(現代語訳)
あの山寺の尼君が、小康状態になって戻って来た。ゲンジの君は、性懲りもなく、都にいる尼君の元へ手紙を送り続ける。当然、返事はいつも一緒だった。しかし、ここ数ヶ月は、いつもより波瀾万丈だったため、他のことに手を付けている暇もなく、時間だけが流れてしまったのだった。秋が終わる頃になると、ゲンジの君は、無性に寂しくなって溜息ばかりついていた。月が気持ちよさそうに浮かんでいる夜だから、重たい腰を持ち上げて、密通にでも出かけようと思ったとたんに、通り雨である。目的地は六条京極だ。後宮から出発したので、ゲンジの君は、「少し遠い」と思った。途中、風化したボロ家があり、鬱蒼としている木立を見つめていると、いつも一緒にいるコレミツが、
「アゼチの大納言の家ですよ。先日、近くに来たついでに寄ってみたのですが、あの尼上が衰弱しています。お先真っ暗だと嘆いていました」
と言うので、ゲンジの君は、
「可哀想だな。見舞いに行けば良かった。教えてくれたら良かったのに。中に入って、私が来たと伝えてくれ」
と命令する。家来を中に入れて取り次ぎを求めた。「わざわざこのために来ました」と伝えるように指図して抜かりない。家来が中で、
「今そこに、お見舞いに来ています」
と言うので、尼君の取り次ぎは仰天する。
「どうしましょう。ここ数日は容態が悪化しておりまして、面会謝絶でございます」
と言ってみたところで、門前払いできない相手である。南側の廂の部屋を片付けて、ゲンジの君を応接した。
「汚い場所ですが、せめてお見舞いの、お礼だけでも。時ならぬ時なので、こんな、むさ苦しい座敷で恐縮です」
と取り次ぎが言い訳する。ゲンジの君も、「これは本当に、むさ苦しい場所へ来てしまった」と思う。
「いつもお伺いせねばと思っていたのですが、私など相手にして下さらないようですので、いじけていました。こんなに重症だとは知らなくて」
とゲンジの君が言う。
「長年患っている病気ですが、そろそろお迎えが来るのでしょう。わざわざご足労頂いて恐縮しております。面会できない無礼をお許し下さい。あなたのお気持ちは承知しました。もし、そのお気持が、いつまでも変わらないのでしたら、私の孫がそれなりの年齢になってから、あなたの女君たちの末席にでも加えて頂ければ幸いです。将来の覚束ない幼い人を残して行くと思うと、死んでも死にきれない心地がします」
と尼君が答える。近い場所にいるようで、息切れした声から動揺が伝わってくるのだった。
「本当に身に余る思いです。この姫君が、せめてでも、ご挨拶できる年齢ならば」
と尼君が続ける。ゲンジの君は同情し、
「どうしてそのようなことを言うのですか。いい加減な気持ちでは、こんな色魔のようなお願いはできません。運命の糸で繋がっているのですよ。姫君を初めて見たときから胸騒ぎがして、忘れられません。私には、不思議と前世でも契っていたことだってわかるのです」
などと言い出す始末である。そして、
「いつもは片思いですが、どうかあの可愛らしい姫君の声を聞かせて下さい」
と言ってしまった。
「そんなことも知らずに、あの子は寝てしまいました」
と尼君の取り次ぎをする側から、バタバタと近づいてくる足音がする。
「おばあさま。お寺にいたゲンジの君が来たんだよ。どうして見に行かないの」
と脳天気だ。女官たちは体裁の悪さに「静かになさい」と制す。
「でも、ゲンジの君にお会いしたら、おばあさまは病気が治ったって言っていたもの」
と自分では一理あると思って得意げだ。ゲンジの君は面白くて仕方ないのだが、女官たちが慌てふためいているので、聞こえないふりをする。ありったけの見舞いの言葉を伝えて、その日は撤収したのだった。「本当に子供なんだな。でも、ちゃんと教育したら」などと相変わらずである。翌日も、ゲンジの君は尼君に心を込めて見舞いの手紙を送った。例のごとく、小さく結んだ恋文も忘れずに。
「雛鶴のひと声聞いたその日から舟を浮かべて葦をさまよう
私の一途な気持ちは変わりません」
と子供でも読める筆跡で書いた。それが良く書けていて、女官たちが「お習字のお手本にでもしたい」と言うほどなのだった。返信は少納言の乳母がする。
