一 桜の宴

(現代語訳)

 きさらぎの二十日頃には、紫宸殿で桜の宴があった。ミカドの玉座の左右に、藤壺中宮と東宮の御座所が設置され、二人がお出ましになる。弘徽殿女御は、藤壺宮が中宮の座に鎮座しているのを見るたび癪に触るのだが、見物の誘惑に負けて出席した。

 気持ちよく鳥がさえずる青空の下、親王一同、高級役人をはじめとして、詩人たちは皆、文台に置かれた韻字を手にして詩作に励んでいる。宰相中将になったゲンジの君は、

 「春という漢字をいただきました」

と韻字を見せて、声の晴れがましさといったら尋常ではない。次は頭中将の順番で、ゲンジの君と比較されては可哀想だと思われたが、本人は落ち着いた様子で見劣りしなかった。声にも貫禄があり悪くない。その他大勢は、この二人に萎縮していた。ミカドや東宮が漢詩の知識に長けているのは当然で、他にも優れた詩人が大挙している。この清々しく広い庭に登場する下級役人たちの足取りは重いのだった。腰が抜けたのか、簡単な漢詩を作るのでさえ困難である。一方、年配の博士たちは、枯れ木のようだが、場慣れしているのか優雅に詩を味わっており、宴に花を添えていた。

 舞や音楽の準備も抜かりない。空が夕日に染まる頃、「春に鶯がさえずる」という面白い舞の演目があった。東宮は、紅葉の舞った、あの「青海波」を思い出す。ゲンジの君の冠に桜の枝を挿して舞を所望するので、この男も断り切れないのだった。ゲンジの君が立ち上がって、そっと袖を振るだけで宴の花が満開になった。左大臣は、不義理なこの男の仕打ちも忘れて、また涙しているのだった。

 「頭中将よ、何をしているのだ。すぐに」

と声が上がったので、彼は「柳花苑」というのを舞う。こんなことを予期していたのだろうか。事前に練習していたと見えて、ゲンジの君よりも長く舞うのだった。とても見事に舞ったので、ミカドから着物の贈呈がある。「珍しいこともあるものだ」と人々は感心した。その後、上級役人たちが次々と舞い乱れたが、暗くなっては鈴生りなのだった。

 詩の批評が始まって進行係などは、ゲンジの君の漢詩を理解できぬまま一句ずつ口ずさんで絶賛している。博士たちは、ただ感心するばかりなのだった。こういう宴では光り輝いているこの男である。ミカドが放っておくわけが無い。藤壺中宮は、ゲンジの君の姿が眼に入るたびに、弘徽殿女御がこの男を容赦なく嫌うのが不可解であり、そんなことを考えてしまう自分の心を「はしたない」と思うのだった。

 見るだけの仲で終わればさくらばな 花の嵐の圏外に立つ

 胸中に秘めた歌だったろうに、どうして漏洩したのだろうか。夜更けまで桜の宴は続いた。

 

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花宴の帖 (系図と登場人物の年齢)

 

|HANANOEN

主人公、ゲンジ二十歳の春である。

 藤壺 …… 二十五歳
 葵上 …… 二十四歳
 若紫 …… 十二歳

 
これまでのあらすじ

 主人公、光ゲンジは皇帝の息子である。彼の母親は桐壺更衣と呼ばれた、なかなかの美人だった。あまりにも帝が溺愛したため、周りの妾たちから反感を買った桐壺更衣は、いじめの心労から夭逝してしまう。幼くして私生児となった光ゲンジは、信じられないほどの美貌と才能を武器に、後宮を騒がせる貴公子に成長するのだった。帝は光ゲンジを皇帝の後釜に据えたかったのだが、占い師の助言により、源氏姓を与え臣籍に下した。

 桐壺更衣の死後、帝がふさぎ込むので後宮も沈んでいた。しかし藤壺女御が後宮に入内すると、再び華やぐ。何と藤壺女御は桐壺更衣に瓜二つなのだった。幼くして母親を亡くした光ゲンジは、次第に藤壺更衣に惹かれ、挙げ句の果てには理想の女性像までに祭り上げてしまう。世間は、この二人を「光る君、輝く宮」と呼んだ。

 光ゲンジは元服後、左大臣の娘であるアオイを正室に迎える。これは、私生児同然だった彼に、左大臣家という強力な後見人ができたことを意味する。左大臣の息子を皇子の嫁にと考えていた右大臣家の人々(特に弘徽殿女御)は、光ゲンジを忌々しく思うのだった。

 物忌の雨の夜、光ゲンジの部屋に貴公子たちが集まり、恋愛談義に花が咲く。話題は中流階級の姫君の話で盛り上がった。中でも、光ゲンジは、アオイの兄である頭中将が話した、内気な常夏の女(夕顔)の話に興味を持つ。これが「雨夜の品定め」である。

 中流階級の女に興味を持った光るゲンジは、地方官僚の後妻である空蝉と関係を持ってしまうのだった。空蝉は光ゲンジとの関係を後悔し、恋の泥沼を恐れて拒み続ける。光ゲンジは空蝉の弟をそそのかし、再び空蝉を襲うのだが、空蝉は夏衣を一枚残して逃げたのだった。空蝉は自らの境遇を情けなく思い、和歌をなぞって運命を重ねた。

 空蝉に逃げられて傷心の、光ゲンジは、六条の貴婦人のもとへと密通するついでに、病気である乳母の、コレミツの母を見舞う。コレミツは光ゲンジの家来でもある。光ゲンジは、コレミツの家の隣に白い花の咲く家を発見し、この家の女主人に興味を持った。女の童が扇の上に白い花を乗せて差し出すと、そこには意味深な歌が書いてある。お互いの正体を隠したまま密通がはじまった。満月の夜、光ゲンジは女を誘って、ある荒ら屋に連れ込む。その夜、光ゲンジは可憐な女に心を奪われるのだが、なんと深夜に悪霊が現れ、女を呪い殺してしまうのだった。コレミツの協力により女の密葬を済ませると、光ゲンジも病に倒れる。病気の回復後、女に付き添った女官の右近から亡き人の正体を聞くと、頭中将の愛人、夕顔なのだった。

 光ゲンジは、わらわ病の治療のため、北山の聖を訪ねる。そこで、明石に住む入道とその秘蔵娘の話を聞くのだった。光ゲンジは入道の堅物ぶりに興味を持ち、その姫君のことが気になった。

 病快復の祈祷のついでに、光ゲンジが北山の僧坊を覗いてみると、品の良い尼君と、なかなかの女官、そして可愛い少女を発見する。その少女が、憧れの人、藤壺女御にそっくりなのだった。事情を聞けば、少女は藤壺女御の姪という血筋である。光ゲンジはこの少女を手に入れて、自分の思い通りに教育してみたいと思った。

 或日、藤壺女御が療養のため実家に下がった。その隙に、光ゲンジは藤壺女御と二度目の関係を持ってしまうのだった。なんとその後、藤壺女御は光ゲンジの子供を身籠もってしまう。藤壺女御は自分の運命を呪い、帝を裏切ったことに心を痛めた。

 北山の尼君が、幼い姫君を残して病死する。光ゲンジは、この少女を引き取りたいと申し出るのだが、まだ結婚できる年齢ではなく、似つかわしくないと悉く断られてしまう。少女は父の兵部卿宮のもとへ引き取られることになった。

 父宮が、少女を引き取る日の朝、光ゲンジは少女を強引に誘拐する。そして二条院に囲い、教育を開始するのだった。この姫君は、藤壺女御と縁のある血筋なので、若紫と呼ばれた。

 光ゲンジは、夕顔との儚い恋を忘れられず、タイフの命婦という女官の手引きで、没落した故常陸宮の姫君に興味を持つ。しかしこの姫君は黙ってばかりいた。不審に思った光ゲンジは、半ば強引に契りを交わしてしまう。

 そして、ある雪の朝、光ゲンジは、この姫君の顔を見て愕然とする。なんと、象のように伸びた鼻の先が赤いのである。それが紅花のようであった。後にこの姫君は、末摘花の君と呼ばれた。そして、末摘花を不憫に思った光ゲンジは、生活の援助をする羽目になるのだった。

 紅葉の季節に、光ゲンジと頭中将は、行幸の試演として、桐壺帝の午前で青海波を舞い、絶賛された。同席していた藤壺女御は、その美しさにたじろぐのだった。その翌年の二月に、藤壺女御は皇子を出産する。表向きは、桐壺帝の第十皇子であるが、光ゲンジの生き写しなのだった。藤壺女御は自分の犯した罪に、恐れおののいたが、帝は何も疑わなかった。そして、帝は、この皇子を東宮に立てるための頼みとして、藤壺女御を中宮にするべく画策する。同じ頃、光ゲンジと頭中将は、源典侍という男好きの女官を巡って、悪戯な恋ではあるが、競い合いをしたのだった。

五 藤壺の立后、ゲンジの昇進

(現代語訳)
 七月には、藤壺宮が中宮に立ったようである。ゲンジの君も太政官の参議に昇進したのだった。ミカドは、近く引退をする決意で、「藤壺宮が産んだ若宮を東宮にしたい」と目論んでいる。しかし、適当な後見人もおらず、藤壺宮の親族は皆、皇子たちなので、皇族が政治に関わるのも無理があった。そこで、ミカドは、「母宮を中宮という確固たる地位に据えて、若宮の力添えにしよう」と企んでいるのだった。もちろん、それが弘徽殿女御の逆鱗に触れたのは当然である。しかし、ミカドは、

 「もうすぐ東宮がミカドに立つ時代です。あなたが皇太后になるのは時間の問題ですよ。左うちわでいたらいい」

となだめたのだった。皇太子の母として、もう二十年あまりを過ごした、この弘徽殿女御を飛び越えて、藤壺宮が中宮になるのだから、「筋の合わない立后だ」と、世間では物議を醸すのだった。

 ゲンジの君は、藤壺中宮が後宮に上がる夜の付き添いをした。ミカドの后と言っても、この人は皇族の出身である。宝石のように光り輝き、ミカドの覚えもこの上なく目出度い。後宮の人々も、藤壺中宮を崇め奉っている。ゲンジの君はと言えば、哀切極まり、御輿の中の中宮を思えば、「ますます手の届かない存在になってしまった」と気が狂う寸前まで悶絶しているのだった。

 月のない心の夜に出る雲よ遙かむこうに君が見えない

とゲンジの君は、寂しさに身が震えて嗚咽していた。

 若宮は月日に成長していくに従って、いよいよゲンジの君の生き写しになったので、藤壺中宮は責め苦に遭っていたが、誰も気がついていないようだ。確かに、どんな作り話だとしても、ゲンジの君に劣らない美男子が、この俗世に誕生するなど、夢にも思わないだろう。ただ、人々は、「月の光が太陽のそれと似るように、輝く二人の皇子だ」と惑わされているのだった。

 

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四 源内侍と夕立の夜

(現代語訳)
 ミカドはいい年をして、なおも女好きだった。配膳や身の回りの世話をする女官たちは、見た目や性格を重視していたので、後宮の女たちは精鋭揃いなのである。ゲンジの君がちょっかいを出すにしても、相手には事欠かない風情なので、もう見飽きてしまったのだろうか。女官たちは、「まったく女には興味がないようね」と不満げに、試しに挑発してみるのだが、適当にあしらわれるだけで、少しも発情する様子がない。こんな紳士ぶったゲンジの君なので、「堅物でつまらない男ね」と勘違いしている女もいるのだった。

 かなり高齢の源典侍という女官がいた。上流階級出身の才女で気品があり、周囲から一目置かれている女だったが、男にだらしなく、行儀の悪さで有名なのだった。ゲンジの君は、「どうして歳を取ってまで、あんなにお盛んなのだろうか」と不思議で、おもしろ半分に口説いてみることにした。すると女は、身の程知らずにも真に受けているようなので、ゲンジの君は、開いた口が塞がらない。それでも向学のためにと興味津々で、深い仲になってしまったのだった。しかし、相手は老女なのだから、人に知れたら大変である。そんなゲンジの君の対応が冷たいので、女は恨めしいのだった。

 ミカドが髪上げをするというので、この源内侍が呼ばれて整え終えると、ミカドは衣装係を呼びに部屋を出て行った。誰もいなくなった部屋に、源内侍が一人、普段より小綺麗に、姿や髪を色っぽく、着物も艶やかに、プンプンと座っているので、ゲンジの君は、「若作りをしてやがる」と軽蔑の視線を向けるのだった。それでも、「あれから、どう思っているだろう」と素通りできずに、腰に付けている裳の端を引っ張ってみる。すると、源内侍は悪趣味な絵の描いてある扇で顔を隠しながら振り返るのだった。誘う目つきが、隈だらけで窪んでいる。ゲンジの君は、「年甲斐もなく、こんな扇を持って」と、自分の扇と交換した。そのけばけばしい扇を見ると、目の醒めるばかりの真紅の紙に、大きな木の茂る森の絵が金色に描かれているのだった。その裏側には、古式ゆかしい筆跡で、「森の木陰に生える草が枯れそうで」などと書いてある。ゲンジの君は、「他に書くものもあるだろうに。悪趣味極まる」と微笑みながら、

 「夏の森の大木に日陰宿りですか」

と言うのだった。こんなやりとりをする相手でもないので、「誰かに見つかるのは真っ平だ」と気が気でないのだが、源内侍は満更でもない。

 君の乗る馬にも飼い葉をあげましょうもう枯れそうな日陰の草でも

と一首詠むのが、おそろしく色っぽい。

 「踏み分けた笹を誰かに見られたら ただでは済まぬ馬の楽園

 面倒なことになるといけません」

と逃げ出そうとするゲンジの君を、源内侍は引っ張って、

 「今まで、こうも侮辱されたことは無いわ。老いぼれてまで恥をかくなんて」

と泣きじゃくるのだった。

 「また手紙を出しますよ。いつでもあなたのことが気になっていますから」

とゲンジの君は袖を振り払って脱出しようとするのだが、源内侍も必死である。「思っているだけでしょう」と恨みたっぷりだ。着替えを終えたミカドが、障子の隙間からそれを覗いていた。「なんとも似合わない二人だな」と可笑しくなって、

 「堅物だと、お前達は、いつも心配していたようだが、やはり油断できない男だったね」

と笑っているので、源内侍は顔を赤らめながらも、「恋しい人のためだったら、濡れ衣を着たがる人もいるでしょう」と、あえて言い逃れをしない。

 後宮では、「不思議なこともあるものだ」と、たちまち人々の噂になった。頭中将も聞きつけて、「あの男が変態だとは知っていたが、まさか源内侍とは思いつかなかった」と、歳を取ってもまだ冷めない好色な老女が気になって仕方なく、やはり、この男も深い関係に陥ってしまったのだった。頭中将も、人に劣らぬ貴公子である。源内侍は、冷酷なゲンジの君の身代わりにしようと思ったのだが、本当に愛しているのは一人だけなのだそうだ。悪い冗談としか思えない。

 頭中将は細心の注意を払って密会したので、ゲンジの君は何も知らなかった。源内侍は、ゲンジの君を見つけるたびに小言をするので、「不憫な年寄りを、いたわってやらないと」と思うのだが、やはり面倒なのだった。踏ん切りがつかないまま、月日は過ぎる。夕立の後、にわかに涼しくなった夜に紛れて、ゲンジの君が、控え所の温明殿のあたりを徘徊していると、源内侍が奏でる琵琶がおもしろい。ミカドの御前で男たちに交ざって演奏するほどの琵琶の名手である。敵う者がいない腕前の源内侍が、男恋しさに奏でるのだから、ゲンジの君の心に響かぬわけがない。「瓜作りに……なりやしなまし」と気味が悪いほどの美声なので、ゲンジの君は不安にもなってくる。「昔、鄂州で女の声に惑わされた白楽天の気持ちは、こんなだったろうか」とゲンジの君は聞き入った。曲が終わると、源内侍の思い乱れる様子が伝わってくる。ゲンジの君は、東屋という催馬楽を、柱に寄りかかって歌い出した。すると源内侍が、「押し開いていらっしゃい」と声を揃えて歌うのだから、やはりこの女もただ者ではなかったのだった。

 佇んで濡れる人なき東屋に雨はこうまで憂鬱に降るの

と一首詠んで、源内侍は泣いている。ゲンジの君は、「私だけが、愚痴を言われる筋合いもない。どうして、こんなに男を恋しがるのだろう。嫌なこった」と思う。

 人妻は危険ですから東屋の廂をかりず雨に濡れゆく

と一首詠んで、さっさと退散したいのだが、それではあまりにもにべもないと思い直して、源内侍の望み通り押し開いた。冗談などを言い合っていると、ゲンジの君は、「こんな夜も悪くない」と思ってしまうのだった。

 頭中将は、この男が真面目面をして、いつも自分を袋だたきにするから、癪に障っているのだった。さりげなく通う女も多いだろうから、何とかして見つけてやろうと思っていた矢先である。この現場を押さえたので、嬉しくて仕方ない。この際、少し脅かして、尻尾を巻いたら、「懲りただろう」と言ってやるつもりで、しばらく泳がせておくことにする。

