に方位除けに忍び寄ったんじゃないんですから、こんな朝っぱら急がなくても」と引き留める。

 ゲンジの君は、こんなチャンスが、また巡ってくるとは思えなかった。だからといって、「こちらから逢いに行くわけにもいかないし、手紙を交わすことも困難だ」と途方に暮れている。奥の部屋から中将の女官が来て、困り顔の様子だ。空蝉を戻してあげようとするのだが、引き留めないではいられない。

 「あなたとどうやって文通したらいい? あなたの冷たい仕打ちへの恨みも、愛しさも半端じゃない。こんな気持ちになるなんて」

と泣きつく姿も、ただまぶしい。そして、ニワトリが騒がしく鳴き続けた。

 冷たさを恨みきれずに明ける夜 鶏は我らを起こしてくれるな

ゲンジの君が、いそいそと一首詠む。光り輝くゲンジの君を目の当たりにして、空蝉は自分のみすぼらしさに、かえってたじろいでしまう。何と言い寄られても、うれしくないのだ。いつもは嫌いで仕方がない、夫がいる伊予の国が恋しい。そして「夫が変な予知夢でも見ていないだろうか?」と不安になるのだった。

 過ぎ去りし日々の不幸を嘆く間もなかった夜明け 鶏と泣きあう

日が昇りはじめると、夜明けは早い。空蝉は扉の側までゲンジの君を送った。家の外でも中でも人々が目覚めて、ざわついているから素早く扉を閉める。ゲンジの君には扉が天の川のように思えた。

 ゲンジの君は、上着を身につけ身支度を終えると、南側の欄干に寄りかかって外を眺めた。西側の格子戸を、せっせと開けて、誰かがゲンジの君を覗いている。縁側の真ん中に立っている間仕切りから、ゆらゆら浮かんで見えるゲンジの君に発情している浮ついた女たちもいるようだ。日が出ても、空には月が浮いていた。光を消して影を浮かべ、気持ちよさそうに泳いでいる。こんなどうでもよい空の景色でも、見る人の心次第で、ときめいたり、哀愁をおびたり。秘めた思いの切なさよ。ゲンジの君は「手紙を送ることもできないのに」と、未練たっぷりに立ち去る。

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十二 ゲンジ、空蝉を夜這う

(現代語訳)
 ゲンジの君は切なくて眠れない。寂しい独り寝は目が冴えるばかりだ。北側の紙の扉の向こうに人の気配がする。「もしかして、あの姫君がいるのだろうか?」と甘い気持ちもあって立ち上がった。全神経を集中して立ち聞きしていると、紀伊のカミが話した弟君の声がするのだった。

 「お姉さま。どこにいるの」

震える声が可愛らしい。

 「ここよ。ここで寝ているの。お客様はおやすみになった? 近いところにいるのかと思っていたけど、遠くにいるようね」

眠たそうな声が弟君とよく似ているので姉だとすぐに知れた。

 「廂のある部屋でおやすみになりました。評判のとおり本当に綺麗な人なんです」

弟君は声をひそめて言う。

 「昼間だったら隙間から見てみたかった」

お姫様は着物で顔をおおうようにして、眠そうに言った。「もう少し真面目に聞いて欲しいね」と、ゲンジの君は拍子抜けするのだった。

 「私は端っこで寝るね。真っ暗」

とお姫様が言うので、弟君が灯りを立てているようだ。彼女は紙の扉を隔てて、ゲンジの君の対角線上に寝ている。

 「中将の女官はどこに? 近くに誰もいないような気がして怖い」

お姫様が呼ぶと、

 「風呂に行きましたが、すぐ戻ると言ってました」

と部屋の下から、誰かの声がする。

 夜も更けて、みんな寝静まった。「試しに」と、ゲンジの君は紙の扉の掛け金を引っこ抜いてみた。簡単に扉が開いたので、侵入に成功してしまう。向こう側から鍵がかけられていなかったようだ。ゲンジの君は、うす暗い灯りを頼りに、散らかった収納箱をかき分けて侵入を続けた。お姫様の気配のする場所まで来ると、女がひとり小さく丸まって眠っているのだった。ゲンジの君は良心の呵責に苛まれながらも、顔をおおっている着物をつまみ上げた。お姫様は中将の女官が風呂から戻ったと思っている。