「お見舞い頂きました尼君は危篤でございます。明日をも危ぶむ容態なので山寺に戻りました。このようなお便りを喜ばれて、あの世からお礼を申し上げるでしょう」
とあった。ゲンジの君の胸が痛む。秋は夕暮れ。ゲンジの君は、絶え間なく心を震わせる人に想いを飛ばしたのだった。「その人と近親な人を手に入れたい」と追い詰められたりもするのだろう。尼君が「自分の消える空がない」と詠んだ、あの夕方のことを思い出した。あの時見た美少女が恋しくもあり、見込み違いだったらどうしようかと弱気にもなり、一首詠んだ。
いつの日かこの手に摘もう藤の根に続いて咲いた野辺の若草
十月になると、ミカドが朱雀院へお出ましになる。舞う人には、上流家庭の子息や、高級官僚、殿上役人でも、音楽の才能がある者は手当たり次第、かき集められた。皇子たちや大臣も例外では無かったので、皆、稽古に余念がない。ゲンジの君も忙しかった。山里の尼君を久しく見舞っていなかったことを思い出して、ゲンジの君は、ことさらに使者を飛ばした。しかし、僧都から返事があっただけだった。
「先月の二十日過ぎに姉が他界しました。世のことわりとは知りながら悲しみに暮れております」
と書いてあるのを見て、ゲンジの君は、「儚い」と思った。「尼君が案じていた幼い姫君はどうしているだろう。子供っぽい人だったから、お祖母様が恋しくて泣いているに違いない」と、自分が母の御息所に先立たれた時のことなどを漠然と思い出し、厳粛に弔う。少納言も丁重に対応した。
葬儀の後始末が過ぎて都に戻ったという情報を知った数日後、ゲンジの君は暇を見つけて、夜に自ら訪ねた。人の気配がない場所の廃墟めいた建物なので、「幼い人が、どれだけ怖がっているだろうか」と余計な心配もしてみる。例の南の廂の座敷に通されて、少納言が涙ながらに今際の物語りをするので、ゲンジの君も自動的に貰い泣きをしたのだった。
「父親の兵部卿宮の屋敷に引き取って貰うことになっています。姫のお母様が、いじめられて苦労しておりましたし、この子は、何も理解できない子供というわけでもなくて、それでも、世渡りができる年齢でもありません。こんな中途半端な子供が、大勢の子供の中でやっていけるものだろうかと尼君がいつも心配していました。あながち杞憂でもないので、あなたの無計画な言葉でさえ、無謀だと思いつつ有り難く思わずにいられません。ただ、どう考えても、あなたに相応しい所が見つからないのです。それに、実際の年齢よりも子供じみているのが、恥ずかしくて」
と少納言の乳母が言う。
「なぜ、何度も同じ事を言わせるのですか。そんなに牽制されなくても良いでしょう。その幼い人を、私は好きになってしまいました。冷静に考えても、私たちは何か特別な縁で結ばれているとしか思えません。あなたに話しても無駄ですね。直接、姫君と話をさせてください。
寄せ返す波になっても繰り返せ 幼い姫を一目見るまで
私を馬鹿にしているのですか」
とゲンジの君に火が付いた。少納言の乳母は、
「お気持ちの無駄遣いを」
と言って、
「寄せ返す波に打たれてなびくのは玉藻ぐらいの軽い浮き草
滅茶苦茶ですわ」
と当意即妙に返す。馴れた様子なので、ゲンジの君は許してやる気にもなるのだった。鎮火させられたゲンジの君が「なぞ越え難き逢坂の関」と和歌のさわりを口ずさむから、若い女官たちがよろめいている。
幼い姫君は尼君が恋しくて、夜泣きしているのだが、遊び相手の子供達が、「直衣を着た人がいるよ。兵部卿宮様が来たんだよ」と言うので起き上がった。
「少納言、直衣を着た人はどこ。お父様なの」
と言って、少納言の乳母に近寄る声が可愛い。
「私は宮様ではないよ。だけど、あやしいお兄さんでもないから、こっちへおいで」
とゲンジの君が言った。幼い姫君は、「あの綺麗な人だ」と咄嗟に察知して、「変なことを言っちゃった」と恥ずかしいのか、少納言の乳母の近くへ逃げた。
「あっちへ行こう。眠い」
と誤魔化す。
「もう怖がらなくてもいいんだよ。この膝の上で睡りなさい。さあこっちへ」
とゲンジの君が言うので、少納言の乳母が諦めてもらおうと、
「申し上げたとおり、こんなに子供ですから」