 冷たい風が吹き、夜が更けはじめると、ゲンジの君と源内侍が微睡んでいるようなので、頭中将は静かに侵入を試みる。ゲンジの君は警戒をして熟睡できないので、すぐにそれを察知した。まさか頭中将であるとは思いもよらず、源内侍を想い続けている修理のカミが、未練たらしく忍び込んで来たのだと勘違いしているのだった。こんな醜態を老人に見つけられるのは不体裁だと戸惑い、

 「困ったことになったね。もう帰りますよ。今夜、別の男が来ると知りながら私を騙すとは悪い女だ」

とゲンジの君は、直衣だけをつかんで屏風の後ろに隠れた。頭中将は笑いを堪えて、その屏風に近寄って畳み、わざとらしく音を立てるのだった。源内侍は老女だが、とても若作りにめかし込んでいる。こんなことは日常茶飯事なので、今さら驚かないようだ。慌てながらも、「ゲンジの君の運命はいかに」と心配でわなわなと震え、とっさに頭中将を捕獲した。ゲンジの君は自分の正体が知られぬうちに脱出したいと思うのだが、「冠をひねったまま、だらしない姿で逃げていく狂態を晒すわけにはいかない」と躊躇っているのだった。頭中将も、自分の正体を明かしてはならぬと無言である。憤怒している演技で、刀を引き抜いた。

 「あなたあなた」

と源内侍が三つ指を突き出す狂乱なので、頭中将は、笑いを堪えるのに精一杯である。色気たっぷりに若作りしている化けの皮だけは女らしいのだが、五十七、八の老女だ。恥も外聞もなく狼狽し、今をときめく二十歳そこらの貴公子に挟まって、右往左往している姿は、ほとんど漫才である。中将は自分だと知れぬように、鬼の形相をしているのだが、ゲンジの君には逆効果だった。正体がわかってしまえば、「頭中将が、私と知りながら仕組んだ罠だな」と馬鹿馬鹿しくなってしまう。正体を突き止めてしまうと、ゲンジの君も笑いが止まらない。頭中将の太刀を抜いている腕をつかまえて、思いきりつねった。頭中将は、「しくじった」と思いながらも笑い出す。

 「まるで無茶苦茶な。ふざけてばかりもいられないね。さて、この直衣を着ますよ」

とゲンジの君が言うと、頭中将は直衣をつかんで阻止する。

 「では、君の直衣も」

とゲンジの君は、頭中将の帯を引っこ抜いて直衣を脱がせようとするのだった。頭中将も必死に抵抗するのだが、手当たり次第に引き合っているとビリビリとほころびてしまった。頭中将は、

 「包み込む噂の漏れるほころびを引き合う我等の衣の中に

 こんな直衣を上に着たら、怪しまれますよ」

と一首詠む。ゲンジの君は、

 隠せない秘密と知って夏ごろも着たのは薄い心の仕業

と迎え撃つ。二人は引き分けて、だらしない姿で出て行くのだった。

 ゲンジの君は、この奇襲を悔しく思いながら寝た。源内侍はへなへなと萎れたまま、翌朝、落とし物の袴や帯を送りつけたのだった。

 「怨んでも仕方ないけどふたつ波 寄せては返し 返して消える

 波が消えて底が露わになってしまいました」

などと書いてある。ゲンジの君は手紙を読んで、「図々しい女だ」と忌々しく思うのだが、混乱しているようで可哀想なので、

 荒ぶれる波に心は揺れずとも寄せる磯には恨みが残る

と返歌だけはした。届いた帯は、頭中将の物だった。濃い紫であると気がつき、自分の直衣を確認してみると、袖の先がない。ゲンジの君は、「恥ずかしいな。女に狂った男とは、いつもこんなに無様な目に遭っているのだろう」と思って神妙な顔をしている。

 頭中将の控え所から、「まずは、これを縫い付けてください」と包みが届いた。ゲンジの君は、「どうして奪われたのか」と歯ぎしりする。「この帯を手に入れてなかったら、私は惨敗だな」と気を取り直して、帯を同じ色の紙に包み、

 途絶えたと糾弾されると癪だから帯に触らず祟りに触れず

と一首詠むのだった。当然、頭中将からも反撃がある。

 「こんなにも君が引っ張る帯だから二人の仲は離ればなれに

 もう言い訳はできませんね」

などと書いてある。

 昼になってから、二人は後宮へやって来た。ゲンジの君が涼しい顔をしてとぼけているので、頭中将は可笑しくて仕方がない。それでも、公用の多い日で、ミカドに伺いを立てたり、宣旨で忙しく、頭中将も行儀良く大人しくしていた。けれども、二人が目配せをすると、自然と笑みがこぼれてしまうのだった。頭中将は人目の隙を窺って近寄り、

 「秘め事は懲りただろうね」

と棘のある視線を向ける。

 「馬鹿なことを言うなよ。君の方こそ折角来たのに残念だったね。本当に恋愛とは面倒だ」

とゲンジの君も負けていない。「さあ、わかりませんと答えましょう」と、この一件は、お互いの胸にしまっておくことになった。それでも、その後、何かがあるたびに、この話を頭中将が蒸し返すので、ゲンジの君も「面倒な老女に手を出してしまった」と後悔したことだろう。源内侍は、未だ懲りずに艶っぽい恨み言をしてくる。ゲンジの君は、ほとほと困ってしまうのだった。頭中将は、この話をアオイにも隠しておくことにした。何かがあった際の切り札にするつもりなのだ。

 やんごとない母を持った皇子たちでも、ミカドが特別扱いしているゲンジの君には、一目置いていた。しかし頭中将は違う。「後れを取るまい」と、下らないことにもライバル意識を燃やすのだった。左大臣家では、頭中将だけが、アオイと同じ皇族の血を引く跡取り息子である。頭中将は、「ゲンジの君は、ミカドの息子というだけだ。私だって、同じ大臣と言っても、今をときめく左大臣家と皇族の血を引く貴公子だ。しっかりと教育も受けたのだから、ゲンジの君に劣ることがあるだろうか」と思っているらしいのである。頭中将もまた、人格のしっかりした利口な男である。何をするにしても欠陥はない。この二人の張り合いは、異常なほどだったが、これ以上書いてもややこしくなるだけなので、例の通り省略する。

 

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三 藤壺宮の御子誕生

(現代語訳)
ゲンジの君が新年の参賀に行く場所はそう多くない。ミカドと、皇太子、それから前のミカドだけだが、藤壺宮のいる三条宮殿にも行く。

「今日は格別に美しく見えること。歳を重ねて怖いぐらいに成熟されていきますわね」

と女官たちは黄色い声なのだが、藤壺宮にしてみれば、仕切りの間からゲンジの君の姿を微かに目にするだけでも、煩悶が多い。

出産予定の十二月も過ぎている。過期産を心配する藤壺宮家の人々も、今月は生まれるだろうと痺れを切らしており、ミカドもそのつもりなのだった。しかし、正月も矢のように過ぎた。「化け物にでも取り憑かれたのだろうか」と世間ではもっぱらの噂だが、藤壺宮は、ただ憂鬱である。「これで私もおしまいね」と溜息まじりに悩ましく、体調も悪化するのだった。

ゲンジの君は、思い当たる節がありすぎて、各地で事情を曖昧にしたまま祈祷をさせていた。「儚い世の中だ。これで私たちは終わってしまうのだろうか」と身悶えていたが、二月十日過ぎに男の子が誕生した。ミカドは満面の笑みを浮かべ、後宮や三条宮殿も春爛漫である。藤壺宮は、「命拾いしてしまったわ」と悲しむが、弘徽殿あたりで呪っていると聞けば、「このまま犬死にしたら笑われる」と気丈にもなり、体調は快復に向かうのだった。

ミカドは早く息子に会いたくて居ても立ってもいられない。ゲンジの君もしかりである。秘めた想いに誘われて、人気がない時間を見計らってやって来る。

「ミカドが心配していますから、私が若宮にお会いして様子を伝えましょう」

とゲンジの君が提案するのだが、

「生まれたばかりで見苦しいですから」

と藤壺宮は却下するのだった。対面を拒むのは、もっともである。なんと若宮は、ゲンジの君と瓜二つなのだった。疑う余地もない。藤壺宮の心の中に鬼が現れて、たちまち胸をかき乱した。「この子を見て、あの不道徳な過ちを非難しない人なんていないわ。些細なことでも粗探しをする世間なのだから、どんな悪女と名指しされるか怖い」と苦しみ、一人で絶望しているのだった。

ゲンジの君は、王命婦とわずかに面会し、言葉の限りに手助けを求めたが、打つ手がない。若宮に会いたいと執拗に迫ると、

「どうしてそんなに聞き分けのないことを言うのですか。そのうちお会いになる日がございます」

と王命婦は突っぱねて、心で泣いた。お互いに深刻である。臆する事情なので、ゲンジの君も無茶はできず、

「いつになれば、あの人と会えるのだろう」

と泣き出す始末なので、見ていられない。

「どのように前世で交わした約束か この世にできた溝の深さよ

こんなはずではなかったのに」

とゲンジの君が一首詠む。王命婦は、悲しみに暮れている藤壺宮を思い出し、これ以上冷たくできず、

「見て悩む見ずに嘆くみどり児を思う親には心に闇を

悲しいほどに痛々しいお二人です」

と小声で言った。

かくして、ゲンジの君は取りつく島もなく退散するのだが、藤壺宮は世間の目が怖い。「滅茶苦茶だわ」と、迷惑なのだった。王命婦のことも昔のように信用していない。他の女官たちには知れぬようにと大目に見ているのだが、それでもお気に召さないようである。王命婦は、胸が痛く不本意にも思うのだった。

四月になると、若宮は後宮へ上がった。わりあい発育が良いようで、もう寝返りなどもしている。呆れるほどにゲンジの君の生き写しなのだが、ミカドはいい気なもので、「絶世の美男子というのは、似たような顔をしているのだろう」と取り違えているのだった。この若宮に夢中で、大切に養育しているのは言うまでもない。

ミカドは、ゲンジの君をこれ以上ないほどに慈しんでいたが、世間が許さないという理由で、皇太子にしなかった。「普通の役人にしておくにはもったいない」と、その気品が備わっていく容姿を見るたびに可哀想に思っている。藤壺宮を母として、同じように光り輝く御子が産まれたので、ミカドは、「非の打ち所がない」と喜び、異常な溺愛ぶりなのだった。そして、藤壺宮は、身を切られるような不安に襲われた。

通例の演奏会などでゲンジの君は、藤壺に呼び出される。ミカドが若宮を抱いて出てくると、

「私にはたくさん子供がいるが、この子と同じ頃から四六時中、側に連れたのは、お前だけだ。だから勘違いしてしまうのだろうか、本当によく似ている。子供というのは、皆こうなのだろうな」

と言って、息子の可愛さに顔がほころんでいる。ゲンジの君は顔面蒼白になって、恐ろしくも、かたじけなくも、嬉しくも、感無量にも、複雑な思いがして泣きそうになるのだった。若宮は、声を発して笑っている。不気味なほど美しい顔をしているので、ゲンジの君は我ながら、「自分がこの子に似ているとは、何とも畏れ多い」と思っているらしく、いい気なものである。藤壺宮は、その場にいるのも耐え難い恥ずかしさに冷や汗を流しているのだった。ゲンジの君は、ますます取り乱し、理性を失いそうになったので、後宮を出ることにする。

二条院に戻ったゲンジの君は、「動悸息切れが治まってから左大臣の屋敷へ行こう」と思う。目の前の植え込みが何やら青くなっている中に、撫子の花がきらめくように咲いていた。それを手折って、王命婦宛の手紙に添えたのは、ありふれた話のようだ。

「子を想い見つめる花の撫子は袖を濡らして我を鎮めず

花が咲くのを待っていましたが、叶わぬ想いでした」

と書いてある。誰もいない時だったのだろうか、王命婦は、そっと藤壺宮に見せて、

「塵ほどで構いませんから、どうか撫子の花びらに返事を」

と言うと、藤壺宮も悲しみに暮れていた頃なので、

この花が涙を誘う形見でも根には持たない大和撫子

とだけ、微かな筆跡で付け足したように書いたのだった。王命婦が嬉々として、ゲンジの君へ届けた。返事がないのは毎度のことで、ゲンジの君が臥したまま思い悩んでいた折である。ゲンジの君は、胸がときめき、嬉しさに涙が出るのだった。

湿っぽく卑屈になって臥せっていても何も解決しないような気がしたので、ゲンジの君は、普段のように西の対に気晴らしに行くことにした。乱れ髪のまま上着を着流し、後追いしたくなるような笛の音を奏でて、部屋を覗いてみる。若紫は、あの植え込みの撫子が露に濡れたような姿で、壁に凭れていた。それが美しくも可憐でもある。この可愛らしい少女は、ゲンジの君が帰宅してから、すぐに顔を出してくれないので、拗ねているようだ。背中を向けたまま部屋の隅に座っているのだった。ゲンジの君が、「こっちへおいで」と言っても知らん顔をしている。「海に沈んだ若布だから、会えないの」と歌いながら口を袖で隠すと、若紫は色気を増した。

「生意気だね。どこでそんな歌を覚えたのかい。見過ぎて飽きるのは、もっと良くない」

とゲンジの君は冗談を言ってから、琴を持って来させて若紫に弾かせようとする。

「十三弦の琴は、中央の細い弦が切れやすいから注意しないといけません」

とゲンジの君が調律をはじめる。簡単な曲を弾いて調子を合わせてから、箏の琴を差し出すので、若紫は、もう拗ねてなどいられなくなって、元気よく弾き始めた。小さな身体をいっぱいに伸ばして弦を押さえる綺麗な左手に、ゲンジの君は見惚れながらも笛を吹き合わせて教えたのだった。若紫は飲み込みが早く、難しい拍子も一発で覚えた。何をやらせても才能がありそうな少女なので、ゲンジの君は、「やっぱり思ったとおりの人だった」と実感するのだった。「ホソログセリ」という、おかしな名前の曲を、ゲンジの君が節回し面白く笛で吹くと、合奏が始まる。若紫は、未熟ながらも拍子を間違えることなく、才能の片鱗を見せた。

灯りをともして二人で絵を見ていると、出かける時間になったので、家来たちが咳払いをして、「雨が降りそうです」と言う。若紫は、いつものように寂しくなって、しょんぼりするのだった。絵を見る気にもなれずに臥しているのだから、ゲンジの君は可愛く思えて仕方ない。ふさふさとこぼれる髪の毛を撫で上げながら、

「私がいない時は寂しいのかな」

と聞くと、若紫は頷いた。

「私だって、あなたと一日でも会わないのは苦しいんだよ。だけど、あなたはまだ小さいから心配していないのです。私が行かないと意地悪な恨み言をする人がいますから、怒り出したら大変だ。しばらくはご機嫌伺いしなければならないのです。あなたが大人になったら、もうどこへも行きません。こうして人から恨まれないようにしているのは、長生きして、あなたといつまでも幸せに暮らしたいからですよ」

などとゲンジの君が必死に説得していると、さすがに若紫も恥ずかしくなり、返事ができなくなるのだった。そして、ゲンジの君の膝に寄り添って不貞寝をしてしまう。ゲンジの君は、いじらしくなり、

「今夜の外出はやめた」

と家来たちに言ったので、皆、立ち上がり食事などを西の対に運んで来る。ゲンジの君が、、

「出かけないことにしたよ」

と若紫を揺り起こすので、本人は嬉しくなって目を覚ます。二人は一緒に食事をするのだが、若紫は食欲がない。

「おやすみなさい」

と心配そうにしているので、ゲンジの君は、「こんなに可愛らしい人を見捨てては、あの世への旅でさえ出発に躊躇するだろう」と思うのだった。

こうやって引き止められることが多かったので、自然と噂になって左大臣家に密告する者も現れた。

「どこの馬の骨かしら。本当に失礼な人よね。ゲンジの君の縁談なんて聞いたことがないけれど、そんなにまとわりついて甘ったれる女なんて、たかが知れているわ。どうせ、後宮でつまみ食いした女に夢中になって、目立たないように囲っているのでしょう。ひどく子供っぽい女だって言うじゃないですか」

などと、アオイ付きの女官たちにも噂は広まっていた。後宮にも「そういう人がいるそうです」と告げ口があった。

「忍びないね。左大臣が心配しているぞ。まだ小さいお前の後見人になってくれたのだし、今まで世話を受けた恩を忘れたのか。そんなことがわからない年齢でもないだろう。なぜ、そんな非道い仕打ちをするのだ」

とミカドはゲンジの君に説教する。ゲンジの君は、ただ恐縮するばかりで何も答えられない。ミカドは「夫婦仲がうまくいっていないようだな」と可哀想に思っているのだった。

「だけど、私は、お前の浮ついた話など聞いたことがない。後宮にいる女官たちや、都の女たちと泥沼になっているとも思えないし、噂も聞いていない。それなのに、どうして隠し事までして人に恨まれるようなことをするのだ」