 「中将を呼んでいましたね。私の想いが届いたと思いました」

ゲンジの君は近衛中将である。パニック状態の空蝉は、悪夢の続きを見ているように「あん」と抵抗するのだが、顔が着物でふさがって、声にならない。

 「私は好奇心で奇襲をかけたのではありません。昔からあなたが好きだったのです。胸の想いを聞いて欲しかった。今宵のようなタイミングを待っていたのだから、こうやってあなたを捕獲する運命だったのです」

こんな場合でもゲンジの君は爽やかだ。この男には天誅でさえ避けて通るだろう。美しいオーラをまとって近づいてくるので、空蝉はむやみに「ここに変態が」と叫ぶことができない。自らの不甲斐なさに、空蝉は泣くしかなかった。「人違いです。おねがいやめて」と消えてしまいそうな声で抵抗する。混乱したまま暗闇にまみれていく空蝉の姿が、たまらなく愛くるしい。

 「人違いなどしませんよ。あなたへの想いが私を導いたのです。それでもあなたは知らんぷりですか? 私は変態や遊び人ではありません。ただ、この想いをあなたに伝えたいんです」

ゲンジの君は、小さな空蝉を抱き上げて紙の扉の向こう側へと連れて行く。そのとき、中将の女官が風呂から帰ってきた。ゲンジの君が「やあ」と言ったので、中将は異常を感じて周囲を探る。ゲンジの君から漂う甘い芳香が中将の鼻先に広がったので、とっさにすべてを察したようだ。非常事態に中将もパニックをおこし、言葉が出ない。普通の変態ならば力ずくでも反撃にでるのだが、それでも大声を出して人に気がつかれたら、空蝉の恥になる。中将の心拍数が上がっていく。後を追いかけたが、ゲンジの君は空蝉を抱いて寝室へ入ってしまった。

 「夜が明けたら迎えに来なさい」

と紙の扉を閉める。空蝉は中将の胸中を思うと、割り箸みたいに真っ二つに割れそうになるのだった。汗が止めどなく流れ、悶える姿が色っぽい。ゲンジの君は可哀想にも思いながら、いつものように口が自動的に女を口説きだす。誠意いっぱいに女心をこじ開けるのだが、空蝉は、ますます惨めな心地がして、悲しみに心を閉ざす。

 「悪夢の続きだと言ってください。私が庶民だからって、あなたは見下している。遊び心じゃないなんて、どうやって信じたらいいの。私たち庶民には庶民の生き方があるの。お願い、放して」

 無理矢理押し倒したゲンジの君の傲慢さを恨んでいる。そんな空蝉を、ゲンジの君も不憫に思い、間が悪くなる。

 「私は人の階級など知らないガキなんだ。あなたが私を普通の変態扱いするから悲しいよ。私が馬鹿な火遊びをしないって、あなたも知っているはずでしょう。あなたは私を狂わせる。我慢できないんだ。だから軽蔑されても構わない」

全身全霊をこめて口説くのだが、空蝉は硬直したままだ。この眩しく輝く男の姿を目の当たりにして、「心を許してしまったら、いっそう惨めになるだけ」と思うのだった。このまま可愛くない嫌な女だと思われたかった。優しくておとなしい空蝉が強がると、竹のようにしなって、折れそうで折れない。本気で拒み涙を流す様子が、ゲンジの君にはいとおしい。可哀想なことをしていると思うのだが、今夜を逃したら後悔するとも思う。「求めてられてはならない恋だ」と悲しみに暮れている空蝉に、ゲンジの君は、