とゲンジの君の前に姫君を押し出す。姫君は邪気無くぺたんと座るのだった。仕切った布に手を滑らせて探ってみると、くたびれた着物の上に、さらさらとした髪の毛の感触があり、可愛らしい子供なのだと知れた。そっと手を握ると、姫君は、知らない人が近くにいるのが気持ち悪くて、
「ねむい」
と手を引っ込める。その手の軌道に沿ってゲンジの君が滑り込み、
「これからは私があなたのお兄さんだ。嫌いにならないで」
と言うのだった。少納言の乳母が、
「いけません。何ていう無茶なことを。どんなに話しても無駄ですから」
と真っ青になっているので、ゲンジの君は、
「いくら私でも、こんな幼い人には発情しません。私の真剣な想いを見守ってやってください」
と言うのだった。
外は霰が降り乱れ、おぞましい夜である。
「少ない人数で、こんな物騒な場所に暮らすのは無理だ」
とゲンジの君が涙まじりに言う。このまま見捨てて帰るのは、彼の助平心が許さなかった。
「跳ね上げ扉を閉めなさい。こんな恐ろしい夜だから、私が姫君の家来になってお守りしましょう。みんな近くに集まりなさい」
と馴れ馴れしく、当然のように部屋の中へ入ってくる。ゲンジの君が、大それたことを平然とやってのけるので、一同、呆れて唖然とするのだった。少納言の乳母は困り果てて焦るのだが、騒いでも仕方ないので、溜息を漏らす。観念したようだ。幼い姫君は、ただ恐ろしくて自分の置かれている状況を理解できず震えている。美しい肌が寒気で毛羽立っているのを、ゲンジの君は可愛らしく思う。ゲンジの君は、姫君に肌着だけを着せたまま、包み込むように抱き上げる。一瞬「私は変態かも知れない」と自覚したが、細かいことはどうでも良かった。じっくり幼い姫君と物語る。
「私の所へおいで。綺麗な絵がたくさんあって、お人形遊びもできます」
と気を引くような話をするのが、とても優しいので、姫君は、幼心にも恐怖が薄れていくのがわかるのだった。それでも気色悪くて眠れないから、そわそわしながら寝っ転がっている。
夜風が強く、吹きやまない。
「こうしてゲンジの君が来て下さらなかったら、どんなに恐ろしかったかしら」
「どうせなら、姫様がお似合いの年頃であって欲しかったわ」
などと女官たちが小声で話していた。少納言の乳母は、心配なので近くで監視をし続ける。風が少し弱まった頃、まだ暗い夜のうちに引き上げるのが、なんだか秘め事めいている。
「こんな可愛い人を見てしまった今は、もう片時も忘れることができません。私が退屈しながら暮らしている屋敷に連れて行きましょう。いつまでも、こんな所にいてはいけません。姫君は私を怖がりませんでしたよ」
とゲンジの君が言うので、少納言の乳母が、
「兵部卿宮様も迎えに来ると仰せですが、尼君の四十九日が終わってからと思いまして」
と答える。ゲンジの君は、
「確かに兵部卿宮は頼りがいのある人だ。でも、今まで別に暮らしていた人ですよ。他人のように思うでしょうね。私たちの出会いは始まったばかりですが、この気持ちはお父上に負けないつもりです」
と髪を掻き上げて、振り返りざまに去ったのだった。
濃霧に包まれた空が、いつもと違って見える。地面には真っ白な霜が立った。ゲンジの君は、「本当の別宅帰りだったなら」と思って、今朝は少し物足りない。いつも隠密に通っている女の家を通り過ぎる頃に思い出して、門を叩かせた。それを聞く人がいないので、仕方なく、いちばん声の張る家来に命じて、歌を読ませる。
夜明けまえ霧立つ空に迷っても素通りできぬ人の家かな
と二回ばかり繰り返して読むと、家の中から賢そうな女中が出てきて、
立ち止まる霧の垣根を過ぎ去れば草の扉が開くあけぼの
と言ったまま中へ引っ込んでしまった。それから何も起きなかったので、「このまま帰るのも、つまらない」と思いながら、開けてゆく空の下を、とぼとぼと二条院へ戻った。
あの可愛らしい幼い姫君の面影がちらついて仕方ないので、ゲンジの君はニヤニヤしながら睡った。日が昇ってから起床し、手紙を書こうと思うのだが、いつもと勝手が違う。書くべき歌も恋人宛ではないので、筆を置いて、思うままに任せる。綺麗な絵を一緒に添えて。
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