とミカドは心配なのである。

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二 ゲンジ、里に下がった藤壺を訪ねる。その後の若紫

(現代語訳)
 そんな折、藤壺宮は里に下がった。当然ながら、ゲンジの君は、「何とかして密会できないか」と機会を窺い、夜な夜な徘徊していたので、左大臣家では騒乱が発生するのだった。おまけに、あの若紫を引き取ってから、誰かが「二条院では、女を囲っているようです」と余計な告げ口までしたので、アオイは、ますますご立腹である。

 ゲンジの君は、「事の顛末を知らないアオイが怒るのも無理はない。アオイが普通の女のように愚痴を言ってくれたら、私も隠し事はしないよ。怒りを鎮めるために言い訳だってする。アオイが勝手に深読みをして、私を色魔扱いしているから始末に負えないのだ。全て私が悪いと言っても、最初に結ばれた夫婦なのだから、アオイを大切に思っている。何の不満もないし、魅力のない女だとも思っていない。それをアオイが気づいてくれないだけなのだ。いつか、アオイもわかってくれるだろう。そして、優しくしてくれるはずだ」などと都合良く考えている。それでも、アオイの潔癖な性格を知っているから、浮気の心配はないのだった。やはり、アオイは特別な女なのである。

 若紫が二条院の生活に慣れてくると、性格の良さや見た目の美しさに磨きがかかった。何も疑わず、ゲンジの君にじゃれついている。ゲンジの君は、「しばらく二条院の者にも、正体を明かさずにいよう」と、いまだに若紫を離れの一室に幽閉しているのだった。部屋を綺麗に飾って、自分も絶えず出入りしている。若紫の教育に余念がないようだ。手本を書いて習字をさせたり、まるで別居していた娘を引き取った父親めいていた。執事や雑夫をはじめ、しかるべき世話人がそれぞれいて、生活に不便もない。コレミツ以外の男たちは、「いったい何者なのだろう」と首をひねっている。若紫の父親の兵部卿宮でさえ知らないのだった。

 若紫は、今でも昔のことを思い出して、尼君恋しさに泣くことがあった。ゲンジの君が側にいれば忘れているのだが、彼はあまり二条院に泊まらなかった。この男は、夜這う場所が多すぎて、日が暮れると忙しなく出かけてしまうのだった。若紫が寂しがると、ゲンジの君は胸が痛んだ。二三日の後宮での勤めのあと、そのまま左大臣家に向かってしまうと、若紫は虚脱状態に陥る。ゲンジの君は、父子家庭を持ったような心地で忍びなく、夜這いにも気合いが入らなくなるのだった。北山の僧都は、そんな話を聞いて胡散臭いとは思うのだが、やはり嬉しい。ゲンジの君は、あの尼君の法事の際にも、僧都に相当な布施を届けた。

 ゲンジの君は、藤壺の里である三条宮殿に様子を探りに行った。王命婦、中納言の君、中務といった藤壺付きの女官が取り次ぐ。ゲンジの君は、「ずいぶんとよそよそしいな」と、不機嫌なのだが、じっと堪えて無意味なおしゃべりを続けていた。そこへ兵部卿宮がやって来る。ゲンジの君がいると聞いて、面会せざるを得なくなったのだ。

 兵部卿宮は清楚な容姿で、色っぽくしなやかな男だった。ゲンジの君は、「この貴公子を女になって見たかった」と密かに思う。藤壺宮の兄であり、若紫の父でもある兵部卿宮に親しみを感じたので、ゲンジの君は真摯な気持ちで語らうことができた。兵部卿宮も、今夜は、いつにも増して心を開くゲンジの君を、「素晴らしい男だ」と見つめながら、まさか娘の婿だとは思いもよらず、「この君を女になって見つめたい」と変態めいているのだった。

 日が暮れて、兵部卿宮が御簾の向こうへ入っていくので、ゲンジの君は羨ましくて仕方ない。幼少期はミカドが連れて歩いたので、藤壺宮の隣で、人づてでなくても話ができたのだが、今となっては、この仕打ちである。いくらゲンジの君がやる瀬なく思っても、どうにもならないのだった。

 「足繁く伺いたいものですが、何も用事がないと自然と足が遠のきます。何か用事を言いつけて下されば、私も浮かばれますから」

などと、ゲンジの君は畏まって帰る。王命婦も、密会させる手段がなかった。藤壺宮に至っては、日に日に後悔が深まって苦しく、ゲンジの君とは関わりたくないようなので、王命婦は、口にするのも恥ずかしく、痛々しくも思ったので、放っておくことにしたのだった。ただ、お互いに、「悲しい契りだった」と思い悩むばかりである。

 若紫の乳母である少納言は、「図らずも面白いことになったわ。これも亡くなった尼君が姫様を心配して、仏様に念じてくれた御利益なのね」と思うのだが、「ゲンジの君には、左大臣家に本妻がいて、他にもたくさんの愛人がいるようだから、姫様が大人になってから、刃物沙汰にならなければいいのだけど」と心配もするのだった。それでも、この尋常でないゲンジの君の寵愛っぷりを考えると不安も吹き飛んだ。

 母方の服喪は三ヶ月である。十二月の終わりには、若紫の喪服姿もおしまいだ。けれども母親がなく、祖母の手で育てられた若紫なので、まばゆい色の着物はやめて、紅、紫、山吹色だけで織られた無地の平服を着ている。それが垢抜けていて趣味も良い。ゲンジの君は、後宮での拝賀に向かうついでに、若紫の部屋を覗いてみる。

 「今日から年も改まって、大人になりましたか」

と、この男は満面の笑みを浮かべて輝いている。若紫は、もう人形を並べて遊ぶのに夢中なのだった。三尺一対の棚に、道具をたくさん飾り、その他にもゲンジの君が作って与えた小さな家を、部屋いっぱいに並べて遊んでいる。

 「鬼やらいをするって、イヌキがお家を壊しちゃったから、やり直しているの」

と若紫は一大事のようだ。

 「それは乱暴者の仕業だね。すぐに改築させましょう。今日の涙は禁止ですよ」

と言って、ゲンジの君は二条院を後にする。美貌を振りまく、この男を、女官たちが廊下の近くで見送る。若紫も立ち上がって見送ってから、ゲンジの君と名づけた人形を綺麗に着せ替えて、後宮に参内させる遊びに興じるのだった。

 「今年からはもう少し大人になって下さいね。十歳を過ぎたら人形遊びをしてはいけないのですよ。もう夫を持っているお姫様なのだから、大人の女らしくしてください。髪の毛を梳かすのも嫌がるのですから」

なとど少納言は溜息をつく。人形遊びに夢中になっているのを反省させるために言ったのだが、若紫の知ったことではなく、「わたしには夫がいるんだ。少納言たちの夫は、みんな変な顔の人ばかり。わたしの夫は、若くて美しいゲンジの君なのね」と、ようやく、この少女にも事情が飲み込めてきたようなのだった。一つ歳を取って大人になった功徳なのだろうか。この御殿に仕える人々は、このような幼い若紫の気配を、不審に感じ取っていたが、まさか添い寝相手には相応しくない少女が匿われているなど、夢にも思っていなかった。

 ゲンジの君は後宮を後にして、左大臣家に向かった。もちろんアオイはいつものように、高慢な態度で冷ややかに睨むだけなので、ゲンジの君は萎縮しつつも、

 「今年からでも遅くありません。あなたが思い直して、優しくしてくれたら、どれだけ嬉しいでしょうか」

などと言うのだが、アオイは聞く耳を持たない。得体の知れない女を二条院に囲っていると聞いてからは、「その女が本妻になるのだろう」と、それが癪に障り、馬鹿にされたように思って、話をする気になれないのだった。アオイは自尊心が許さず、知らんぷりをしている。しかし、ゲンジの君の悪ふざけに、意地を張り通せなくなってアオイが反応すると、とびきりの美女なのだった。

 ゲンジの君より四歳年上のアオイは引け目を感じていたが、実際には大人の女の魅力があった。「この人は、非の打ち所のない女だ。私が女にだらしがないから、こうやって怒っているのだ」とゲンジの君も反省せざるを得ない。同じ大臣と言っても、今をときめく左大臣と、宮家の母を持ち、アオイは一人娘として純粋培養されたのだった。誰よりも思い上がりが強く、少しの無礼も許してくれない。ゲンジの君が、「そこまで偉そうにしなくても」とたしなめると、二人の間の溝が、よりいっそう深くなった。左大臣も、ゲンジの君の浮気な性格を「心ない」と思っているのだが、本人を目の当たりにすると、憎らしさも忘れて、あれこれと面倒をみてしまうのだった。

 翌朝の早く、ゲンジの君が出かけるというので、左大臣は顔を出す。左大臣が自ら、宝石の帯などを手渡すのだった。ゲンジの君の着物の後ろを整えたり、靴を取って渡しかねない猫可愛がりぶりなのだから、何という愛情の深さなのだろう。

 「こんな素晴らしい帯は、詩の節会のときにでも使いましょう」

とゲンジの君が言うのだが、

 「そのときにはもっと良い品を。これはただ珍しいだけの物ですから」

と左大臣は、無理矢理ゲンジの君の帯を結んでしまう。ゲンジの君を婿として、あらゆる面倒をみるのが、左大臣の生きがいなのだった。左大臣は、「気まぐれな訪問でも、こんな美男子を婿として出入りさせているのだから、これ以上嬉しいことはない」と思っているようだ。

 

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一 紅葉の賀

(現代語訳)
 朱雀院への行幸は十月十日頃なのだった。ありふれた行事とは違う、世紀の祭典を鑑賞できないので、女御たちは後宮で不満を募らせている。ミカドは、藤壺宮と一緒に見物できず悩ましいので、後宮で通し稽古をさせることにしたのだった。

 ゲンジの中将は、青海波を舞う。その相方は、左大臣家の頭中将である。頭中将も、見た目や性格の良さを兼ね揃えた美男子であるが、ゲンジの君の近くでは、桜の隣に生える山奥の大木も同然だった。

 夕焼け前の鮮やかな日差しの中で、楽曲が響きはじめた。絶頂に達するころ、同じように舞う二人の貴公子であるが、ゲンジの君は、足捌きや目つきまでが、別次元の美しさなのである。音楽が静まり、ゲンジの君が歌い出すと、誰もが、「彼岸を彷徨う鳥の声ではないか」と聴き惑うほどだった。ゲンジの君の舞は、格調高い中にも甘さがあり、ミカドは思わず涙を浮かべる。高級役人や、親王たちも、もれなく泣いた。歌が終わり、ゲンジの君が袖を整えるのを合図に、再び賑やかな楽曲がはじまる。ゲンジの君の顔が西日に染まり、いつにも増して光り輝いている。皇太子の母親の弘徽殿女御は、異様なまでの、この美貌が気に入らなくて、

 「天空の神さえ惑わされそうな姿だわ。くわばら、くわばら」

などと憎まれ口を叩いているから、若い女官たちは眉をひそめて聞いている。

 藤壺宮は、「私たちが不純な関係でなければ、何よりも美しい舞として見たでしょう」と寂しくなり、まるで夢心地だ。今夜の藤壺宮は、ミカドの寝物語を聞かなくてはならないのだった。

 「今夜の通し稽古は、全て青海波にさらわれてしまったようだね。あなたの感想を聞かせて欲しい」

とミカドが質問するので、藤壺の宮は返答に困り、「ええ、素晴らしい舞でした」と答えるだけで、精一杯だった。

 「ゲンジの君の相手の舞も悪くなかった。舞の作法、手捌きは、さすが良家の息子だ。有名な舞の達人などは、上手に舞うだけで、さりげない色気は表現できないからね。通し稽古で堪能してしまったら、本番が紅葉の陰に散りそうで勿体ない気もしたけれど、どうしても、あなたに見せたくて準備したのだよ」

とミカドは語った。

 翌朝、ゲンジの君から藤壺宮に手紙が届く。

 「いかがでしたか。途方もなく乱れた気持ちのまま舞いました。

 袖を振り乱れる気持ちで舞う我の心の奥も君に届くか

 行儀が悪いとは知りながら」

と書いてある。あの鮮やかに魅了させたゲンジの君の舞を思い出して、素通りできなかったのだろうか、藤壺宮は、返事を書いた。

 「袖を振る異国の舞は遠すぎてまぶしい光そっと見つめる

 ただの観客として」

とあるので、ゲンジの君は、「返事があるとは珍しい。藤壺宮は舞の分野も熟知していて、異国の朝廷を折り込んだのだな。もう皇后の風格が備わっているのだろう」と思い、笑みがこぼれる。それを懐に忍ばせる経文のように広げて見入ってしまうのだった。

 御幸には、皇族たちをはじめ、ありとあらゆる人材が引っ張り出された。もちろん皇太子も参加する。いつもの楽団の舟が池を旋回し、唐の国や高麗の国の楽曲で忙しく舞うのだった。弦楽器、打楽器が空気を振動させている。

 通し稽古で光り輝いていたゲンジの君が、異常なまでに美しかったのをミカドは不吉に思って、各地で祈祷させていた。それを聞いた人々も親心を察して心配するのだが、皇太子の母親だけは、「大袈裟な」と馬鹿にしている。

 舞を囲む演奏者として優秀だと評判があれば、殿上役人でも、地下役人でも、構わず掻き集められていた。参議の高官が二人、左エ門ノカミと右エ門ノカミが、それぞれ、左の唐楽、右の高麗楽に別れて指揮を執る。貴公子たちは皆、やんごとない師匠の弟子になり、屋敷に籠もって練習していたのだった。

 紅葉の大木の木陰で、四十人の楽団が音を響かせている。最高の音楽に誘われて松風が吹き下ろすと、それが高嶺おろしめいた。極彩色に飛び交う木の葉の中から、青海波を舞うゲンジの君と頭中将が浮かび上がる光景は、神々しくさえ見えた。ゲンジの君の顔を覆う冠に挿した紅葉が、みんな散ってしまう。浮かび上がった顔の色気に息を呑んだ左大臣が、目の前にある菊を折って差し替えた。日が暮れる前に少し時雨れて、空も感動しているようなのだった。冠に挿した菊の色が絢爛と、ゲンジの君の美貌と交ざり合う。本番のゲンジの君は、通し稽古にも増して渾身の舞を披露してみせたのだった。入り際に引き返して舞う姿を見る人々は、鳥肌を立てて彼岸を想うしかない。木陰や岩陰に隠れて見ている教養のない身分の人でも、感情がある者ならば自動で涙が流れる仕組みになっていた。

 承香殿の女御が儲けた四番目の皇子は、まだ童姿だ。この子が秋風の踊りを舞ったのが、青海波の次に良かった。今回の行幸では、この二つの舞が別格だったので、他の出し物は、観客を白けさせただけではないだろうか。

 その夜、ゲンジの中将は従三位から、正三位に出世する。頭中将も、正四位の下に昇進した。他の役人たちも、身分相応の昇級に喜んだが、これはゲンジの君の出世に便乗したのだった。見る人を驚かせ、幸福までもたらす、この男の前世は、いったい何だったのだろうか。

 

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紅葉賀の帖 (系図と登場人物の年齢)

紅葉賀 関係図

 

|MOMIDINOGA

主人公、ゲンジ十八歳の秋から十九歳の秋までである。

 藤壺 …… 二十三歳から二十四歳
 葵上 …… 二十二歳から二十三歳
 若紫 …… 十歳から十一歳

 
これまでのあらすじ

 主人公、光ゲンジは皇帝の息子である。彼の母親は桐壺更衣と呼ばれた、なかなかの美人だった。あまりにも帝が溺愛したため、周りの妾たちから反感を買った桐壺更衣は、いじめの心労から夭逝してしまう。幼くして私生児となった光ゲンジは、信じられないほどの美貌と才能を武器に、後宮を騒がせる貴公子に成長するのだった。帝は光ゲンジを皇帝の後釜に据えたかったのだが、占い師の助言により、源氏姓を与え臣籍に下した。

 桐壺更衣の死後、帝がふさぎ込むので後宮も沈んでいた。しかし藤壺女御が後宮に入内すると、再び華やぐ。何と藤壺女御は桐壺更衣に瓜二つなのだった。幼くして母親を亡くした光ゲンジは、次第に藤壺更衣に惹かれ、挙げ句の果てには理想の女性像までに祭り上げてしまう。世間は、この二人を「光る君、輝く宮」と呼んだ。

 光ゲンジは元服後、左大臣の娘であるアオイを正室に迎える。これは、私生児同然だった彼に、左大臣家という強力な後見人ができたことを意味する。左大臣の息子を皇子の嫁にと考えていた右大臣家の人々(特に弘徽殿女御)は、光ゲンジを忌々しく思うのだった。

 物忌の雨の夜、光ゲンジの部屋に貴公子たちが集まり、恋愛談義に花が咲く。話題は中流階級の姫君の話で盛り上がった。中でも、光ゲンジは、アオイの兄である頭中将が話した、内気な常夏の女(夕顔)の話に興味を持つ。これが「雨夜の品定め」である。

 中流階級の女に興味を持った光るゲンジは、地方官僚の後妻である空蝉と関係を持ってしまうのだった。空蝉は光ゲンジとの関係を後悔し、恋の泥沼を恐れて拒み続ける。光ゲンジは空蝉の弟をそそのかし、再び空蝉を襲うのだが、空蝉は夏衣を一枚残して逃げたのだった。空蝉は自らの境遇を情けなく思い、和歌をなぞって運命を重ねた。