 「なぜ嫌がるんだ。私たちはもうこうなっている。定めなんだよ。子供みたいに男と女の事を知らないふりして、とぼけて泣いているんだね。意地悪な人だ」

と強引に襲いかかる。

 「私が人妻になる前の憂鬱な昔に、今夜のようなあなたを受け入れたなら、身分も忘れて愛し合えたかも知れないわ。今度あなたに抱かれることを慰めにする夜もあるでしょう。でも、ひと夜かぎり愛されて、途方に暮れるのはいや。あなたに抱かれても、今夜のことはなかったことにして。おねがい」

空蝉が泣きながら言うことも、もっともだ。ゲンジの君は心をこめて慰め、多くの約束を交わしたのだろう。

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十一 ゲンジの君の方位除け

(現代語訳)
 翌朝、やっと雨が上がった。ゲンジの君は、こうまで引きこもっていると左大臣家の人に悪いと思い、後宮を後に訪ねてみる気にもなった。家の様子はさっぱりしている。アオイも垢抜けて、取り乱すこともない。やはりこの人も昨夜の話にあった、放っておけない女の一人だろうと安心するのだが、あまりにも淑やかで、逆に近寄りがたいのだった。アオイのツンツン顔が歯がゆくて、ゲンジの君は中納言の君だとか中務という、女官の若い美少女たちと冗談などして戯れあう。蒸し暑さに着物をはだけているゲンジの君の姿に、女官たちは夢見心地で眼差しを向ける。そこへ左大臣もやってきた。リラックスしているゲンジの君を気遣って、仕切りの向こうから話そうとすると、ゲンジの君は「こんなに暑いんだから」と顔をしかめた。女官たちが笑い出すので「静かに、静かに」と言って、肘掛けに寄りかかってくつろいでいる。

 暗くなって、

 「今夜、この御殿から後宮までが天一神の通り道になっていまして、方角が凶です」

と、家来が知らせた。

 「そうだった」

と答える。普段なら避ける方角なのだ。

 「二条院の里邸も同じ方角だ。暑くて怠いのに、どこへ行ったらいいのやら」

と面倒くさそうにゲンジの君は寝てしまう。慌てて「それはなりません」と家来が制する。

 「親しくされている紀伊のカミの所があります。最近あの家が中川を池に引き入れて涼しそうですから」

と他の家来が言うので、

 「渡りに船だ。何もしたくないのだから牛車のまま入れる所がいいね」

と他人事のようだ。今夜の方位除けに行く愛人の家などは、いくらでもあるのだが、久々の左大臣家である。「方位除けにかこつけて別の女の元に向かうのね」とアオイに思われるのが嫌だったのだろう。紀伊のカミを呼んで「泊めてくれ」と言う。紀伊のカミは屋敷に戻ってから、

