八 夕顔、もののけに襲われる
- 2010年 7月20日
(現代語訳)
空が暗くなりゲンジの君がうとうとしていると、枕元に相当な美人が座っているのを確認した。
「あなたを思うと狂おしいのに、こんな得体の知れない女と乳繰り合っているのね。気にくわないわ」
と女が金切り声をあげて、隣にいる夕顔を叩き起こそうとする。ゲンジの君は化け物の気配を察し飛び起きた。周囲の灯りが消えている。刀を引き抜いてから、右近を呼んだ。右近がちびりそうな顔をして出てくる。
「渡り廊下の部屋にいる警備兵を起こせ。灯りを持ってこさせるんだ」
とゲンジの君が命令する。右近は、
「暗くてとても無理です」
と泣きべそだ。ゲンジの君は「子供じゃあるまいし」とあざ笑って手を叩く。音が暗闇に反響して気味が悪い。誰にも聞こえなかったのか警備兵は来なかった。夕顔は怖さに震え動転している。汗びっしょりでパニック状態だ。
「お姫様は神経質な方だから怖がっていると思います」
と右近も心配で仕方ない。夕顔が白昼の空を儚く眺めていたのを思い出して、ゲンジの君は哀れになった。
「私が警備兵を呼んでこよう。手拍子は騒がしいからね。ここで彼女の側にいてやってくれ」
とゲンジの君は右近を夕顔の側に引き寄せて、西向きの扉を押し開けた。廊下の灯りが消えている。風が立つ。人影が少なく、警備をするはずの兵隊が悉く寝ている。管理人の息子で日頃から使っている男と子供が一人、それから連れてきた家来がいた。ゲンジの君が呼ぶと目を覚まして返事をする。
「灯りを持ってこっちに来るんだ。警備兵は魔除けの弓を響かせろ。何でこんな物騒な場所で寝ている。コレミツ朝臣は何をやっているんだ」
とゲンジの君が怒鳴る。
「先ほどまで待機していたのですが、ご命令もないだろうから明日迎えにあがると言って帰りました」
管理人の息子が平謝りしている。この男は警備兵なので慣れた手つきで弓を鳴らし「火の用心」と叫びながら警備室へ駆けていく。後宮では午後十時の点呼が終わった頃だろう。今は警備兵が名乗り合って確認している時間だと思えば、夜もそんなに更けていないはずだ。ゲンジの君は部屋に戻った。夕顔は倒れたままで、隣に右近が伏している。
「どうしたんだ。怖がるのにも程がある。廃屋には狐のような獣が出て人を脅かそうと悪戯をするものだ。私がいれば大丈夫」
と右近を抱き起こす。右近は、
「怖くて寒気がするので伏していました。お姫様はもっと大変なことになっています」
と引きつっている。
「どんな様子なんだ」
とゲンジの君が夕顔に触ると呼吸がない。抱き寄せて揺すってもへなへなと失神したままだ。子供のような人だから悪霊に取り憑かれたのだろうとゲンジの君は途方に暮れてしまうのだった。警備兵が灯りを持ってくる。右近が腰を抜かしているので、ゲンジの君が自ら衝立を引き寄せて夕顔を隠す。
「もっと近くへ」
とゲンジの君が叫ぶ。警備兵は急なことに混乱し、畏れ多くて部屋の前までも上がれないのだった。
「非常事態だ。こっちへ来い」
とゲンジの君が警備兵を引き寄せて見てみると、夕顔の枕元に夢で見た美女が浮かび上がり、陽炎のように消えた。昔話で聞いたことがあったが、まさかこんな場面に遭遇するとは。鳥肌が立つ。それでも夕顔が心配でゲンジの君の心臓は破裂しそうだ。身の危険も忘れて、隣に伏し「おい」と呼びかけるのだが、夕顔の身体は冷たく息をしていない。手遅れだった。頼もしい相談相手がいる場所ではない。法師でもいれば何かの役に立ったかも知れないと思うが、強がったところでゲンジの君とて青二才だ。儚く絶命した夕顔を目の前に放心している。ゲンジの君は亡骸を抱きしめ、
「生き返ってくれ。私を悲しませないでくれ」
と泣くしかないのだった。夕顔は冷たくなって死後硬直がはじまっていた。右近は怖さも忘れて泣き、取り乱している。ゲンジの君は紫宸殿に出た鬼の話を思い出し、
「このまま死んだりはしない。闇夜の声は大袈裟に響くから静かにしなさい」
と不安を隠して諫めるのだが、あまりの急展開に呆然としてしまう。警備兵を呼び、
「化け物に取り憑かれて苦しんでいる女がいると、コレミツ朝臣に急いで来るように伝えろ。阿闍梨がいたら内密に連れてくるように言え。尼君が詮索しても余計なことを言うなよ。私の冒険を許さないから」
とかろうじて命令するのだが、胸が塞がり、夕顔の死を目の前にして取り返しの付かないことをしてしまったと思うのだった。それを周囲の不気味な空気が包み込んでいた。