 空蝉に逃げられて傷心の、光ゲンジは、六条の貴婦人のもとへと密通するついでに、病気である乳母の、コレミツの母を見舞う。コレミツは光ゲンジの家来でもある。光ゲンジは、コレミツの家の隣に白い花の咲く家を発見し、この家の女主人に興味を持った。女の童が扇の上に白い花を乗せて差し出すと、そこには意味深な歌が書いてある。お互いの正体を隠したまま密通がはじまった。満月の夜、光ゲンジは女を誘って、ある荒ら屋に連れ込む。その夜、光ゲンジは可憐な女に心を奪われるのだが、なんと深夜に悪霊が現れ、女を呪い殺してしまうのだった。コレミツの協力により女の密葬を済ませると、光ゲンジも病に倒れる。病気の回復後、女に付き添った女官の右近から亡き人の正体を聞くと、頭中将の愛人、夕顔なのだった。

 光ゲンジは、わらわ病の治療のため、北山の聖を訪ねる。そこで、明石に住む入道とその秘蔵娘の話を聞くのだった。光ゲンジは入道の堅物ぶりに興味を持ち、その姫君のことが気になった。

 病快復の祈祷のついでに、光ゲンジが北山の僧坊を覗いてみると、品の良い尼君と、なかなかの女官、そして可愛い少女を発見する。その少女が、憧れの人、藤壺女御にそっくりなのだった。事情を聞けば、少女は藤壺女御の姪という血筋である。光ゲンジはこの少女を手に入れて、自分の思い通りに教育してみたいと思った。

 或日、藤壺女御が療養のため実家に下がった。その隙に、光ゲンジは藤壺女御と二度目の関係を持ってしまうのだった。なんとその後、藤壺女御は光ゲンジの子供を身籠もってしまう。藤壺女御は自分の運命を呪い、帝を裏切ったことに心を痛めた。

 北山の尼君が、幼い姫君を残して病死する。光ゲンジは、この少女を引き取りたいと申し出るのだが、まだ結婚できる年齢ではなく、似つかわしくないと悉く断られてしまう。少女は父の兵部卿宮のもとへ引き取られることになった。

 父宮が、少女を引き取る日の朝、光ゲンジは少女を強引に誘拐する。そして二条院に囲い、教育を開始するのだった。この姫君は、藤壺女御と縁のある血筋なので、若紫と呼ばれた。

 光ゲンジは、夕顔との儚い恋を忘れられず、タイフの命婦という女官の手引きで、没落した故常陸宮の姫君に興味を持つ。しかしこの姫君は黙ってばかりいた。不審に思った光ゲンジは、半ば強引に契りを交わしてしまう。

 そして、ある雪の朝、光ゲンジは、この姫君の顔を見て愕然とする。なんと、象のように伸びた鼻の先が赤いのである。それが紅花のようであった。後にこの姫君は、末摘花の君と呼ばれた。そして、末摘花を不憫に思った光ゲンジは、生活の援助をする羽目になるのだった。

六 ゲンジ、若紫と絵を描く

(現代語訳)
 ゲンジの君が二条院に戻ると、若紫がいる。まだ、あどけないのだが、得も言われぬ美しさなのだった。「同じ紅でも、こんな愛しい赤もあるのだな」とゲンジの君が見つめる着物は、無地の桜色である。若紫は柔らかく着こなして澄まし顔なのだが、これがまた愛くるい。昔気質の祖母君の影響で、お歯黒もまだである。化粧をしてやると、目元が鮮やかになり、凛とした美しさが増した。「どうして、この大切な人の近くにいてあげないで、私は馬鹿馬鹿しい女難を繰り返しているのだろうか。我ながら情けない」とゲンジの君は反省もするのだった。そして、いつものように若紫と一緒に人形遊びなどをする。

 若紫は絵を描いて色を塗っている。たくさんの絵を綺麗に描いたのだった。隣でゲンジの君が、絵を書き加える。長髪の女を描いて鼻の頭を赤く塗りたくると、絵だとしても嫌な気分がした。鏡にはゲンジの君の姿が、とても綺麗に映っている。ゲンジの君は、それを見て自分の鼻に紅い絵の具を塗りつけるのだった。こんなに綺麗な顔でさえ、変な色が塗られていると間抜け顔になってしまう。若紫が、それを見て笑う。

 「私の鼻がこんなになってしまったら、どうしましょうか」

とゲンジの君が言うと、若紫は、

 「いやよ。いや」

と頭を振って、「赤いまま元に戻らなかったら困る」と心配してしまう。ゲンジの君は、鼻をぬぐう真似をして、

 「あれ、色が落ちない。馬鹿ないたずらをしてしまった。ミカドに叱られてしまう」

などと真顔で言った。まんまと騙された若紫は、見いていられずに目の前に寄ってきてゲンジの君の鼻を拭ってあげるのだった。

 「平仲の物語みたいに、男の顔に墨を塗ってはいけませんよ。赤い方が、まだ救いようがあるからね」

とふたりで戯れ合っている姿は、本当に仲の良い夫婦にしか見えないのである。のどかに晴れ渡っているが、ゆっくりと空が霞み出した。森の梢は、花が待ち遠しく、梅の蕾は、はち切れそうである。車寄せに植えてある紅梅は、真っ先に花を咲かせる枝なので、赤くなりはじめた頃なのだった。

 「くれないの花の想い出苦くとも梅の紅なつかしい春

 まったくだ」

とゲンジの君は、投げやりのように一首詠んだ。

 こういう女たちの運命が、これから、どうなることやら。

 

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五 末摘花、ゲンジに着物を贈る

(現代語訳)
 年も暮れゆく。ゲンジの君が後宮の宿直所に控えていると、タイフの命婦がやってきた。髪を梳かせたりするには色っぽい関係でなく、それでいて冗談を言えるような女官が良かったので、このタイフの命婦などは、もってこいなのである。タイフの命婦も話があれば呼び出しがなくても、ゲンジの君に会いに桐壺まで来るのだった。

 「ちょっと妙なことがあるのですが、お知らせしなくては駄目ですよね。困りましたわ」

とタイフの命婦は笑ったまま凍りついている。

 「何なのだい。私に隠し事をしても仕方ないだろう」

とゲンジの君が尋問するので、

 「隠し事なんてしません。あたしの心配事なら、ご迷惑でも最初に相談に乗ってもらいますわ。でも、今回は悩んでしまうの」

ともったいぶるのである。ゲンジの君は、「いつもの思わせぶりか」とじれったい。タイフの命婦は、「姫宮から、お手紙がありました」と何かを取り出した。

 「だったら、何も隠す必要ないじゃないか」

とゲンジの君が受け取る。タイフの命婦に冷や汗が流れる。それは、香が深く焚いてある厚い和紙なのだった。手紙に見えなくもない。歌もある。

 からごろも君の心が冷たくて私の袖はびしょ濡れになる

と意味不明な歌なので、ゲンジの君は首をかしげた。すると、タイフの命婦が、布で包まれている、ずっしりとした古臭い衣装箱を置いて、ゲンジの君の前に押し出した。

 「こんな物、恥ずかしくてお見せできません。お正月の礼服にと、あたしに言いつけたんです。まさか、返品するわけにもいかなくて。あたしの考えで保管しておくのも失礼でしょうし。とにかく見て頂いてから処分します」

とタイフの命婦が戸惑うので、ゲンジの君は、

 「君が預かっていたら困るじゃないか。私には濡れた袖を乾かしてくれる人もいないのだから、有り難い贈り物だよ」

と言いつつも無言になってしまうのだった。「なんという、お粗末な歌なのだ。これがあの姫君の渾身の作なのか。いつもは侍従が添削しているのだな。侍従の他に先生がいないのだろう」と呆れ顔だ。それでも、「あの姫君が、悶絶しながら捻り出しているのが目に浮かぶ」と想像して、「まったく畏れ多い歌というのは、こんな歌だね」と笑ってしまうのだった。タイフの命婦は赤面するばかり。

 おぞましいほど濃すぎる紅梅色で、時代遅れの光沢のない直衣なのである。裏地も同じように濃く染めてあり、月並みな品物であるのは袖や裾の仕立てを見ればわかるのだった。ゲンジの君は興ざめして、手紙の端に落書きをした。それを、タイフの命婦が横から覗く。

 「気になった色でないのに紅色のすえつむ花を摘んでしまった

 濃い色の花だとは思ったが」

とあるのだった。タイフの命婦は、「どうして紅花を軽蔑するのかしら」と訝しがる。そして月影で見た姫君の鼻を思い出して、「非道い」と思いながらも、可笑しくなるのだった。

 「一度だけ紅く染めた衣でも笑いものにはなさらぬように

 可哀想ですから」

と得意そうに独り言をしているタイフの命婦の歌も駄作だったが、「あの姫君に、せめてこれぐらいの知恵があったならば」とゲンジの君は情けなく思うのだった。それでも、「姫君の身分を思えば、名を汚すような噂が立つのは哀れだな」と心遣いもした。そろそろ、人々がゲンジの君の御前にやってくるので、

 「これは隠しておこう。こんなことは、まともな人にはできない芸当だからね」

とゲンジの君は苦笑いしている。タイフの命婦は、「どうして、こんな物を見せちゃったのだろう。あたしまで徒花になったみたいだわ」と恥ずかしくて、そっと逃げるのだった。

 翌日、タイフの命婦が後宮の詰め所にいると、ゲンジの君が顔を出す。

 「ほら、昨日の返事を書いた。やっぱり気になって放っておけなかったよ」

と手紙を投げ入れるのだった。当然ながら周りの女官たちは、「何かしら」と手紙を見たがる。

 「ただ梅が色づくように、三笠の山の少女を捨てて」

などとゲンジの君が鼻唄交じりに去っていくので、タイフの命婦は、やっぱり可笑しい。何も知らない女官たちは、「なんで一人で笑っているのかしら」と怪しむのだった。

 「なんでもないわよ。こんなに寒くて霜が立つ朝だから、みんなの鼻を梅の花と間違ったのかもね。面白い歌だわ」

とタイフの命婦が誤魔化すので、

 「失礼しちゃうわ。ここには鼻の染まった人なんていなくてよ。赤鼻の、左近の命婦や、肥後のウネメもいないじゃない」

と意味不明なことを言って騒ぎあった。

 タイフの命婦が、ゲンジの君の返事を持って行くと、常陸宮邸では、女官たちが集まって絶賛するのだった。

 逢わぬよう隔てるための衣なら重ねて着ろと君は言うのか

と白い紙に気取らずに書いてあるのが、かえって引き立っている。歳末の日没、タイフの命婦は、ゲンジの君からの贈り物の衣装を、あの箱に入れて持参した。ゲンジの君が、人から貰った衣服一揃え、葡萄色に染めた上着、山吹色の上着など、色々と詰め込んである。「このあいだ贈った着物の色が、お気に召さなかったのかしら」と思う人もいるのだが、「あの着物だって綺麗な紅色だから、負けてはいませんね」と年寄りは勝手なことを言う。

 「歌だって、姫様の歌は筋が通った秀歌でしたわ。この返歌は、技巧に頼りすぎね」

などと身の程知らずなのだった。末摘花も会心の歌だと自画自賛だったので、歌を複写しておいたのだ。

 元旦の儀式が終わると、今年は男踏歌という行事があるのだった。そんなわけで、街中は歌の稽古で賑わっている。ゲンジの君も慌ただしいのだが、「常陸宮邸は寂しくしているだろう」と気になった。白馬の節句が閉宴するとミカドの御前から下がり、桐壺に泊まる振りをして夜更けの出発を待つのだった。

 常陸宮邸は、以前と比べると華やいでいて普通の家のようにも見えた。末摘花も少しは愛嬌が出てきたようなのだ。「今年からは、見違える女になってくれたらいいのだが」とゲンジの君は思いをめぐらす。そして、日の出の時間までゆっくりしてから帰ることにするのだった。東側の引き戸を開けると、向こうへ渡す廊下の屋根が倒壊している。降り注ぐ日差しが雪を反射させて、奥の方まですっかり見渡せるのだった。ゲンジの君が直衣を着るのを見つめながら、横たえた末摘花の、頭の形や溢れんばかりの髪の毛が、ずいぶん可憐なのである。ゲンジの君は、「この人も、これから化けてくれたらいいのだが」と思って窓を上げる。けれど、末摘花を余すことなく見て懲りているので、全開にはしない。肘掛けを窓に挟んで、ゲンジの君は髪の乱れを整えている。すると、女官たちが、怪しげな古い鏡台や、舶来の櫛入れ、髪上げの道具などを持ってくる。「男物の道具があるのは趣味が良いね」とゲンジの君は感心した。

 末摘花の出で立ちが普通に見えるのは、年末に贈った箱の中身を、そのまま着ているからなのである。ゲンジの君はそうとも知らず、珍しい模様の入った着物を見て、「どこかで見たことがあるな」と思うのだった。

 「今年からは、少しでも口を開いて下さい。鶯のさえずりも待ち遠しいですが、心を入れ替えたあなたの声を聞いてみたいものです」

とゲンジの君が諭すので、末摘花は、

 「さえずる春は」

と、ようやく口を開いて、声を震わせる。

 「その調子です。成長しましたね」

とゲンジの君は笑いながら、

 「夢を見ているようだね」

と、ご機嫌で帰るのだった。末摘花は、壁に寄り添って見送っている。口元を覆っている横顔を見ると、やっぱり袖の下には紅花が色鮮やかに咲いていた。ゲンジの君は「あの容貌だけは、どうにもならないな」と思う。

 

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四 ゲンジ、雪の朝に末摘花の鼻に絶句する

(現代語訳)
 朱雀院の行幸が近づくと、ミカドの御前で試演などがはじまって騒がしくなる。そんな頃、タイフの命婦が後宮に戻った。

 「あの人はどうしているかい」

とゲンジの君が詰め寄る。気の毒だとは思っているらしい。タイフの命婦は状況を報告し、「こんなに見放されては、お仕えする女官たちまで可哀想になってきます」と涙を浮かべている。「タイフの命婦は純愛のままで終わらせようとしたのに、私がぶち壊してしまった。この人は、私を非道い男だと思っているだろう」とゲンジの君は、バツが悪い。また、「あの姫君は、何も言わずに萎れているのだろう」と思えば哀れになった。「今は忙しいのだ。仕方ない」と溜息をついて、

 「世の中の仕組みがわかっていないようだから、少し懲らしめてやろうと思ってね」

と微笑むのだった。その顔がはち切れんばかりに美しいので、タイフの命婦も釣られて笑ってしまう。そして、「この若さでは、たくさんの女から呪われても仕方ないわ。女心も知らないで、やりたい放題なのも当然ね」と納得するのだった。

 この御幸の準備が落ち着くと、ゲンジの君は何度か常陸宮邸に通った。しかし、若紫を二条院に拉致してからは、この少女に執心だったので、六条付近の人さえご無沙汰なのである。そういうわけで、荒ら屋に至っては、いつも可哀想だと思ってみたところで、だんだん面倒になってしまうのだった。「あの異常なまでに恥ずかしがる姫君の素顔を見てみたい」という気持ちも、今は自然と薄れて時間だけが過ぎた。とはいえ、「じっくり見てみれば可愛い女なのかも知れない。いつもは暗闇の中、手探りで接しているから、しっくりこないのだろう。やはり顔を拝んでおくか」と思い改めたのだった。対峙して見つめ合うのも変なので、いつものように覗くことにする。女官たちが油断している夕暮れに、ひっそりと侵入し、窓の隙間から透視してみる。もちろん姫君は見つからない。仕切り布はずたずたに破れていたが、昔から同じ場所に鎮座しているようで、奥を遮断してある。かろうじて四、五人の女官だけが確認できたのだった。お膳があり、舶来物の曰くありげな青磁の食器が乗っているが、古ぼけていていて、あられもない。女官たちは、奥の部屋から下がって味気ない食事をしているようだ。屋敷の隅の一室で凍えている。情けないぐらいに垢まみれな着物を身につけ、汚れた布を巻いた腰のあたりが変梃である。そして、古式ゆかしく髪の毛を櫛で押さえつけた額が、舞姫の訓練所や神鏡の御鎮所で伝統継承をしている専門家のようなのだ。ゲンジの君は笑うしかない。こんな天然記念物が、宮家の姫君に侍っていることが信じられないのだった。

 「ああ、今年は寒いわ。長生きすると、碌なことがない」

と泣いている女官がいた。

 「常陸宮さまが生きていた頃に不平を言った、この口が憎い。こんなに貧困極まっても、死ねないなんて」

と飛び上がりそうに震えるている女官もいた。「あれこれと嘆くのを盗み聞くのも悪趣味だ」と思って、ゲンジの君は後ずさりする。そして、今しがた来たような素振りで跳ね上げ窓を叩くのだった。女官たちは「さあ」と言って、火を灯し、窓を上げて、ゲンジの君を迎入れる。