 「父の伊予のスケ朝臣の家にも方位除けがあって、女官たちが泊まっているんだ。狭い家だから失礼なことにならないか」

と悲鳴を上げたが、ゲンジの君が聞きつけて、

 「そうやって人が近くにいるのがいいんだ。女っ気がない旅の夜は怖くて眠れそうにないからね。女官がいる部屋の仕切りの後ろに寝かせてくれなかな」

と戯れる。

 「それならばもってこいの宿です」

と家来たちも言い、紀伊のカミの元へと遣いを走らせる。忍びの旅だ。たいした場所じゃないからと急いだので、左大臣にも挨拶をせずに側近だけを連れて出発した。紀伊のカミが「突然のことだから」と迷惑そうにしているが、誰も聞く耳を持たない。屋敷の東向きの部屋を片付けさせると、ゲンジの君の寝床になった。流れる水がそよそよと流れ、見事に造園された庭がある。結んだ芝垣を秘境のようにめぐらせて、植えてある木や草も手間がかかっている。風が吹き抜けると涼しく、草の中から虫の声が聞こえた。蛍が光っては消えていく幻想的な光景なのだ。側近たちは、渡り廊下に腰掛け、流れる水を眺めて酒を飲んでいる。紀伊のカミは肴を調達しようと「こゆるぎの磯」ではあるまいが、忙しく奔走している。そんな気も知らずにゲンジの君は景色を眺めながら、「中将たちが中流階級と言っていたのは、こんな感じの家だろう」と思っているのだった。のちに空蝉【ウツセミ】と呼ばれる伊予のスケの妻は、プライドの高い姫君だと聞いたことがあるので、「どこにいるのだろう」と耳を澄ませば、屋敷の西側に人の気配がした。ひらひらと衣擦れの音と、若い女の声が心地よい。それでも、笑い声をこらえているのでよそよそしくもある。窓が吊し上げてあったが、紀伊のカミが「はしたない」と下げてしまった。今は灯りが漏れて襖に影を作っている。ゲンジの君は、忍び足で近寄ってみた。覗いてみたいのだけど隙間がない。仕方がないので聞き耳を立てると、自分の部屋の近くにいるのだろうか、小さな声で話しているのが聞こえるのだった。どうやら女たちはゲンジの君の噂をしているらしい。

 「とても誠実ぶって、若いのに上流階級の奥方様までいらっしゃるから寂しいんでしょう」、「でも、内緒で通う家もたくさんあるそうよ」

などと話している。ゲンジの君の頭の中は藤壺の宮でいっぱいだから、これを聞いてハッとする。「こんな噂話を、あの人が聞いたとしたら」と心配になってくるのだった。しかし、この噂話は下らなそうなので最後まで聞く必要はないようだ。女たちは、ゲンジの君が式部卿宮の姫君に朝顔の花を贈った時の和歌などを、少し間違えて話している。ときどき和歌をゆっくりと口ずさむので、ゲンジの君は物足りなく感じる。紀伊のカミがやってきて、灯りを増やして部屋を明るくすると、菓子などをもてなすのだった。

 「我が家に暖簾をかけて、大君が来ました、婿にしようっていう歌があるだろ。そういう色っぽいもてなしがないとは、けしからん家の主だ」

とゲンジの君は悪戯っぽく言う。

 「何が良いのか思いつかない不器用な主です」

と紀伊のカミは、神妙な顔で誤魔化している。ゲンジの君は隅の部屋で仮眠のように横になっている。側近たちも静まりかえっている。紀伊のカミにはあどけない子供がたくさんいて、後宮に仕えている見知った顔もいる。伊予のスケの子も往来していて、大勢の中に、とても可愛らしい十二三際ぐらいの子がいた。ゲンジの君は「どの子が誰の子なのか?」と質問する。

 「あの子は死んだ故衛門督の末っ子で、可愛がられていたんですが、幼くして親を亡くしました。姉を頼ってここにいるんです。賢くて非凡に思えるので宮仕えさせたいのですが、思った通りにはいきませんね」

と紀伊のカミが言う。

 「可哀想に。するとこの子の姉が君の継母なのか?」

 「そうです」

と答えた。ゲンジの君は、

 「ずいぶん若い母親だ。不釣り合いだね。その人のことはミカドも知っているよ。『宮仕えに出したいと聞いたが、どうしているか』と、いつだったか話していたんだ。人の運命は予想できないね」

などと、ませたことを言っている。

 「瓢箪から駒でして。男女の縁というのは、今も昔もタイミング次第ですね。特に女の運命は儚くて痛ましい」

と紀伊のカミが言う。

 「伊予のスケは、この姫君を君主のように大切にしているんだろうね」

 「言うまでもないです。神様のようにあがめ奉って……。年甲斐もないと、私たち家族は文句ばっかりですよ」

 「まあ、君のような現代青年に譲ったりはしないよ。伊予のスケは女たらしだ。それに若作りもしている」

と、ゲンジの君が言う。

 「それで、彼女はどこにいるの?」

 「女官たちは下宿に移したのですが、入りきれず残っているんです」

ゲンジの君の側近たちは酔っぱらい、廊下にへばりついて眠っているようだ。

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