 姫君のメノトの娘である、あの侍従は斎院にも仕える若い女官なので、最近はここにいないのだった。残ったのは、貧乏くさい田舎者ばかりなので、ゲンジの君は落ち着かない。女官たちが「寒い」と愚痴った雪が、ますます強く降る。空は荒れ模様で突風が吹いて灯火を消してしまうのだが、誰も点灯しようとしない。夕顔が化け物に襲われた夜のことが、ゲンジの君の記憶に蘇る。あの時と同じように荒れた場所だが、ここは狭くて、少しは人の気配があるのが救いなのだった。それでも不気味な夜には変わりない。悪い予感がして寝付けそうにないのだった。こんな張り詰めた怪奇な夜には、胸騒ぎに心を寄せても良さそうなものを、姫君はただ、愛想なく恥じらっている。ゲンジの君は不満である。

 やっと夜が明ようとしている。ゲンジの君は自ら窓を上げて、庭園に積もる雪を眺めた。誰かの足跡もなく、遙か彼方まで荒廃している佇まいだ。恐ろしく殺風景なので、ゲンジの君は、哀れに思って置き去りにはできない。

 「空が鮮やかですよ。見てご覧なさい。そうやって警戒する気持ちが、私の手に余るのです」

とゲンジの君が責め立てた。空は薄暗いが、この男には雪の光が反射している。ゲンジの君の若やいだ美貌に、老女官たちはうっとりするのだった。

 「早くお出まし下さい。恥ずかしがるのは良くありません」

 「女は素直でなくては」

などと女官たちが言いくるめると、この姫君は人の言うことに逆らえない性格なので、せっせと身支度して近くに来るのだった。ゲンジの君は見ない素振りで外を見つめているのだが、盗み見ずにはいられない。「どうだろう。心を許し合ってから、少しでも美しいと感じる人ならば」と思いを巡らせるのだが、それは無理な話なのだった。最初に、座高が高く胴長に見えたので、「やはり悪い予感が的中した」と絶句する。次に、「なんだこれは」と目が釘付けになったのが鼻である。普賢菩薩が座っていた象という乗り物にそっくりだ。奇妙に伸びた高い鼻の尖端が、少し折れ曲がって赤く染まっている。どうしても見ずにはいられないほど変なのであった。顔色は雪も恥じらうぐらい白く、しかも青ざめている。幅広の額で下ぶくれしているのは、顔が異常に長いからだろう。そして惨めなほど痩せている。骨張っていて、鎖骨が痛々しく着物の上に浮き上がっているのだった。ゲンジの君は、「なぜ、余すことなく見てしまったのだろう」と良心の呵責さえ感じつつ、珍しい容貌を観察せずにはいられない。

 この姫君の頭の形や、髪の生え具合は、一般的な美人と比べても劣らないようである。長い髪が、引き摺った着物の裾より一尺ぐらい長く伸びている。着ている物のあら探しをするのは、余計なお世話のような気もするが、昔物語では最初に登場人物の衣装について記載する約束なので仕方ない。

 姫君は、淡い色を着古して、さらに白く色褪せた着物を重ねていた。その上に黒く汚れた着物を重ねている。極めつけは、仰々しく誂えた黒貂の皮衣である。たっぷり香を焚き込んで重ね着しているのだった。由緒ありそうな出で立ちだが、若い女の身なりではない。はなはだ時代錯誤である。けれども、姫君は、この皮衣が無いと寒くて凍死しそうな顔色をしている。ゲンジの君が、それを恐る恐る窺っているのだった。

 もはやゲンジの君に言葉はない。自分までもが無言な人になったような気がするが、「普段は閉じている口が開くかどうか」と実験してみる気にもなって、物語りをする。姫君は過敏に恥ずかしがり、口を袖で隠してしまうのだった。それが古ぼけていて、田舎者のようだ。儀式を取り仕切る役人が、物々しく練り歩くときの肘つきを思わせる。一所懸命に笑ってみせる姫君の顔は、奇妙な仮面じみた。ゲンジの君は、痛まれなくなって撤収することにした。

 「身寄りのない立場なのですから、深い仲になった私を嫌がらず、心を開いて欲しいものです。私を厭がっているようですから、悲しいですよ」

とゲンジの君は、姫君に問題があるようにしておいて、

 朝日差す軒のつららは溶けるけど地面を覆う氷は溶けず

と一首詠むのだった。姫君は「うう」と口ごもって笑い、返歌さえできない惨めな状態なので、ゲンジの君は逃げる。

 車を寄せた中門が無様に歪んでいた。夜に見た時は、何となく荒れ果てているような気もしたが、暗くてよくわからなかった。こうして朝に見渡すと、荒廃ぶりが恐ろしく寂しい。松に積もった雪だけがふっくらとしているのだった。山里のように閑散としている寂しい場所なので、ゲンジの君は、「雨夜の品定めで、あいつらが言っていた、草の絡まった廃屋というのは、こんな場所なのだな。確かに、悲惨な境遇の女をこんな場所に囲って、不安をを募らせたまま恋愛するのも悪くない。あの禁断の恋の傷心を癒すこともできるだろう。理想の場所ではあったが、住んでいる人が理想ではなかった。私以外の男だったら、あの人は見捨てられただろうな。私たちが結ばれたのは、常陸宮の霊魂が、娘の未来を案じたからだろう。死んでも死にきれずに引き寄せたとしか思えない」などと考えている。

 橘の木が雪に埋もれているので、ゲンジの君は家来に払わせる。それを嫉むように松の木が跳ね上がって雪を飛ばした。「名に立つ末の」という歌が思い出されて、「深い才能など必要ないから、こんなことを共有できる人がいればいいのに」とゲンジの君は見つめるのだった。車を引き出す門が閉ざされているので、鍵預かりの門番を探すと、衰弱した翁が出てきた。後を追って、娘だか孫だかわからぬような中途半端な年齢の女も出てくる。女の着物に雪が反射して汚れが目立つ。骨の髄まで寒そうな顔をして、見たこともない入れ物に火を少しだけ入れて、袖に包んで抱いている。老人が門を開けられないので、この女が隣で手伝うのだが、まったくの役立たずなのだった。ゲンジの君の家来が近づいて開門する。

 「降る雪が翁の頭を濡らしても袖濡らす我涙劣らず

幼い人は着る物もない」

とゲンジの君は、一首詠んで、漢詩の一節を口ずさむのだった。そして、鼻の先が花の色に染まった、寒そうな姫君の顔を思い出し、つい笑ってしまう。「頭中将に、あの姫君を発見されたら、きっと馬鹿にされるだろう。よく偵察に来ているようだから、そのうち発覚するな」とゲンジの君は、始末が悪かった。普通の容姿で平凡な女だったら見捨てても構わないのだが、ゲンジの君は姿を見てしまったので、可哀想で仕方ない。いつでも気にとめて、面倒をみるしかなかった。

 黒貂の皮衣は、さすがにいただけないので、絹や、綾や、木綿など、老いた女官たちの着物や、あの鍵預かりの翁にも、召使いの上から下まで残りなく貢ぎ物を贈った。こういう贈答品を拒絶する自尊心が、この姫君には無かったので、ゲンジの君は、「生活の面倒もみてあげよう」という気にもなるのだった。少し変ではあるが、差し出がましい世話までする。

 「あの夕暮れ、盗み見た空蝉の横顔も、なかなか不細工だったが、可憐な仕草が愛らしかった。常陸宮の姫君は、空蝉に身分で劣るはずもない。やはり、女は身分ではないのだ。心優しい人だったけど、憎たらしい空蝉の君には、とうとう負けたままだな」とゲンジの君は、いつでまでも郷愁に耽っている。

 

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三 ゲンジと中将の勝負。ゲンジ、末摘花に逢う

(現代語訳)
 ゲンジの君と頭中将は、今しがたの琴の音を思い出した。あの粗末な家も別世界のようで、瞼に焼き付いている。頭中将に至っては「もし、あんな場所に、お人形のような女が長年、寂しく暮らしていたとしよう。結ばれて好みの女だったら、私は恋に溺れるだろう。世間に馬鹿にされるのは必至だな。それはまずい」などと妄想する始末である。「ゲンジの君が、あんなに夢中になって通うのだから、このままで済むはずがない」と、嫉妬にも似た胸騒ぎさえ覚えた。

 当然ながら、ゲンジの君と頭中将が姫君に恋文攻撃をしたのは言うまでもない。しかし、二人に返事が届くことはなかった。頭中将は納得できず、「あんまりだ。あれほどの荒ら屋に住んでいる女なら、か弱い草花や、移ろいやすい空の風情を理解して、優しい返事ぐらい書けそうなものだ。いくら宮家の末裔だと言っても、こんなに寝惚けていては、女としては失格だな」と腹を立てている。頭中将は、同志であるゲンジの君には隠し事などしなかったので、

 「荒ら屋の君から返事が来たかい? 試しに私も簡単な手紙を送ったのだが、宙ぶらりんだよ。放置されている」

と不満をぶつける。ゲンジの君は、「やはり、この女たらしは言い寄ったな」と可笑しくて、

 「さあね。別に返事を見たいとも思わないから、見たかどうか」

と涼しい顔をするのだった。頭中将は「私は仕分けられたのだな」と憤慨する。当初、ゲンジの君は、姫君を深追いする気はなかった。無視され続けたので、白けているのだ。しかし、頭中将が求愛している事実が判明した今となっては、話が別なのである。「しつこく言い寄った方に女はよろめくだろう。挙げ句の果てに、先に言い寄った私を捨てたなんて得意げな顔をされたら、たまったもんじゃない」と思い直して、タイフの命婦を呼び出し、周到に根まわしするのだった。

 「あの意地悪な姫君が私を突き放すから、悔しくてね。きっと私のことを変態だと勘違いしているのだろう。私は不純な心なんて持っていない。いつも女の方が辛抱できなくなって、残念な結果になるのだ。うやむやに私が悪者にされてしまう。おっとりとした感じで、余計なお世話やインネンを吹っかける親兄弟のいない、人懐こい女性ならば、きっと大切する」

などとゲンジの君は饒舌になる。タイフの命婦は、

 「どうかしら。そんな優雅な雨宿りなど無理でしょう。ただ恥ずかしがっているだけで、おかしなぐらいの小心者ですから」

と事実をありのままに伝えた。

 「不器用で控えめな人なのだろう。子供のように無邪気な人も、私は好きなんだ」

とゲンジの君は夕顔の君を思い出した。

 それから、ゲンジの君は例の熱病に悩まされた。藤壺宮との禁断の恋を煩悶しているうちに、季節だけは春から夏へ。夏も終わろうとしている。

 今は秋。ゲンジの君は、そっと記憶をほじくっていた。喧しかった布を叩く音も今では懐かしく、夕顔の君が恋しい。常陸宮の姫君には大量の手紙を送っているのだが、なしのつぶてなのだった。「罰当たりめ」と怒りがこみ上げてくるが、このまま迎撃されてしまっては、この男の沽券に関わるのである。打つ手なくタイフの命婦に八つ当たりをする。

 「あの女は何を考えているのだ。私は今日まで、こんなに馬鹿にされたことはないぞ」

とゲンジの君が地団駄を踏むので、タイフの命婦は同情してしまう。

 「あたしは、不似合いな縁談だとか、そういう余計なことは何一つ言ってません。あの方は何を言っても恥ずかしがる特異体質なので返事ができないのでしょう」

と言い訳すると、

 「お嬢様にも程がある。物心つかない子供じゃあるまいし。面倒な親がいて、自分の思い通りにできないのなら、こうして恥ずかしがってもいられよう。もう、何でも判断できるだろうに。私はわけもなく寂しいのだ。同情してもらいたかった。返事をくれたら、それだけで幸せなのに。私は嫌らしいことを考えているんじゃない。ただ、あの荒れ果てた縁側で寝そべりたいだけなのだ。このまま引き下がれるわけにはいかないね。姫君が嫌がるなら裏工作してくれ。大丈夫だ、間違っても淫らなことはしないから」

とゲンジの君は淫らなことをするつもりなのだった。

 ゲンジの君は、世間の女の噂話を、さりげなく聞いているようにみせて、実は巧みに情報管理する習慣を身につけていた。タイフの命婦は、寂しい夜を紛らすつもりで、「こんな人が」と言っただけなのだが、まさかここまで火が付くとは思いもしなかった。タイフの命婦が「ややこしいことになったわ」と思ったところで後の祭りである。相手の姫君にしても、ゲンジの君と釣り合う部分が微塵もない。「こんな縁結びをして、むしろ悲劇の姫君を捏造する結果になるかも」と不安なのだが、炎上しているゲンジの君を放っておくわけにもいかない。

 常陸宮が存命の頃でさえ、忘れ去られた宮だと世間に黙殺され、閑古鳥が鳴いていた家である。今さら雑草を踏み分けて来る好き者などいるわけないのだった。そんな家に、光り輝くゲンジの君から手紙が舞い込んだのだから、若い女官たちからは笑みがこぼれた。女官たちは、「お返事を書いてください」と催促もした。しかし、この姫君は、天然記念物級の恥ずかしがり屋で、何があっても手紙を読もうとしない。

 タイフの命婦は、「ええい、面倒だわ。適当な日に物で防御して話をさせちゃいましょう。縁結びが失敗しても、あたしには関係ない。結ばれて密通するようになっても、誰も困らないわ」と、軽薄な彼女に相応しい結論を出したのだった。姫君の腹違いの兄である父、兵部タイフにも秘密にしておくことにする。

 八月二十日過ぎのことである。夜更けまで月が浮かばず、星だけが白々しく光っていた。松林に吹き寄せる風の音が悲しい。姫君は昔を思い出して泣いているのだった。タイフの命婦が、「今夜がお誂え向きね」と手引きしたのだろう、ゲンジの君が隠密でやって来た。

 やっと浮かんだ月が、荒れ果てた垣根を照らすので、姫君が不気味に眺めていると、誰かが琴を差し出した。そっと掻き鳴らすのが、そう悪くない。それでも、「もう少し今どきの自然な弾き方だったら」と浮気なタイフの命婦は落ち着かない。人気のない屋敷である。ゲンジの君は、造作なく潜入してタイフの命婦を呼びつける。タイフの命婦は、初めて知ったように驚くのだが、これは演技なのである。

 「大変なことになりました。ゲンジの君がおいでです。いつも手紙の返事がないことを恨んでいましたので、一方的に私が手引きするわけには行きませんと断り続けたら、『自分で直接話すから、もうよい』って開き直ったんです。どんな返事をしましょうか。遊びで無茶をする身分の方ではありません。痛ましいわ。物越しにでも構いませんから話を聞いてあげてください」

と姫君を騙すのだった。姫君は過剰に恥ずかしがって、

 「殿方とお話しする方法を知らないの」

と奥の方へ逃げていくのが初々しい。タイフの命婦は微笑みながら、

 「なんて子供みたいなことを。いけませんわ。この上なく身分が高い方でも、親に扶養されている時分なら、そんな子供じみたことも言えましょう。こんなに貧困を極めているのに、いつまでも世間を怖がって逃げていたら、大間違いです」

と説教する。姫君は、忠告に刃向かうことのできない小心者なので、

 「返事をしなくても構わないのなら、ここで、窓を下ろして聞くわ」

と観念するのだった。

 「縁側では失礼です。決して強引に襲ってくることはありませんから。大丈夫です」

とタイフの命婦は適当なことを言って、隣の部屋を仕切るための襖を自分で強く閉めた。隣の部屋には、ゲンジの君の座席を設置する。姫君は、恥ずかしくていたたまれないのだが、ゲンジの君のような女たらしと会話するなど、夢にも想像していなかったので、タイフの命婦が言ったことを鵜呑みにして神妙な顔をしている。

 姫君のメノトは老人なので、部屋に下がって微睡む時間である。若い二、三人の女官は、奇蹟の美男子の姿を見たくて、はしゃぎ合っている。姫君は、晴着を着せられ、身繕いされた。姫君の中身は放心状態で、魂はどこか別の場所を彷徨っているのだった。

 この男の見た目は非の打ち所がなく完璧だった。それを目立たぬよう配慮しているのも、また美しい。命婦は、「見てわかる人に見せたいものね。こんな荒ら屋じゃ見栄えもへったくれもなくて、痛々しいわ」と思うのだが、とぼけた姫君なので、馬鹿なことはしないだろうと、この点においては安心だった。ただ、「私が普段ゲンジの君に責められるのと引き替えに、この悲惨な姫君を、不幸のどん底に突き落とすことになるかもしれない」という不安もあった。

 ゲンジの君は、姫君の身の上から、「あか抜けて気取った女よりも、遥かに好印象だ」と勝手に思い込んでいる。姫君が、誰かに引っ張られて近寄ってくると、着物に燻らせた香の匂いが微かに漂った。飾り気のない女の気配を嗅ぎとって、ゲンジの君は、「思ったとおりだ」と確信する。いつものように、「ずっと好きでした」という想いなどを、粘り強く真摯に伝えるのだが、手紙の返事もしない人である。そう簡単に口を開くわけがないのだった。ゲンジの君は、「もうお手上げです」と途方に暮れる。

 「いつまでも貴方は沈黙したままで「話しかけるな」とさえ言わない

 私が嫌いなら、『黙れ』とでも言ってください。半殺しのままでは苦しいのです」

とゲンジの君が訴える。この姫君のメノトの娘で侍従と呼ばれている、やんちゃな若い女官が、見るに見かねて近寄って代返した。

 鐘鳴らし終わりにするのは淋しくて何も言えずに心は揺れる

若作りの声色で力まないように話す。代理だとわからないように猿芝居するのだった。ゲンジの君は、下品な声に想像を裏切られたような気もしたが、この姫君の肉声を聞く行為自体が斬新だったので、一首詠む。

 「そんなことを言われたら、私も何も言えません。

 言葉にはできない心と知りつつも無言でいれば苦しいばかり」

 ゲンジの君は、いくつもの白々しい話を、おどけながら、時に真面目に語るのだが、糠に釘である。まったく理解に苦しみ、「この姫君は変態か。何かいかがわしい信念でも持っている人なのかもしれない」と不愉快になり、襖をこじ開けて、ご乱入あそばされるのだった。タイフの命婦は、「非道い。私を油断させておいたのね」と、姫君を不憫に思うのだが、我関せずを決め込んで、自分の部屋に退散する。周りの若い女官も、この男が絶世の美男子であるという噂を信じて疑わないので、撃退もせず、大騒ぎもしない。ただ、この奇襲攻撃に姫君が何の覚悟もしていないのが少し気がかりだ。

 姫君はというと、恥ずかしさに混乱し、穴があったら入ろうとしている。ゲンジの君は、「初めての時は、これぐらいの方が可愛い。まだ何も知らないのだから。大切に可愛がられたお姫様なのだろう」と寛容だったが、何か違和感だけ残り、「哀れな」としか思わなかった。とても運命の人ではないという結論が弾き出されて、がっかりしたまま、夜更けのうちに撤収する。タイフの命婦は、ことの次第が心配なので聞き耳を立てたまま、天上を見つめて目をギラギラさせていた。それでも、知らぬが仏と用心して、「お見送りします」となどとは間違っても言わない。ゲンジの君も逃げるように出発した。

 ゲンジの君は、二条院に戻ると寝床に入って、「世の中は甘くないな」と思案に耽った。あの姫君の身分を考えれば、このまま放っておくわけにもいかず、悩みの種から芽が生えた。双葉になって蕾が膨らむ頃に、頭中将がやって来たのだった。

 「ずいぶんな朝寝だね。まあ理由があるんだろうけど」

と言うので、ゲンジの君は飛び起きて、

 「のんきな独り寝だからね。つい寝坊をしてしまったよ。後宮から来たのかい」

と誤魔化す。

 「そうさ。後宮から出てきたばっかりだよ。今日は、朱雀院の行幸の演奏者や舞人を決める日だ。昨日の夜に仰せつかったから父上に伝言しにね。すぐに後宮に戻らないと」

と頭中将は忙しそうだ。ゲンジの君は、「ならば一緒に行こう」と、粥や蒸し飯を持ってこさせ、頭中将と朝食を取る。車は、二台並べて引き出したが、二人は一台に同乗する。頭中将は「まだ、ずいぶん眠そうじゃないか」と茶化して、「私に多くの隠し事をしているようですね」と執念深く言った。

 この日の後宮は決議が多く、ゲンジの君は缶詰だった。ゲンジの君は、「あの姫君に、後朝の手紙を送らないと」と哀れんで送るのだが、もう日が暮れている。折しも雨が降りはじめ、ゲンジの君は、面倒くさくなったのかもしれない。タイフの命婦が言ったように、とても今夜は雨宿りする気分になれなかった。あの荒ら屋では、後朝の手紙を待ちわびているのだった。無常にも時間だけが過ぎていく。タイフの命婦は、「とんでもない悲劇の姫君だわ」と泣けてきた。姫君に至っては、恥ずかしさがふくれあがっているので、後朝の手紙などは知ったことではないようで、思考停止状態なのだった。

 「夕霧の晴れぬあなたに降る雨が雲を広げて視界を閉ざす

 いつ雲の切れ間が見えるのかと、もどかしいのです」

という手紙がゲンジの君から届いた。「どうやら今夜は来ないらしい」と女官たちは悲しむのだが、「返事だけは書いてください」と姫君を説得する。混乱の渦中にいる姫君は、決まり切った歌さえも作れそうもない。「もう夜も遅いので」と、侍従の女官が代作する。

 雨の夜に月を待ってる人がいる同じ心で見つめなくても

という歌を、「清書だけはご自分で」と姫君は何度も責められたのだった。仕方なく風化して紫色が褪せて灰色になった古い紙に、どっぷりとした古風な書体で書く。文字の上と下を揃えて散らすことのない荘厳な筆跡である。これを見たゲンジの君は、開いた口が塞がらず、そのまま捨ててしまうのだった。

 ゲンジの君は「あの姫君は何を考えているのだろうか」と想像して青ざめている。「これを、後悔と言わずして、何と言おう。しかし、後悔先に立たずとはよく言ったものだ。私が見捨てずに面倒をみるしかないよな」と達観するしかなかった。そうとも知らずに、あの荒ら屋の人々は途方に暮れているのだった。

 夜になって、左大臣が後宮を後にするのに連れられて、ゲンジの君も左大臣家に連行された。朱雀院の行幸がもっぱらの話題で、貴公子たちが集まると話が尽きない。各自が舞の稽古に明け暮れ、時間は矢のように過ぎて行った。楽器の音が普段よりも高らかと互いに競争し合って鳴り響く。普通の演奏会とは違って、大きな篳篥の笛、尺八の笛の音までもが爆音を轟かせている。貴公子たちは、太鼓持ちが持つ太鼓まで縁側の欄干に転がして、自ら叩いて遊ぶ始末だった。

 ゲンジの君は多忙を極めた。どうしても逢いたい所には無理をしても時間を作って密通したが、あの荒ら屋には近寄らないまま秋が終わった。微かな望みだけを頼りにしていた、常陸宮家の人々の想いが空中分解したまま、月日は過ぎる。

 

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二 頭中将の尾行、中務の恋

(現代語訳)
 今宵も、どこぞに密通するのだろうか。ゲンジの君は、そわそわと帰ろうとしている。

 「ミカドが、あなたは堅物で困るって、見当違いな心配をしているから、あたしは可笑しくて。まさか、こういう不純な夜歩をしているなんて御存知ないでしょうね」

と背後からタイフの命婦が茶化すので、ゲンジの君は笑って引き返した。

 「命婦、お前までそんなことを言うのか。今夜のことを不純だと言うなら、お前の恋愛は何と呼んだらいいのだろう」

と嫌味たっぷりだ。ゲンジの君が、淫らな女だと烙印して、こんなことばかり言うので、タイフの命婦は赤面したまま何も言い返せない。

 帰り際、ゲンジの君は、「母屋の方へ行けば、姫君の様子がわかるかも知れない」と忍び寄ってみた。竹を結んだ垣根が朽ちて、少しだけ残っている。その陰にへばりつこうとしたら、先客がいるのだった。「誰だ。この姫君に欲情している変質者だろうか」と自分のことを棚に上げて、ゲンジの君は暗闇に身を隠す。その人影は頭中将なのだった。

 この夕方、二人は後宮を一緒に出たのだが、ゲンジの君は、左大臣家にも行かず、二条院にも帰らない。ゲンジの君が途中で行方をくらまそうとしたので、頭中将は「あやしい。どこへ行くんだろう」と自分の密通先もそっちのけにして尾行したのだった。貧弱な馬に乗り、汚らしい普段着に変装して来たので、ゲンジの君は知るよしもない。頭中将は、ゲンジの君が、凄まじい荒ら屋に入っていくので、ますます怪しく思う。すると、琴が響きだしたので、張り込みを開始し、ゲンジの君が引き上げるのを待ち構えたのだった。そんなことも知らないゲンジの君は、自分の正体を隠すべく、抜き足差し足、庭から脱出を試みるのだが、男が近づいてきた。

 「そこの変態、私を撒きましたね。文句を言いに迎えに来ましたよ。

 道連れに夜空に浮かんだはずなのに十六夜う月は何処へ消えたか」

と毒舌なのが癪にさわったが、頭中将だとわかって、ゲンジの君は笑ってしまった。「面白いことをしてくれるね」と舌打ちしながら、一首詠む。

 その月はあまねく大地を照らすもの月の行方を追うこと勿れ

 「こうして尾行したら、君が何かやると思ってね」

と頭中将が言って、続ける、

 「良いことを教えましょう。夜這はね、優れた家来を同行させるのが成功の秘訣です。これからは私にご用命を。夜歩きは何かと危険ですから」

と余計なお世話なのだった。ゲンジの君は、今回の失態を悔しく思うが、あの撫子と呼ばれた夕顔の娘を、頭中将が未だ見つけていないようなので、かろうじて自尊心が慰められた。二人とも、次の密通先があったが、ここで別れてしまうのは気まずいのだった。一台の車に同乗し、笛の音を重ね、ふわふわと雲に隠れる月の夜道をたどって左大臣家へ向かう。

 先払いの声もなく、こっそりと左大臣家に入る。頭中将は、人のいない廊下で直衣に着替えた。何事もなかったように、ゲンジの君を訪問した振りをして笛を吹き合わせる。それを左大臣が聞きつけて、高麗の横笛など持ってくるのだった。ゲンジの君は、この楽器が得意なので見事な演奏を披露してみせる。簾の向こうでも琴が登場し、腕に覚えのある女官が搔き鳴らした。

 中務の君と呼ばれる女官は琵琶の名手だったが、今夜は放心している。彼女は、言い寄ってくる頭中将を足蹴にして、気まぐれに優しくするゲンジの君を拒みきれなかったのだった。ゲンジの君との艶聞が自然と漏れたので、アオイの母君は、「この恥知らずめ」とご立腹である。中務の君は、自分の居場所がないような気がして、寂しそうに壁に寄りかかるしかなかった。「どこか遠くへ消えてしまおう」と思うのだが、ゲンジの君と逢うことができなくなることを考えると、呼吸困難になって、苦しいのだった。

 

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一 十六夜の琴

(現代語訳)
 ゲンジの君は、あの夕顔の露のように儚く逝った人を忘れられず、何度も思い返した。年月が過ぎても悲しみは消えない。世界は、どこを見渡しても気取った面倒な女たちが、互いに牽制し合っているだけなのである。無邪気だった夕顔の君が、かけがえなく思われて懐かしい。

 そういうわけで、ゲンジの君は、「なんとかして、ややこしい身分でなく、ただ可愛いだけの、心を許せる女を見つけなくてはならない」と相変わらず、どうしようもない計画を練っている。少しでも良いと評判のある女は、もれなく情報収集してあるので、その中から可能性のありそうなのを選別し、簡単な手紙のやりとりをしているようだ。手紙を読んだ女たちはよろめいて、誰も拒絶しないので、ゲンジの君は馬鹿馬鹿しくなってくるのだった。たまに強情なのがいても、それはカマトトか嫌味な女なのである。ゲンジの君を相手に身の程知らずのようだが、意地を張り続けられずに尻尾を巻いて、つまらない男と結ばれるのが関の山なのだった。ゲンジの君は深追いする気にもなれない。

 ゲンジの君は、時々、空蝉の君の記憶も歯がゆく蘇らせる。軒端の荻にも、風に誘われて便りをしたことがあった。あの時の火影で、だらしなく碁を打っていた姿を、もう一度、覗きたいと思う。この男は過去に関わった女への妄想を忘れられない性格なのだった。

 左衛門の乳母という、ゲンジの君にとっては、コレミツの母、大弐の乳母に次ぐ大切なメノトがいた。その人の娘が後宮に仕えており、タイフの命婦と呼ばれている。彼女は、宮家の息子、兵部のタイフの娘という血筋だ。尻軽な若い女官だが、ゲンジの君は、後宮で身の回りの世話をさせるのに使っている。彼女の母親は兵部のタイフとの離婚後、筑前守と再婚して九州に下ったので、父の兵部のタイフの家を里にして後宮仕えしているのだった。このタイフの命婦が、何かのついでに、「あたしのおじいちゃんの常陸宮が、晩年に娘をもうけて猫かわいがりしていたんです。父宮に先立たれた姫君が心細く暮らしていて」と話した。ゲンジの君は「かわいそうに」と気になって血が騒ぐ。

 「性格とか見た目とか、詳しいことは知らないんです。目立たない人で、誰とも会いたがらないから、たまに仕切り布をはさんで話すだけですよ。琴が一番の友達のようですわ」

とタイフの命婦が言うので、ゲンジの君は、「琴、詩、酒は三つの友だと白楽天も言っていたね。酒だけは、女の友に良くないが」と茶化しながら、

 「その琴の音を私に聴かせて欲しい。父宮は音楽にうるさい人だったから、ひとかどの腕前だろう」

と興味津々なのだった。

 「そこまで期待して聴く価値があるかしら」

と思わせぶりにタイフの命婦が言うので、

 「ずいぶんと焦らすじゃないか。最近は朧月も浮かんでいるからね。隠密で訪ねよう。君も里に下がっていなさい」

とゲンジの君は、もう我慢できない。タイフの命婦は「面倒な事になったわ」と思いながらも、ある晴れた春の日に、緩みきった後宮を後にして、常陸宮の里に下がるのだった。

 父のタイフの君は、ここに住んでいない。それでも、タイフの命婦は祖父の常陸宮家に里帰りする。なぜなら父君の所には継母がいて、気に入らないからなのだった。

 ゲンジの君が言ったように、いざよう月が朧気に、気持ちよさそうに浮かんでいる。その夜、ゲンジの君がやってきた。

 「音が綺麗に響きそうもない夜ですのに。困りました」

とタイフの命婦は言うのだが、ゲンジの君は、

 「いいから、あっちへ行って、ほんの少しでも弾いてくれるよう頼んできてくれ。このまま手ぶらで帰るわけにはいかないね」

と強引だ。タイフの命婦は、ゲンジの君を、こんな散らかった自分の部屋に放置しておくのが申し訳なく、もったいなくも思い、姫君のいる建物へ向かった。姫君は跳ね上げ窓を開けて、梅が匂い立つ庭を見つめている。お誂え向きだと、

 「こんな夜には琴の音が冴えるんじゃないかと思いまして、ふわふわとやって来ました。あたしは、いつもバタバタしていたから、聴かせていただけなかったのが残念だったんです」

などと適当に唆す、

 「あなたのような琴の神髄を知る人が目の前にいるのに。畏れ多い後宮の女官様に、お聴かせするほどの腕前でもないんです」

と言いながらも姫君は琴を持って来させる。タイフの命婦は、「ゲンジの君は、どんな気持ちで聴くのだろう」と思って、人事ながら心拍数を上昇させた。姫君がそっと琴を掻き鳴らすと、弦の余韻が響きわたる。たいした腕前でもないが、楽器の音に特別な印象があったので、ゲンジの君は、あまり気にしなかった。「こんな荒廃した寂しい場所に、これほどの身分の女がいるなんて。かつて父君が、古風に箱に入れて育てた面影もない。どんな苦労を歩んできたのだろうか。昔話の舞台になるのは、こんな場所だろう」とゲンジの君の邪推がはじまる。接近してみようかと思うのだが、軽薄すぎるような気もして思い留まった。タイフの命婦は察しの良い人なので、ゲンジの君にこれ以上、姫君の琴を聴かせるのは良くないと、

 「曇ってきました。そういえばお客さんが来るはずだったのですが、わざと留守にしたと思われてしまいますわ。またゆっくりと聴かせて下さい。さあ、扉を閉めましょう」

と中断させた。そのままタイフの命婦が戻ったので、

 「これからだったのに。あれだけでは腕前も聴き分けられないじゃないか。忍びない」

とゲンジの君が文句まじりに興奮している。

 「どうせなら、もっと近くで聴かせて欲しい」

と頼み込むのだが、タイフの命婦は、深入りしたくなかった。

 「それはいけません。とても静かに消えそうに、寂しく暮らしているんです。これ以上は無理です」

とタイフの命婦が言うと、ゲンジの君も「それもそうだ」と同情する。「出会ってすぐに尻尾を振るのは犬だからな」と思いながらも、この姫君が哀れに思われて、「私のことを何となく伝えておいてくれ」と女好きの魂が暴れだすのを、押さえきれないのだった。

 

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末摘花の帖 (系図と登場人物の年齢)

末摘花の帖 系図

|SUWETSUMUHANA

主人公、ゲンジ十八歳の正月から十九歳の正月までの一年間。この帖は「若紫帖」と同年の正月から始まる。

 若紫 …… 十一歳

 
これまでのあらすじ

 主人公、光ゲンジは皇帝の息子である。彼の母親は桐壺更衣と呼ばれた、なかなかの美人だった。あまりにも帝が溺愛したため、周りの妾たちから反感を買った桐壺更衣は、いじめの心労から夭逝してしまう。幼くして私生児となった光ゲンジは、信じられないほどの美貌と才能を武器に、後宮を騒がせる貴公子に成長するのだった。帝は光ゲンジを皇帝の後釜に据えたかったのだが、占い師の助言により、源氏姓を与え臣籍に下した。

 桐壺更衣の死後、帝がふさぎ込むので後宮も沈んでいた。しかし藤壺女御が後宮に入内すると、再び華やぐ。何と藤壺女御は桐壺更衣に瓜二つなのだった。幼くして母親を亡くした光ゲンジは、次第に藤壺更衣に惹かれ、挙げ句の果てには理想の女性像までに祭り上げてしまう。世間は、この二人を「光る君、輝く宮」と呼んだ。

 光ゲンジは元服後、左大臣の娘であるアオイを正室に迎える。これは、私生児同然だった彼に、左大臣家という強力な後見人ができたことを意味する。左大臣の息子を皇子の嫁にと考えていた右大臣家の人々(特に弘徽殿女御)は、光ゲンジを忌々しく思うのだった。

 物忌の雨の夜、光ゲンジの部屋に貴公子たちが集まり、恋愛談義に花が咲く。話題は中流階級の姫君の話で盛り上がった。中でも、光ゲンジは、アオイの兄である頭中将が話した、内気な常夏の女(夕顔)の話に興味を持つ。これが「雨夜の品定め」である。

 中流階級の女に興味を持った光るゲンジは、地方官僚の後妻である空蝉と関係を持ってしまうのだった。空蝉は光ゲンジとの関係を後悔し、恋の泥沼を恐れて拒み続ける。光ゲンジは空蝉の弟をそそのかし、再び空蝉を襲うのだが、空蝉は夏衣を一枚残して逃げたのだった。空蝉は自らの境遇を情けなく思い、和歌をなぞって運命を重ねた。

 空蝉に逃げられて傷心の、光ゲンジは、六条の貴婦人のもとへと密通するついでに、病気である乳母の、コレミツの母を見舞う。コレミツは光ゲンジの家来でもある。光ゲンジは、コレミツの家の隣に白い花の咲く家を発見し、この家の女主人に興味を持った。女の童が扇の上に白い花を乗せて差し出すと、そこには意味深な歌が書いてある。お互いの正体を隠したまま密通がはじまった。満月の夜、光ゲンジは女を誘って、ある荒ら屋に連れ込む。その夜、光ゲンジは可憐な女に心を奪われるのだが、なんと深夜に悪霊が現れ、女を呪い殺してしまうのだった。コレミツの協力により女の密葬を済ませると、光ゲンジも病に倒れる。病気の回復後、女に付き添った女官の右近から亡き人の正体を聞くと、頭中将の愛人、夕顔なのだった。

 光ゲンジは、わらわ病の治療のため、北山の聖を訪ねる。そこで、明石に住む入道とその秘蔵娘の話を聞くのだった。光ゲンジは入道の堅物ぶりに興味を持ち、その姫君のことが気になった。

 病快復の祈祷のついでに、光ゲンジが北山の僧坊を覗いてみると、品の良い尼君と、なかなかの女官、そして可愛い少女を発見する。その少女が、憧れの人、藤壺女御にそっくりなのだった。事情を聞けば、少女は藤壺女御の姪という血筋である。光ゲンジはこの少女を手に入れて、自分の思い通りに教育してみたいと思った。

 或日、藤壺女御が療養のため実家に下がった。その隙に、光ゲンジは藤壺女御と二度目の関係を持ってしまうのだった。なんとその後、藤壺女御は光ゲンジの子供を身籠もってしまう。藤壺女御は自分の運命を呪い、帝を裏切ったことに心を痛めた。

 北山の尼君が、幼い姫君を残して病死する。光ゲンジは、この少女を引き取りたいと申し出るのだが、まだ結婚できる年齢ではなく、似つかわしくないと悉く断られてしまう。少女は父の兵部卿宮のもとへ引き取られることになった。

 父宮が、少女を引き取る日の朝、光ゲンジは少女を強引に誘拐する。そして二条院に囲い、教育を開始するのだった。この姫君は、藤壺女御と縁のある血筋なので、若紫と呼ばれた。

特別付録(二) 平安京の図

平安京の図

|平安京

『源氏物語』の舞台の多くは平安京である。

特別付録(一) 後宮の図

後宮の図|後宮

後宮が舞台となる物語

「桐壺」「帚木」「花宴」「賢木」

八 ゲンジ、若紫を二条院に拉致する

(現代語訳)
 ゲンジの君は左大臣の屋敷にいた。例の正室は、そう簡単には顔を出さない。ゲンジの君は、苦虫を噛み潰して和琴を引っ掻き鳴らすのだった。「常陸には田をこそ作れ、あだ心、や、かぬとや君が、山を越え野を越え、雨夜来ませる」と鄙びた歌を颯爽と歌う。

 コレミツがやって来たので、呼び寄せて報告させる。「明日に兵部卿宮が迎えに来るらしいのです」と答えるので、ゲンジの君は窮地に立たされた。「父宮の手に渡ってから求婚すれば、変態扱いされるだけだ。子供を誘拐したと白い目で見られる可能性もある。ならば、しばらくの間、女官たちに箝口令を出して、先手を打とう。やはり誘拐するしかない」と企てる。コレミツに、

 「夜明けにあそこへ行く。車をそのまま待機させておけ。家来を一人か二人だけ準備させろ」

と命令した。コレミツは頷いて準備にかかる。ゲンジの君は、「厄介なことになるな。世間に知れたら手癖の悪い男だと馬鹿にされるだろう。せめて、あの子が情交を知る年頃だったなら、女が私に絆されたとでも言い訳ができるし、よくある話だと誤魔化せるのだが。もし兵部卿宮に捜索でもされたら、恥ずかしいだけでは済まされまい」と思い悩むのだが、今しかチャンスがないので、そんな悠長なことも言ってられない。まだ暗いうちに襲撃しようと決めた。アオイはいつものように仏頂面で硬直している。

 「二条院で片付けなくてはならない仕事を思い出しました。すぐ戻ってきますよ」

と適当な言い訳をして逃げるように出かけるので、女官たちは誰も気がつかない。自分の部屋で直衣を身にまとい、馬に乗ったコレミツだけを連れて出撃する。

 コレミツに門を叩かせると、何も知らない者が開門する。すかさず車を中に引き入れるのだった。コレミツが入り口の開き戸を叩いて、咳払いをひとつ。それを察した少納言の乳母が近寄ってくる。

 「ゲンジの君がここにいます」

とコレミツが言うと、

 「姫様は寝ています。いったい何時だと思っているのですか? どこから朝帰りしたのやら」

などと少納言の乳母は、密通帰りに立ち寄ったと勘違いしている。

 「兵部卿宮に引き取られると聞いたので、その前に話をしようと思っているのですよ」

とゲンジの君が言う。少納言の乳母は、

 「いったい何のお話しでしょうか。たいした返事もできないでしょうに」

と一笑する。それでもゲンジの君が侵入を試みるので、少納言の乳母は驚いた。

 「いけません。汚らしい年寄りが無防備に寝ています」

と制するのだが、ゲンジの君は、

 「姫君はまだ寝ているのですね。私が起こしてあげましょう。この綺麗な朝霧を知らずに寝ているなんて」

と侵入するのだった。「あっ」と阻止することもできない。幼い姫君は無邪気に睡っていたが、ゲンジの君が抱き起こすので目を覚ます。父の兵部卿宮が迎えに来たのかと寝ぼけている。ゲンジの君が、姫君の髪の毛を掻き分け、撫でてながら、

 「さあおいで。私はお父様のお使いです」

と言ったので、人違いだと気がついたのだった。姫君は、唖然としたまま顔が引きつっている。ゲンジの君は、

 「怖がらないで。私だって父宮と同じ人間ですよ」

と抱きかかえて連れ出そうとした。コレミツも少納言の乳母も、「何ということを」と呆気にとられている。

 「ここに来るのさえままならないのだから、安全な場所に連れて行きますと言ったでしょう。それなのに兵部卿宮に引き取られていくなんて非道いです。今まで以上に連絡が難しくなっては困りますから。誰か一人だけ付いてきなさい」

とゲンジの君が無茶を言う。少納言の乳母は狼狽した。

 「今日だけはなりません。兵部卿宮様がいらっしゃったら、何と説明できましょうか。時が過ぎてから自然と結ばれるのなら、それは仕方ありません。でも、何も知らない子供なんです。そんなことになったら、私たち女官が苦労するだけでしょう」

と訴えるのだが、ゲンジの君は、

 「嫌なら来なければよい。来たい人が後から来なさい」

と強引に車を寄せさせたのだった。女官たちは開いた口が塞がらない。始末に負えず狼狽えていた。姫君も「ゲンジの君は、狂ってる」と思って泣く。少納言の乳母は、打つ手なく、昨夜に縫った着物などを抱えて、身なりを整え、慌てて車に乗り込んだ。

 二条院は近くにあるので、夜明け前に到着した。ゲンジの君は、西の建物に車を寄せて降りる。姫君をいとも簡単に抱き上げて、車から下ろすのだった。少納言の乳母が、

 「まだ悪い夢を見ているようです。どうして良いかわかりません」

と逡巡している。ゲンジの君は、

 「あなたの好きにすればいい。この姫君は預かりました。あなたが帰りたいのなら、送りましょう」

と冷たい。少納言の乳母は、おぞましく思いながらも下車するのだった。突然のことに、ただ驚き、呆れるばかり。胸の鼓動が収まらない。「兵部卿宮様に叱られる。これから姫様はどうなってしまうのかしら」などと考え、「頼りにする人が次々と先立ったのが不幸の始まりなのね」という結論に達するのだった。泣いてしまいたいのだけど、今は不吉なので、必死に堪えて目をギラギラさせている。

 ここは使われていない建物のようで、仕切り布などはないのだった。ゲンジの君はコレミツを呼んで、仕切り布や屏風などを、あちらこちらに配置させる。布を引っ張り、居場所を作ると、すぐに使える部屋になった。ゲンジの君は、東の建物から夜具などを持ってこさせて寝るのだった。姫君は、何をされるのかと怖くてぶるぶる震えているのだが、声を上げて泣いたりはしない。

 「少納言と一緒に寝る」

と言う声が幼い。

 「今日からは少納言と一緒に寝てはいけませんよ」

とゲンジの君がたしなめるので、姫君は寂しくて泣きながら寝る。少納言の乳母は寝る気も失せて、放心していた。

 だんだんと夜が明けてゆく。少納言の乳母が周囲を見渡すと、建物の構造や飾りが、びっくりするほど立派だった。庭に撒いた砂が玉を重ねたように煌めいている。少納言の乳母は、自分の居場所が無いような心地なのだが、ここには自分以外の女官はいないのだった。形式的に客人を応接する建物のようで、警備の男たちだけが、スダレの外で見張りに立っている。今回、ゲンジの君が女を連れてきたと知った者は、「誰だろう。よっぽどの女だろう」と噂した。ゲンジの君の洗面具と朝粥が、この建物に運ばれる。ゲンジの君は、日が昇りきった頃に起床して、

 「女官がいないのは良くないな。夕方になってから適当な人を呼びなさい」

と言った。それから、東の建物にいる女の童を呼び寄せる。「小さい子だけ集まれ」と言ったので、可愛らしい子供が四人ほど遊びに来た。姫君はゲンジの君の着物に包まれて眠っていたが、無理矢理起こされる。

 「いつまでも不貞寝はいけません。私が変質者だったら、こんなに優しくしませんよ。女の子は思いやりが大切なのだから」

と早くも調教がはじまったのだった。姫君の顔は遠くから見るよりも、ずっと綺麗だ。ゲンジの君は優しく語りかけ、面白い絵や玩具を取り寄せては、見せ、媚びを売る。起き上がってゲンジの君を見つめる姫君は、着古して柔らかくなった鼠色の喪服を着ていた。姫君が、無邪気に笑ったりすると、ゲンジの君は嬉しくて、自然と笑みがこぼれてしまうのだった。

 ゲンジの君が東の建物に渡ってしまった頃、姫君も立ち上がり、庭の木々、池の方角を覗いた。霜に枯れた植え込みは、絵に描いたようで、見たこともない四位、五位の貴公子たちが、黒や赤の正装を身にまとって行き交っている。姫君は「本当に素敵な場所」と思った。屏風に描かれた華やかな絵を見て惚れ惚れしているのだから他愛ない。

 ゲンジの君は、二、三日も後宮には行かず、この姫君を懐かせるのに余念がなかった。そのまま手本にするつもりで、習字や絵をたくさん書いて見せる。どれも見事に書いて取り集めた。姫君は「武蔵野は知らない場所でも愚痴が出る きっとそれは紫だから」と墨の具合が絶妙な、紫の紙に書いてある一枚を取り出して魅入っていた。それには小さな文字でゲンジの君の和歌が、

 根っこまで見ずに恋する武蔵野の露もえにしは紫の花

と書いてあるのだった。

 「さあ、小さい紫の君、あなたも書いてごらん」

とゲンジの君が言う。

 「うまく書けないの」

と見上げる若紫の顔があどけなく、可愛くて仕方ないので、ゲンジの君が微笑みながら、

 「うまく書けないからって、何も書かなかったら上達しません。私が教えてあげましょう」

と言う。若紫は横を向いて何かを書き始める。その手つきや、筆づかいが危なっかしい。ゲンジの君は「何でこんなに愛おしいのだろう」と自分が狂っているのを自覚して、不思議に思った。若紫が「書き間違えた」と恥ずかしがって隠すので、無理矢理奪って見てみると、

 根に持った理由もわからず生える草どんなえにしがあるか知りたい

と子供らしく書かれているのだった。それでも筋が良さそうで、将来が楽しみである。ふくよかに書かれた文字は、亡き尼君の文字を彷彿させる。ゲンジの君は「今めいた文字を覚えたら、どんなに良く書くだろうか」と思うのだった。人形遊びをするにも、ゲンジの君は、わざわざ家を作って並べては、若紫と一緒に遊んだ。そうしていると藤壺宮への想いも薄らいで、これ以上ない気晴らしになるのだった。

 荒ら屋に残された女官たちは、迎えに来た兵部卿宮の尋問に答える術がなく戸惑った。ゲンジの君が「しばらくは誰にも言うな」と箝口令を出している。少納言の乳母もそれに同意しているので、何も言えない。ただ、「少納言が連れ出して隠したようで、行方不明です」とだけ答えるしかなかった。兵部卿宮も諦めたようで、

 「亡くなった尼君も姫を私に渡したがらなかったからね。メノト風情が余計な心配をしたんだろう。一言、渡すのは困ると言えばいいものを、勝手にどこかに連れて行ってしまったんだね」

と渋々、帰るのだった。

 「もし見つけたら教えるように」

と言う兵部卿宮の言葉に、女官たちは耳が痛かった。兵部卿宮は僧都にも姫君の所在を聞いてみたが、さっぱり行方知れずだ。兵部卿宮は、姫君の惜しむべき美貌を思い出し、恋しくも悲しくもあった。北の方も、姫君の母親への恨みさえ忘れて、思い通りに教育しようと思った矢先の肩すかしだったので、残念で仕方ない。

 だんだんと二条院にも女官たちが集まってきた。若紫の遊び相手の女の童は、今をときめく二条院の風情を喜び、元気いっぱいに遊んでいる。若紫は、ゲンジの君が留守の夕方など、尼君を思い出して泣くことがあったが、兵部卿宮のことは、どうでも良かった。はじめから別居していたのだから、今は新しい父親を慕って、本当の兄妹よりも仲良くじゃれついている。若紫は、ゲンジの君が帰ってくると真っ先に出迎えて、何でも話した。胸に抱かれても嫌がったり恥ずかしがったりしない。ゲンジの君は、そんな若紫の仕草を言葉にできないぐらい愛おしいと思った。

 通常、大人の恋は駆け引きである。そのうち面倒くさくなって、恋心に亀裂が走るのが世の常だ。男は女への気持ちを再確認し、女は男に嫉妬ばかりする。だから諍いが自然と絶えないのだ。でも、これは恋愛ごっこだから心配ない。普通は実の娘でも、これぐらいの年齢になれば、父親に、何もかも許して一緒に寝たりはしないだろう。なので、「こんなに特別な関係で、大切に思える妹は、若紫の他にいない」とゲンジの君は思っているらしいのだった。

 

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七 兵部卿宮、若紫を訪問する

(現代語訳)
 ゲンジの君が帰った、ちょうどその日のことである。幼い姫君の父である兵部卿宮がやって来た。古びた広大な屋敷が、いっそう風化している。兵部卿宮は、少人数でひっそり暮らしている様子を見渡して、

 「小さな子供が、こんな所で暮らせるわけがありません。やはり私の家に引き取りましょう。心配なさるほど居心地の悪い場所じゃありませんよ。少納言の乳母には、部屋を用意しましょう。姫君には小さな異母兄弟もいますから、一緒に遊んでもらいなさい。とても楽しいですよ」

と言って幼い姫君を近くに呼び寄せる。昨夜のゲンジの君の移り香が残っていて悪趣味極まったが、

 「おや、良い香りだね。でも、着物が皺くちゃだ」

と兵部卿宮は、気が付かずに痛ましくさえ思った。

 「いつも病気ばかりしている老人と一緒にいるより、たまにはこちらに遊びに来て、家族水入らずに過ごしましょうと言っていたのですが、お祖母様は、決して許しませんでした。それで、北の方が臍を曲げたのです。こんなことになってから姫君を引き取るのも、気が引けますね」

と兵部卿宮が言うので、少納言の乳母が、

 「そうでございましょう。覚束ない人ですから、しばらくはここで育てさせてください。もう少し分別が付くようになってから引き取られたほうがよろしいのではないでしょうか」

と理解を求めるのだった。

 「夜も昼も構わず、お祖母様恋しさに泣いておりますので、食欲もないみたいなんです」

と少納言の乳母が説明する。確かに姫君はやせ細ってしまった。それが、凛々しく、可愛らしいので、むしろ美しさに磨きがかかったようだ。

 「どうして泣くのかい。死んだ人は生き返らないんだよ。お父様がいるではないですか」

と兵部卿宮が幼い姫君を慰める。日が暮れる前に兵部卿宮が帰ろうとするので、幼い姫君は「寂しい」と泣いた。兵部卿宮も貰い泣きする。

 「そんなに泣いたら駄目だよ。今日、明日のうちにお迎えに来ましょう」

と兵部卿宮が、色々とあやして、やっとの事で帰る。その後も幼い姫君は、寂しくて泣きじゃくった。自分の将来のことを考えて泣くのではなく、ただいつも一緒だった尼君が、今はもういないのだと思って泣くのである。幼心にも、胸が潰れる思いがして、いつものように楽しく遊べない。それでも昼間は我慢しているのだが、日が暮れると気が滅入ってしまうのだった。「こんな様子で、どうやって生きていくのかしら」と慰める言葉がなく、少納言の乳母たちも泣くしかなかった。

 その夜、ゲンジの君はコレミツを遣わした。

 「今夜もそちらに行くはずだったのですが、ミカドから呼び出しがあって行けません。いたいけな人が心配です」

と伝言して、今夜の警備はコレミツがする。

 「嫌なこと。悪ふざけだとしても、結婚したつもりでいるようね。手の混んだことまでして」

 「兵部卿宮様に知れたら、付き人の不注意だって叱られるわ」

 「大変。姫様、うっかり口を滑らせて、父宮様にゲンジの君の話をしないでくださいね」

などと女官たちは気を揉んだ。幼い姫君は、意味を理解していないらしく、まったく話にならない。少納言の乳母が、コレミツに不満をぶつける。

 「時間が経って、もしお二人が運命の人であれば、逃れられない結婚でもありましょう。ただ、今は不釣り合いの二人ではないですか。幼い姫様に言い寄ったりして気持ち悪いので、いったい何を考えているのかと警戒してしまいます。今日、父宮様がいらっしゃって、『変態には気をつけなさい。くれぐれも間違いの無いように』と釘を刺していきました。そんなことを言われたばかりなのに、こんな卑猥なことをされるのは迷惑なのです。今まで平和に暮らしてきたのに」

と訴えながら、「この人に、姫様が何か変態めいた行為を受けたと誤解されたら困る」と思い、悲鳴を上げてばかりもいられなかった。コレミツも、「いったい何ごとか」と釈然としない。

 コレミツが戻ってから状況を報告する。ゲンジの君は、幼い姫君を不憫に思うが、夫婦のように通うのも下品な気がするのだった。世間から、変態が血迷ったと馬鹿にされるのも癪なので、「もう誘拐するしかない」という結論に至る。

 ゲンジの君は性懲りもなく幼い姫君に手紙を差し出した。日が暮れると、いつものようにコレミツを使者に飛ばす。

 「事情があって行けないのですが、薄情だと思っておいでですか」

と手紙には書いてあるのだが、少納言の乳母は、

 「兵部卿宮様が、明日、急に迎えに来ることになりまして、立て込んでおります。長年住みなれた雑草の茂る家ですが、離れるのは寄る辺なく、女官たちも戸惑っています」

と言葉数少ない。適当にあしらわれたコレミツは、縫い物や引っ越しの準備に慌ただしいようなので、撤収することにした。

 

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六 尼君、ゲンジに若紫を托して他界する

(現代語訳)
 あの山寺の尼君が、小康状態になって戻って来た。ゲンジの君は、性懲りもなく、都にいる尼君の元へ手紙を送り続ける。当然、返事はいつも一緒だった。しかし、ここ数ヶ月は、いつもより波瀾万丈だったため、他のことに手を付けている暇もなく、時間だけが流れてしまったのだった。秋が終わる頃になると、ゲンジの君は、無性に寂しくなって溜息ばかりついていた。月が気持ちよさそうに浮かんでいる夜だから、重たい腰を持ち上げて、密通にでも出かけようと思ったとたんに、通り雨である。目的地は六条京極だ。後宮から出発したので、ゲンジの君は、「少し遠い」と思った。途中、風化したボロ家があり、鬱蒼としている木立を見つめていると、いつも一緒にいるコレミツが、

 「アゼチの大納言の家ですよ。先日、近くに来たついでに寄ってみたのですが、あの尼上が衰弱しています。お先真っ暗だと嘆いていました」

と言うので、ゲンジの君は、

 「可哀想だな。見舞いに行けば良かった。教えてくれたら良かったのに。中に入って、私が来たと伝えてくれ」

と命令する。家来を中に入れて取り次ぎを求めた。「わざわざこのために来ました」と伝えるように指図して抜かりない。家来が中で、

 「今そこに、お見舞いに来ています」

と言うので、尼君の取り次ぎは仰天する。

 「どうしましょう。ここ数日は容態が悪化しておりまして、面会謝絶でございます」

と言ってみたところで、門前払いできない相手である。南側の廂の部屋を片付けて、ゲンジの君を応接した。

 「汚い場所ですが、せめてお見舞いの、お礼だけでも。時ならぬ時なので、こんな、むさ苦しい座敷で恐縮です」

と取り次ぎが言い訳する。ゲンジの君も、「これは本当に、むさ苦しい場所へ来てしまった」と思う。

 「いつもお伺いせねばと思っていたのですが、私など相手にして下さらないようですので、いじけていました。こんなに重症だとは知らなくて」

とゲンジの君が言う。

 「長年患っている病気ですが、そろそろお迎えが来るのでしょう。わざわざご足労頂いて恐縮しております。面会できない無礼をお許し下さい。あなたのお気持ちは承知しました。もし、そのお気持が、いつまでも変わらないのでしたら、私の孫がそれなりの年齢になってから、あなたの女君たちの末席にでも加えて頂ければ幸いです。将来の覚束ない幼い人を残して行くと思うと、死んでも死にきれない心地がします」

と尼君が答える。近い場所にいるようで、息切れした声から動揺が伝わってくるのだった。

 「本当に身に余る思いです。この姫君が、せめてでも、ご挨拶できる年齢ならば」

と尼君が続ける。ゲンジの君は同情し、

 「どうしてそのようなことを言うのですか。いい加減な気持ちでは、こんな色魔のようなお願いはできません。運命の糸で繋がっているのですよ。姫君を初めて見たときから胸騒ぎがして、忘れられません。私には、不思議と前世でも契っていたことだってわかるのです」

などと言い出す始末である。そして、

 「いつもは片思いですが、どうかあの可愛らしい姫君の声を聞かせて下さい」

と言ってしまった。

 「そんなことも知らずに、あの子は寝てしまいました」

と尼君の取り次ぎをする側から、バタバタと近づいてくる足音がする。

 「おばあさま。お寺にいたゲンジの君が来たんだよ。どうして見に行かないの」

と脳天気だ。女官たちは体裁の悪さに「静かになさい」と制す。

 「でも、ゲンジの君にお会いしたら、おばあさまは病気が治ったって言っていたもの」

と自分では一理あると思って得意げだ。ゲンジの君は面白くて仕方ないのだが、女官たちが慌てふためいているので、聞こえないふりをする。ありったけの見舞いの言葉を伝えて、その日は撤収したのだった。「本当に子供なんだな。でも、ちゃんと教育したら」などと相変わらずである。翌日も、ゲンジの君は尼君に心を込めて見舞いの手紙を送った。例のごとく、小さく結んだ恋文も忘れずに。

 「雛鶴のひと声聞いたその日から舟を浮かべて葦をさまよう

 私の一途な気持ちは変わりません」

と子供でも読める筆跡で書いた。それが良く書けていて、女官たちが「お習字のお手本にでもしたい」と言うほどなのだった。返信は少納言の乳母がする。

 「お見舞い頂きました尼君は危篤でございます。明日をも危ぶむ容態なので山寺に戻りました。このようなお便りを喜ばれて、あの世からお礼を申し上げるでしょう」

とあった。ゲンジの君の胸が痛む。秋は夕暮れ。ゲンジの君は、絶え間なく心を震わせる人に想いを飛ばしたのだった。「その人と近親な人を手に入れたい」と追い詰められたりもするのだろう。尼君が「自分の消える空がない」と詠んだ、あの夕方のことを思い出した。あの時見た美少女が恋しくもあり、見込み違いだったらどうしようかと弱気にもなり、一首詠んだ。

 いつの日かこの手に摘もう藤の根に続いて咲いた野辺の若草

 十月になると、ミカドが朱雀院へお出ましになる。舞う人には、上流家庭の子息や、高級官僚、殿上役人でも、音楽の才能がある者は手当たり次第、かき集められた。皇子たちや大臣も例外では無かったので、皆、稽古に余念がない。ゲンジの君も忙しかった。山里の尼君を久しく見舞っていなかったことを思い出して、ゲンジの君は、ことさらに使者を飛ばした。しかし、僧都から返事があっただけだった。

 「先月の二十日過ぎに姉が他界しました。世のことわりとは知りながら悲しみに暮れております」

と書いてあるのを見て、ゲンジの君は、「儚い」と思った。「尼君が案じていた幼い姫君はどうしているだろう。子供っぽい人だったから、お祖母様が恋しくて泣いているに違いない」と、自分が母の御息所に先立たれた時のことなどを漠然と思い出し、厳粛に弔う。少納言も丁重に対応した。

 葬儀の後始末が過ぎて都に戻ったという情報を知った数日後、ゲンジの君は暇を見つけて、夜に自ら訪ねた。人の気配がない場所の廃墟めいた建物なので、「幼い人が、どれだけ怖がっているだろうか」と余計な心配もしてみる。例の南の廂の座敷に通されて、少納言が涙ながらに今際の物語りをするので、ゲンジの君も自動的に貰い泣きをしたのだった。

 「父親の兵部卿宮の屋敷に引き取って貰うことになっています。姫のお母様が、いじめられて苦労しておりましたし、この子は、何も理解できない子供というわけでもなくて、それでも、世渡りができる年齢でもありません。こんな中途半端な子供が、大勢の子供の中でやっていけるものだろうかと尼君がいつも心配していました。あながち杞憂でもないので、あなたの無計画な言葉でさえ、無謀だと思いつつ有り難く思わずにいられません。ただ、どう考えても、あなたに相応しい所が見つからないのです。それに、実際の年齢よりも子供じみているのが、恥ずかしくて」

と少納言の乳母が言う。

 「なぜ、何度も同じ事を言わせるのですか。そんなに牽制されなくても良いでしょう。その幼い人を、私は好きになってしまいました。冷静に考えても、私たちは何か特別な縁で結ばれているとしか思えません。あなたに話しても無駄ですね。直接、姫君と話をさせてください。

 寄せ返す波になっても繰り返せ 幼い姫を一目見るまで

 私を馬鹿にしているのですか」

とゲンジの君に火が付いた。少納言の乳母は、

 「お気持ちの無駄遣いを」

と言って、

 「寄せ返す波に打たれてなびくのは玉藻ぐらいの軽い浮き草

 滅茶苦茶ですわ」

と当意即妙に返す。馴れた様子なので、ゲンジの君は許してやる気にもなるのだった。鎮火させられたゲンジの君が「なぞ越え難き逢坂の関」と和歌のさわりを口ずさむから、若い女官たちがよろめいている。

 幼い姫君は尼君が恋しくて、夜泣きしているのだが、遊び相手の子供達が、「直衣を着た人がいるよ。兵部卿宮様が来たんだよ」と言うので起き上がった。

 「少納言、直衣を着た人はどこ。お父様なの」

と言って、少納言の乳母に近寄る声が可愛い。

 「私は宮様ではないよ。だけど、あやしいお兄さんでもないから、こっちへおいで」

とゲンジの君が言った。幼い姫君は、「あの綺麗な人だ」と咄嗟に察知して、「変なことを言っちゃった」と恥ずかしいのか、少納言の乳母の近くへ逃げた。

 「あっちへ行こう。眠い」

と誤魔化す。

 「もう怖がらなくてもいいんだよ。この膝の上で睡りなさい。さあこっちへ」

とゲンジの君が言うので、少納言の乳母が諦めてもらおうと、

 「申し上げたとおり、こんなに子供ですから」

とゲンジの君の前に姫君を押し出す。姫君は邪気無くぺたんと座るのだった。仕切った布に手を滑らせて探ってみると、くたびれた着物の上に、さらさらとした髪の毛の感触があり、可愛らしい子供なのだと知れた。そっと手を握ると、姫君は、知らない人が近くにいるのが気持ち悪くて、

 「ねむい」

と手を引っ込める。その手の軌道に沿ってゲンジの君が滑り込み、

 「これからは私があなたのお兄さんだ。嫌いにならないで」

と言うのだった。少納言の乳母が、

 「いけません。何ていう無茶なことを。どんなに話しても無駄ですから」

と真っ青になっているので、ゲンジの君は、

 「いくら私でも、こんな幼い人には発情しません。私の真剣な想いを見守ってやってください」

と言うのだった。

 外は霰が降り乱れ、おぞましい夜である。

 「少ない人数で、こんな物騒な場所に暮らすのは無理だ」

とゲンジの君が涙まじりに言う。このまま見捨てて帰るのは、彼の助平心が許さなかった。

 「跳ね上げ扉を閉めなさい。こんな恐ろしい夜だから、私が姫君の家来になってお守りしましょう。みんな近くに集まりなさい」

と馴れ馴れしく、当然のように部屋の中へ入ってくる。ゲンジの君が、大それたことを平然とやってのけるので、一同、呆れて唖然とするのだった。少納言の乳母は困り果てて焦るのだが、騒いでも仕方ないので、溜息を漏らす。観念したようだ。幼い姫君は、ただ恐ろしくて自分の置かれている状況を理解できず震えている。美しい肌が寒気で毛羽立っているのを、ゲンジの君は可愛らしく思う。ゲンジの君は、姫君に肌着だけを着せたまま、包み込むように抱き上げる。一瞬「私は変態かも知れない」と自覚したが、細かいことはどうでも良かった。じっくり幼い姫君と物語る。

 「私の所へおいで。綺麗な絵がたくさんあって、お人形遊びもできます」

と気を引くような話をするのが、とても優しいので、姫君は、幼心にも恐怖が薄れていくのがわかるのだった。それでも気色悪くて眠れないから、そわそわしながら寝っ転がっている。

 夜風が強く、吹きやまない。

 「こうしてゲンジの君が来て下さらなかったら、どんなに恐ろしかったかしら」

 「どうせなら、姫様がお似合いの年頃であって欲しかったわ」

などと女官たちが小声で話していた。少納言の乳母は、心配なので近くで監視をし続ける。風が少し弱まった頃、まだ暗い夜のうちに引き上げるのが、なんだか秘め事めいている。

 「こんな可愛い人を見てしまった今は、もう片時も忘れることができません。私が退屈しながら暮らしている屋敷に連れて行きましょう。いつまでも、こんな所にいてはいけません。姫君は私を怖がりませんでしたよ」

とゲンジの君が言うので、少納言の乳母が、

 「兵部卿宮様も迎えに来ると仰せですが、尼君の四十九日が終わってからと思いまして」

と答える。ゲンジの君は、

 「確かに兵部卿宮は頼りがいのある人だ。でも、今まで別に暮らしていた人ですよ。他人のように思うでしょうね。私たちの出会いは始まったばかりですが、この気持ちはお父上に負けないつもりです」

と髪を掻き上げて、振り返りざまに去ったのだった。

 濃霧に包まれた空が、いつもと違って見える。地面には真っ白な霜が立った。ゲンジの君は、「本当の別宅帰りだったなら」と思って、今朝は少し物足りない。いつも隠密に通っている女の家を通り過ぎる頃に思い出して、門を叩かせた。それを聞く人がいないので、仕方なく、いちばん声の張る家来に命じて、歌を読ませる。

 夜明けまえ霧立つ空に迷っても素通りできぬ人の家かな

と二回ばかり繰り返して読むと、家の中から賢そうな女中が出てきて、

 立ち止まる霧の垣根を過ぎ去れば草の扉が開くあけぼの

と言ったまま中へ引っ込んでしまった。それから何も起きなかったので、「このまま帰るのも、つまらない」と思いながら、開けてゆく空の下を、とぼとぼと二条院へ戻った。

 あの可愛らしい幼い姫君の面影がちらついて仕方ないので、ゲンジの君はニヤニヤしながら睡った。日が昇ってから起床し、手紙を書こうと思うのだが、いつもと勝手が違う。書くべき歌も恋人宛ではないので、筆を置いて、思うままに任せる。綺麗な絵を一緒に添えて。

 

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